日本人部隊「442連隊」の活躍

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日系部隊「第442連隊戦闘団」とは

第442部隊の訓練場ではハワイ兵と本土兵が一緒だったが、バックグラウンドの違いから両者の間には対立が絶えなかった。手を焼いた上層部が、ハワイ兵を訓練所から最も近いジェローム収容所へ見学に行かせた。イノウエ議員もその1人だった。議員は述懐する。「行きは遠足気分だったのに、帰りは皆、無言でした。ほとんどの人が同じことを考えていたのではないでしょうか。もし自分がこの中に入れられたとしたら、それでも志願しただろうか、と」
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前線に出ることが唯一の生きる道

太平洋戦争開戦前年の1940年、政府は全米で徴兵制度を再導入した。同時にハワイ領防衛軍も正式に米軍の一部となり、3千人余りが徴兵された。パールハーバー攻撃後、米軍が頭を痛めたのが、その半数にあたる日系兵士の扱いだ。軍部はミッドウェー海戦の勝敗いかんで、日本軍がハワイに侵攻する可能性大と見ていた。日本兵が米軍の軍服に身を包んで紛れ込むと見分けがつかない。そこで出した対策が、日系兵士を集めて本土へ送ることだった。
 
こうして生まれたのが、ハワイの日系兵からなる「第100歩兵大隊」だ。彼らは極秘裏にミシシッピ州の訓練場に送られたが、第100大隊という呼称に、軍の戸惑いが見え隠れする。通常、師団の下に連隊があり、連隊は第1~第3大隊で成り立つが、日系兵士の大隊には、所属すべき連隊や師団がなかった。そもそも戦場に送り出すのが目的で結成された大隊ではなかったからだ。100という突拍子もない数字は、とりあえず訓練場に送り込まれた兵士たちの立場を象徴していた。彼らは自分たちのことを「ワンプカプカ」と呼んだ。ハワイ語でプカは穴という意味。その延長でゼロもプカという。
 
前述のイノウエ議員の言葉にもあるように、日本軍の奇襲を目の当たりにした彼らは、自分たちの置かれた立場に、さらに危機感を募らせていた。訓練で良い成績を残し、一刻も早く前線に出て忠誠心を示すのが、唯一の生きる道だと考え、モットーはあえて「リメンバー・パールハーバー」と決めた。訓練で彼らは驚異的な成績を残した。重機関銃の組み立ては陸軍平均で16秒だったが、第100大隊が残した平均記録は5秒だ。重機関銃分隊の行進は、普通1時間4㎞のペースのところ、彼らは1時間5.3㎞のペースで8時間ぶっ通しで歩いた。だがこの時点で、第100大隊が戦場に出る可能性はゼロに等しかった。
 
なぜなら米軍は開戦後、日系人の志願を禁止していたからだ。軍部では「日系人の忠誠は信用できないため、前線に出すべきではない」という意見が大勢を占めていた。この不信感を覆したのが、ワンプカプカの優秀な訓練成績であり、ハワイ大学の学生たちが結成したトリプルV(Varsity Victory Volunteers:学生必勝義勇隊)の活動だった。
 
ハワイ大学の学生たちは、当時ROTC(予備士官訓練)が義務付けられていたが、開戦後早々に、日系人学生だけが突然解任された。そこで彼らは嘆願書を出して部隊の編成を求め、忠誠を示すべくトリプルVを名乗って道路工事などの肉体労働に精を出していた。本土でも日系二世から成るJACL(Japanese American Citizens League:日系市民協会)が、日系部隊編成に向けてロビー活動を行った。
 
彼らの必死の行動が、陸軍トップであるマーシャル参謀長の心を動かし、日系人の志願を可能にした。1943年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊戦闘団の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして彼らは、晴れて「アメリカのために死ねる権利」を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。
 
志願兵募集に、ハワイでは募集人員の10倍にあたる若者が殺到したが、本土の兵役年齢にある日系二世男子のうち志願したのは、わずか約5%だった。強制収容所にいた二世たちの、苦しい胸のうちが透けて見える。
 
「志願したと伝えると、『お前はオレたちよりも偉いわけじゃない。現にこうして収容されているじゃないか。そんなことをすれば、日本の家族はどう感じるんだ』と非難されました。でも私は言ったんです。『今ここにいるのは、これまで何もしてこなかったからだ。今がチャンスなんだ。ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる。生きて帰って来れないかもしれないが、それでも価値があるんだ』と」(元442連隊のケン・アクネさん)。

