戦後70年特別インタビュー「日系アメリカ人の肖像」

【戦後70年・日系アメリカ人の肖像】
戦後70年。あの時代のことを記憶する世代はとても少なくなっています。
日系人・日本人の差別と強制収容の歴史も例外ではありません…。
薄れゆく歴史の記憶を探して、日系アメリカ人二世、三世の皆さんを訪ねました。
(2015年8月1日号掲載)

日系アメリカ人の肖像

1945年に第二次世界大戦が終わってから今年で70年が経ちます。今、私たち日本人は、ここアメリカで、ほかの国からの移民や米国人と同じように、好きな場所に出かけ、住み、学び、働き、そして米国市民権をも取得することができます。でも、実はついこの間までそれが許されていなかったことを想像できるでしょうか。
 
アジアからの移民は1924年に禁じられ、再び門戸が開かれたのはなんと1965年のこと。また1952年まで日本人は市民権を取得することもできず、その上、太平洋戦争中はそうした日本からの移民もその子どもたちも、西海岸に暮らす日本人・日系人はみな、自らの意思とは関係なく収容所へと送られました。そして、その事実すら1980年代になるまで公に語られることはほとんどなかったのです。
 
「自由の国アメリカ」のイメージと正反対にある、日系移民の差別の歴史。それは、アメリカの歴史の一部であり、同じくアメリカで暮らす日本人である私たち自身の現在へと脈々とつながる歴史です。しかし人種間や宗教間の緊張が加速し、ヘイトクライムやレイシャルプロファイリングの議論が熱を帯びる近年、 もし私たちがこの歴史の教訓を忘れてしまうなら、 これらは過去の歴史に留まらず、現在や未来になってしまうかもしれないと思うのです。
 
日本が真珠湾を攻撃し、日米が太平洋戦争を始めた1941年から数えて74年、そして終戦から70年、その間、アメリカに暮らす日系アメリカ人は、どんな思いでどんな日々を送ってきたのでしょうか。戦前の日系コミュニティーのこと、戦争中の強制収容、アメリカ軍の戦功に多大な貢献をした日系人部隊のこと、そして戦後の日系社会の復興のことなど、 終戦から70年が経つ今だから聞いておきたい人生と歴史のお話を、日系アメリカ人二世三世の皆さんにうかがいました。

