戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/金城秀夫さん

日本での教育を理由に収容所に隔離

ハワイ島生まれの日系二世、金城秀夫さんは、1922年、1歳の時に兄と共に母に連れられて、父の故郷の沖縄に渡り、旧糸満町で育ちました。日中戦争勃発後の38年、金城さんは沖縄に残ると言った母を残して、ハワイに帰郷。帰国後はホノルルでコックとして働いていました。

41年12月7日、真珠湾方面に真っ黒な煙が立ち上るのを見たそうです。「一緒に見ていた父が、『日本のような小さな国が、アメリカのような大国と戦って、どうやって勝てるのか!』と言ったことを今でも忘れません。私は米国市民ですが、日本で育ち、日本の教育を受けましたから、国は小さくても、日本人は名誉のために命を惜しまない。負けるわけがないと思っていました」と金城さん。

日本で軍国主義教育を受け、高等小学校では木製の銃を使った軍事教練も受けた金城さんは、開戦後、いつFBIから召喚状が来るかと、びくびくしていたそうです。恐れていた召喚状を42年春に受け取り、事務所に行くと「日本で軍国主義教育を受けたか」と聞かれ、素直に「はい」と返答。その日は帰宅できたものの、1週間後に再度召喚され、ホノルルのサンドアイランド抑留所に送られました。「フェンスに囲まれた二階建ての小屋に放り込まれました。フェンスは3重になっていて、真ん中のフェンスには電流が流れていました。それを挟んで日本人捕虜の収容所があり、時々歌を歌っているのが聞こえました」。


忠誠登録に「ノー」と回答 収容所をたらい回しに

左/ツールレイク収容所時に作った入所者の寄せ書き集
右/カリフォルニア州ツールレイク収容所にて。1946年頃。右端が金城さん
Photo Courtesy of Hideo Kaneshiro

半年後、金城さんは船でサンフランシスコに移送され、そこから蒸気機関車で、主に西海岸の日系人が収容されていたユタ州のトパーズ収容所に移されました。そこで「忠誠登録」のアンケートに答えることに。「たくさんの質問がありましたが、今でも忘れないのは、27番目の『米軍に志願するか』と28番目の『天皇に弓が引けるか』の質問です。英語がよく分からなかった上、深く考えなかったので、どちらの質問にも『ノー』と答えました」。ところが、両方の質問に「ノー」と答えることは、アメリカに対する忠誠心がない者と見なされることだったのです。その結果、金城さんは、カリフォルニア州北部のツールレイク収容所へと送られました。同収容所は、当初は一般的な日系人の収容施設でしたが、43年9月以降は、忠誠登録で不忠誠だとみなされた人の隔離センターになっていました。多い時には約1万9千人が収容され、角ごとに見張り小屋があり、米兵が監視の目を光らせていました。

「私は50番地をあてられたのですが、途中からホノウリウリ収容所に収容されていた8人が同じ区画に加わりました。ある時、その50番地で暴動が起きたのです。問題を起こしたのはごく一部の人でしたが、50番地の住人全員が連帯責任を負わされ、罰として雪の降る中、2時間以上も外に立たされました。私を含めた何人かがさらに監視の厳しい隔離施設に入れられたので、リーダー格の人がハンガーストライキをやろうと提案し、18食、1週間ほど断食をしました。2カ月ほどして隔離施設から出てもよいと言われ、50番地に戻りました」。

金城さんはそうした理不尽な扱いに抗議の意味を込めて、米国市民権を放棄してしまい、そのまま収容所で終戦を迎えました。「市民権を保持していたら終戦後すぐに収容所から出られたのですが、放棄していたので出してもらえなかったのです。そうこうするうちにツールレイク収容所が閉鎖されることになり、今度はテキサス州のクリスタルシティー収容所に送られました。ここでは入所者の半分がドイツ人で、日系一世や南米の日系人が収容されていました」。

市民権を取り戻す裁判を起こし、46年初頭、ニュージャージー州のシーブルックス農場で働くことを条件に出所。翌年、帰省許可通知を受領し、すぐさまハワイの姉に電報を打って送金してもらい、約5年ぶりに故郷への帰途につきました。「うれしいはずの道中の汽車では、手洗いが白人と黒人に分かれていて、差別に憤りを覚えました」と金城さん。 

終戦から70年が経った今、開戦の引き金となった真珠湾の近くに住む金城さんは、遠くを見つめながら、しんみりとひと言。「母は沖縄戦で消息不明になりました。戦争はむなしいだけ」。

Hideo Kaneshiro

1921年、ハワイ島生まれ。1歳から16歳までを沖縄で過ごし、38年ハワイに戻る。太平洋戦争勃発後の42年、FBIに連行されオアフ島サンドアイランド抑留所に収容。カリフォルニア州ツールレイク収容所を経て、クリスタルシティーのテキサス家族収容所に。ニュージャージー州シーブルックスでの就労を経て、47年にハワイに戻る。パンナム航空に27年間勤務後、80年に引退。
 
(2015年8月1日号掲載)

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