ここで志願して自分たちを証明しないと日系人の将来はないし、それは僕たちのせいになる

第442連隊戦闘団は、休む間もなく失われた大隊救出の命令を受けた。この理由は明らかではない

イタリア戦線の活躍で442連隊は「司令官が欲しがる部隊」に
1943年9月8日、連合軍によるイタリアのサレルノ上陸作戦でイタリアが降伏し、イタリア各地はドイツ軍によって制圧された。ローマ入城を目指して第100大隊がサレルノに上陸したのは、同月22日。初戦から「前線で決して振り返らない兵」と称賛を得たが、彼らが真の勇敢さを発揮したのは、モンテ・カッシーノの戦いだ。カッシーノはドイツ軍が連合軍のローマ侵攻を防ぐために死守せんとしたところで、イタリア戦線の激戦地として知られている。イタリア上陸時、1300名いた第100大隊の兵力は、カッシーノ戦後には半分以下になっていた。
 
その後、連合軍のアンツィオ上陸作戦に参戦するため、第100大隊もアンツィオの前線に就く。ここを突破すれば、ローマを陥落させたも同然だった。この頃、激化した東部戦線におけるドイツ軍兵力を分散するため、西部戦線を作り出さんと、連合軍は北フランスからの上陸を計画していた。これが「史上最大の作戦」と呼ばれる、総兵力300万人以上を投入したノルマンディー上陸作戦だ。フランスを奪回するには、北フランスにあるノルマンディー上陸と、南フランスへの道を切り開くアンツィオ上陸が重要なポイントだった。ここでも第100大隊は、積極的な戦闘で多大な功績を残した。アンツィオが陥落し、連合軍がローマを占領した翌日、ノルマンディー上陸作戦が決行された。
 
訓練を終えた第442連隊に、イタリアへの出動命令が出たのはこの頃だ。連隊のモットーは「ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ)」。元442連隊のノーマン・イカリさんが語る。「ナポリに到着したら、僕らを見つけた白人部隊が『ワンプカプカ!』と手を振って喜ぶんです。それで先陣だった第100大隊が、日本人部隊の評判を築いてくれたのだと知りました」。
 
第442連隊戦闘団が第100大隊とチームを組んで参戦したのは、ローマ北部のベルベデーレ戦から。ベルベデーレ突破には数日かかると見られていたが、第442連隊が要した時間はわずか3時間弱。前線に出てから約1年で、日本人部隊はすべての司令官が欲しがる部隊となった。9月末、彼らは連合軍が苦戦していたフランス戦線に参戦するために、戦闘半ばでイタリアを離れた。

何カ月も連合軍の到着を待っていた人々は米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した

多大な犠牲者を出した「失われた大隊」
救出後の戦功をたたえるセレモニーで、整列した日本人部隊を前に、師団長が苦々しく言った。「全員集合させろと言ったはずだ」。中佐が答えた。「彼らが全員です」。約3千人いた兵力は3分の1になっていた。

ブリエアの解放と失われた大隊救出
ドイツとの国境に近い小さな山間の街ブリエアは、当時、ナチ親衛隊のSSが牛耳っていた。この一帯には、針葉樹がうっそうと生えた「黒い森」と呼ばれるボージュ山脈が走っており、多くの師団がこの「黒い森」で、ドイツ軍の激しい抵抗に遭い足止めを食った。無数の地雷が仕掛けられた森の中を、第442連隊は懸命の前進を続け、10月19日、ついに彼らはブリエアに抜けた。ノルマンディー上陸以来、SSの監視下で何カ月も連合軍の到着を待っていた街の人々は、米軍の軍服を着た日系兵の姿に歓喜した。
 
ブリエアの解放後、連合軍はドイツ入城を目指して、山脈をさらに東に進んでいった。ちょうどそのころ、無理な戦法で敵陣地に侵攻したテキサス部隊がドイツ軍に包囲されてしまった。このニュースは、「失われた大隊」としてすぐさま全米に発信された。第442連隊戦闘団が「失われた大隊救出のための出動準備」命令を受けたのは、休息のために近隣のベルモント村に入った翌日だった。炸裂する砲弾の中を駆け抜けること4日間。ついに同じテキサス連隊の仲間でさえ助け出せなかった「失われた大隊」を救出した。212名のテキサス兵救出のために、日本人部隊が出した死傷者は約800名に上った。
 