  • 米日カウンシル会長として日米間の関係作りに尽力
    アイリーン ・ヒラノ・イノウエさん(Irene Hirano Inouye)…米日カウンシル(U.S.-Japan Council)会長。1948年に福岡出身の二世の父と、日本人の母の間に生まれた日系三世。1988年から2009年にわたって、全米日系人博物館の初代館長を務める。2008年、故ダニエル・イノウエ上院議員と結婚。また同年に米日カウンシルを設立。東日本大震災後、日米両政府と「TOMODACHI イニシアチブ」を立ち上げた。
  • 全ての人の平等な権利のために… 日系人に対する戦後補償の背景
    プリシラ・オウチダさん(Priscilla Ouchida)…サクラメント生まれの三世。2012年より、女性として初めての日系アメリカ人市民連盟(Japanese American CitizensLeague, JACL)事務局長を務めている。JACLは1929年にアジア系米国人の人権保護のために設立された団体。戦時中は強制収容へ協力的な姿勢をとり、日系人部隊の編成を推進したことから多くの批判も受けたが、戦後は強制収容に対する補償法案などさまざまな人権運動を牽引している。
  • 戦争・強制収容の苦難と、その中でも続いた暖かな交流の記憶
    ミチオ・ヒマカさん(Michio Himaka)…1932年、サンディエゴ生まれの日系二世。10歳の時、アリゾナ州のポストン収容所に。終戦後はサンディエゴ州立大学でジャーナリズムを専攻し、卒業後、『San Diego Union Tribune』に就職。The Japanese American Historical Society of San Diegoでは、立ち上げ時から2015年6月まで役員。会長も務めた。また、02年より現在までSouthwestern Collegeの事務補佐の仕事を続けている。
  • 戦中は米国のため、戦後は一世のために戦った二世
    ヒロ・ニシムラさん(Hero Nishimura)…1919年、ワシントン州シアトル生まれの日系二世。両親は広島県出身。42年、ワシントン大学在学中に米軍に徴兵され、MISとして従軍。終戦後、ワシントン大学に復学し、その後、同大学の健康科学研究所などに勤務。70年代から日系アメリカ人の強制収容に対する補償運動に参加し、81年には「戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)」公聴会の証言に立つ。93年『Trials and Triumhs of the Nikkei 』を上梓。
  • 戦後、第442連隊の一員として従軍した後、退役軍人会会長として日系社会に貢献
    トシ・オカモトさん(Tosh Okamoto)…1926年、シアトル生まれの日系二世。両親は熊本県出身。ツールレイク収容所、ハートマウンテン収容所を経て、18歳の時に徴兵。軍用車の整備などのトレーニングを受け、第442連隊戦闘団の補充要員として終戦後のイタリアへ。47年除隊。終戦後は、消防署に勤務する傍ら、高齢化した一世が日本語で介護を受けるための施設「日系コンサーンズ」設立に共同設立者の一人として関わり、2期にわたり同団体の代表を務めた。
  • 日系スーパーを通して見る シアトル・タコマの日系人の暮らし
    トミオ・モリグチさん(Tomio Moriguchi)…日系スーパーマーケット「宇和島屋」取締役会長。1936年、ワシントン州タコマ市生まれの日系二世。6歳の時、ツールレイク収容所に収容される。61年、ワシントン大学卒業。62年より宇和島屋で働き始める。長年、シアトル日系人社会のために尽力し、北米報知発行人、日系コンサーンズ役員会メンバー、全米日系人博物館サポーターなどを務める。2005年、日本政府から旭日小綬章を受章。
  • 太平洋戦争、強制収容… 日米の過ちの中を生き抜いた帰米二世
    トオル・イソベさん(Tohru Isobe)…1926年、サンフランシスコ生まれ。2歳から12歳まで日本で育つ。39年に帰国し、ロサンゼルスで学校に通う。42年、家族でワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に。44年、キャンプ外での労働に就き、戦後はロサンゼルスに戻る。52年に徴兵され、朝鮮戦争でMISとして北朝鮮人捕虜を日本語で尋問する業務に携わる。帰国後は、88年まで郵便局に30年間勤務。現在、全米日系人博物館でボランティアガイドを務めている。
  • ハワイの収容所から本土各地の収容所へ 戦争に翻弄された帰米二世
    金城秀夫さん(Hideo Kaneshiro)…1921年、ハワイ島生まれ。1歳から16歳までを沖縄で過ごし、38年ハワイに戻る。太平洋戦争勃発後の42年、FBIに連行されオアフ島サンドアイランド抑留所に収容。カリフォルニア州ツールレイク収容所を経て、クリスタルシティーのテキサス家族収容所に。ニュージャージー州シーブルックスでの就労を経て、47年にハワイに戻る。パンナム航空に27年間勤務後、80年に引退。
  • ターミナルアイランドからロングビーチへ 変わりゆく日系コミュニティーと共に
    巽 幸雄さん&長男の一郎さん(Yukio Tatsumi)…1920年、イースト・サンペドロ(現在のターミナルアイランド)生まれの日系二世。33年から日本に。和歌山県下里の商業高校を卒業後にアメリカに戻り、サンペドロ高校を卒業。戦争中はマンザナー収容所に収容される。終戦後、ロサンゼルスに戻り、漁業等を経て、日本食などのスーパーマーケットを経営。ターミナルアイランドの元住人たちで構成される「ターミナルアイランダーズ」元会長。2014年、日本政府より旭日双光章受章。
  • 子ども時代を過ごした沖縄で米軍として日本人の命を救った帰米二世
    比嘉武二郎さん(Takejiro Higa)…1923年、ハワイ・オアフ島ワイパフ生まれ。2歳から16歳まで沖縄で育った後、ホノルルに戻る。高校在学中に軍隊に志願するが却下され、陸軍省からの手紙により再志願。サンフランシスコとミネソタのMISの日本語学校を経て、1944年フィリピン戦、沖縄戦に参戦。戦後は韓国に赴き、1945年12月ハワイに戻り除隊。ファリントン高校、ハワイ大学卒業後、国税庁に入局し90年に引退。

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