現在ブリエアには、解放を記念して「リベラシオン(解放)通り」と名付けられた道路がある。ここから森へと伸びる道は「第442連隊通り」だ。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは、人種のいかんに関わらないことを改めて教えてくれた米軍第442連隊戦闘団の兵に捧げる」と刻んである。
 
ブリエアで多大な死傷者を出した第442連隊は、多くの補充兵が投入された後、1945年4月、極秘でイタリアに戻った。ドイツ軍が9カ月かけて築いた北イタリアの防衛線「ゴシックライン」が、日系部隊が離れていた半年間、まったく前進していなかったため呼び戻されたのだ。「日系部隊が来たからには、1週間で突破できる」と期待された防衛線の砦モルゴリト山は、第442連隊の奇襲作戦によりわずか31分で陥落した。連合軍がゴシックラインを突破して半月後、ヒトラーが自殺し、翌月、ドイツ軍は降伏した。

太平洋戦線に出たMISの日系兵士たち

パールハーバー攻撃より約1カ月前の1941年11月1日、米陸軍は極秘でMIS(陸軍情報局)の語学学校を開設した。これは日米開戦を想定した学校で、6000人以上の2世がMISに志願した。第100大隊と第442連隊がヨーロッパ戦線に従事したのに対して、彼らは太平洋戦線で白人兵士と一緒に、前線で捕虜の尋問や収集物の翻訳、また日本軍の通信傍受などの任務に就いた。

元日系兵士の証言

フィリピン戦線で尋問、「生きて帰れ」と説得
■元MISジョージ・フジモリさん

戦前はボイルハイツに住んでいましたが、マンザナーに連れて行かれたのが20歳の時です。ある日、陸軍大佐が日英両語できる人材を探してマンザナーに来ました。志願したのは、やはり忠誠心を示しておきたいという思いがあったからです。その時マンザナーから志願したのは、2人だけでした。
 
本来は8カ月の訓練を受けるのですが、私は1カ月で本部があったオーストラリア行きを命令され、そこからフィリピンのルソン島に行きました。主な仕事は捕虜の尋問でした。私の日本語は確かではなかったため、尋問したのはほとんど農家から徴兵された兵士たちで、将校の尋問は日本で教育を受けた帰米2世が担当しました。
 
米兵はマシンガンも撃ち放題だったのに、日本兵は弾丸も4、5発しか与えられておらず、ろくに食べる物もなかったので、それはかわいそうでした。自害する兵士も多かったため、捕虜兵にはいつもまずタバコをあげ、「日本では生きて帰ると恥と言われるが、アメリカではヒーローなんだ。命を無駄にせず、生きて帰って日本を再建するんだ」と説得しました。
 
1度だけ2人の日本兵を逃がしたことがあります。彼らはすでに日本軍から逃げ出し、現地の女性と結婚して、フィリピン人に紛れて生活しているとのことでした。「日本に帰っても、もう帰る家もない」と土下座して頼んだのです。先日、フィリピンで日本兵が見つかったとニュースになった時は、彼らのことではないかと思いました。名前も聞かなかったので、それが彼らなのかはわかりません。
 
フィリピンで終戦になり、進駐軍として日本に行きました。日本人を安心させるために、横浜に行ったこともあります。子供はGIを見つけると「キャンディー」と寄ってきましたが、大人は鬼畜米英と叩き込まれていたので、怖がって家から出てこなかったのです。
 
帰還してシカゴに行きました。戦前は大卒でも仕事がなかったのですが、戦後は多くが中西部に行き、能力に見合った仕事に就くことができるようになりました。

「覚えているのは砲弾の嵐だけ」
元第100大隊マサト・タカハシさん

44年にマンザナーから志願しました。兄も志願して第442連隊にいましたし、家族は全員マンザナーの収容所にいたので、何とかしなければ、という思いがありました。私たちの部隊は、訓練期間をあと2週間残した段階で、急遽フランス線戦に行くことになりました。「失われた大隊」救出の後です。第100大隊の配属になりましたが、その時は人が足りないとしか知りませんでした。その頃前線に出ていたのはほとんどが補充兵で、初戦から参戦したハワイ兵は、数えるほどしか残っていませんでした。そこからイタリア線戦に行きゴシックライン攻撃に参戦しましたが、覚えていることと言えば、砲弾の嵐以外にありません。とにかくものすごい数の砲弾が打ち込まれました。その後、イタリアで終戦になりましたが、もう前進しなくていいんだという安堵が何よりも大きかったですね。

「家族は収容所の中で他に手段がなかった」
■元第442連隊テツオ・アサトさん

ハートマウンテン収容所から44年に徴兵されました。志願兵の募集が始まった時は17歳だったので、志願したかったのにできなかったんです。私の知る国はアメリカしかなかったので、徴兵されなくても戦争に行くつもりでした。開戦の翌日、FBIに連行された父も「分別のつく年なのだから、自分で決めればいい」と言ってくれました。
 
私が参戦したのはブリエアの後で、イタリア線戦に向かいました。ドイツ軍に我々の動きを知られないために、移動する時は連隊記章を外すように指示されました。ゴシックラインは3000フィートの高地で、ドイツ軍最強の部隊が最後の砦として頂上を守っていました。3大隊が夜を徹して山を登り奇襲をかける作戦で、認識章など音を立てそうな物はすべて服に縫い付けました。何千人もの兵士が、どうやって物音1つ立てずに登れたのか、私にもわかりません。
 
最初にワンプカプカが輝かしい戦功を立て、我々が後に続いたわけですが、やはり何かを証明しなければならないという思いが強かったのだと思います。だって我々が国のために戦っている時も、家族は収容所の中にいたわけですから。日系人の口ぐせは「仕方がない」でしたが、それはできることにベストを尽くそうということです。日系人の政治家もいなかった当時は、それ以外に手段がなかったのです。

前線からの手紙
国のために尽くし 犬死はしません

日本語しか読み書きできない両親のために、兵士たちはつたない日本語を駆使して親へ便りをしたためた。ノボル・フジナカさんは3人兄弟の末っ子で、子供が生まれたばかりの長兄に代わって、2番目の兄とともに志願した。以下はフジナカさんが両親に宛てた手紙だ。
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「長らく御無沙汰致してすいません。御父母様は如何ですか。(中略)僕は長いあいだ日本語をつかわないので今では頭をしぼりながら此の手紙を書いて居ます。僕もまださいさい日本語で御父母様に御手紙を書きとうはございましたが、なんと言ってもへたな僕ですからどうぞかんにんして下さい。(中略)御父母様、僕達の事は心配して下さるな。何事にも気をつけますから、どうぞ御安心下さいませ。かならず犬じにはしません。御母様のいったとおりしぬる事はだれでも出来ます。ほんとうのてがらはよく国のためにつくし、その上、いきてかえるのがてがらです。(中略)では、御父母様どうそ御体を大切にして下さい。(中略)僕達兄弟のことは御心配しないようにして下さい。出来るだけようじんをいたします。けしてつまらない事はしません。えんがあれば又僕達兄弟は御父母様のこいしきあいをうける事が出来ますでしょう。ではめでたい日まで。さようなら
こいしき登よりこいしき御父母様え」 (原文ママ)
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フジナカさんは「失われた大隊」救出作戦2日目、ボージュの森の中で戦死した。23歳だった。

戦地の息子に捧げる母の祈り
戦場で最期の言葉は日本語で「お母さん」

息子の無事を祈る母は、日々陰膳を備え、仏壇に拝みつつ、激励の手紙を書いた。毎日息子の足を洗うつもりで、石を2個風呂に持って入り、足を温めるつもりで石を布団に入れて寝たのは、元442連隊のミノル・キシャバさんの母だ。雨と雪が続いたブリエアでは、多くの兵士が足に凍傷を負っていった。

元442連隊のサミュエル・ササイさんの母は、「星の旗をよく守りなさい。ササイの家に恥をかけることをしてはいけません」と書いて送った。戦死した兵士たちが今際のきわに絞り出した言葉は、ほとんどが日本語の「おかあさん…」だったという。
 
資料:「ブリエアの解放者たち」ドウス昌代著、「Japanese Eyes, American Heart」Hawaii Nikkei History Editorial Board編集
 
(2005年8月1日号掲載)

 

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