再び戦争が起きたら私たちは強制収容されますか?

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日系人史研究者インタビュー・再び戦争が起きたら私たちは強制収容されますか?

「第二次世界大戦中、アメリカ西海岸に暮らしていた日系人、日本人が、国籍にかかわらず、人種だけを理由に、強制的に立ち退きを命じられ、強制収容所(キャンプ)に入れられた。」皆さんはそのことを知った時、どんなことを思われたでしょうか?
 
日本では触れる機会の少ない、日系移民と日系人の歴史。初めてその強制収容の事実を知った時、それが本当のことだと信じられないくらいの衝撃を受けました。自由と平等の国であるはずのアメリカで、犯罪の証拠もなく、裁判もなく、人種だけを理由に、日系人、日本人を収容するなんてことが許されたの?そんなことをアメリカという国が許したの?と。
 
そして、ライトハウスで毎年夏に日系人史についての特集をして、少しずつ歴史を知るにつれ、「なぜ日系人はあの時、強制収容のような人種差別的迫害を受けて、今、日本人の私は差別されることがないんだろう?」と不思議な気持ちがしてきたのです。人種差別的偏見はゼロではありません。でも日本人だからという理由だけで就職を断わられることもなければ、家を貸せないと言われることもない。アメリカ中どこにでも行けて、土地の所有を禁じられてもいないし、条件を満たせば米国市民にもなれる。もちろん当時は日米が戦争中で、今の日米関係は良好だという違いはあります。しかし、それなら「もし再び戦争が起これば、また差別をされるのだろうか?強制収容は繰り返されてもおかしくないのだろうか?」とも問いかけるようになりました。
 
歴史は後から振り返ると、必然のようにも見えます。しかし強制収容はなぜ起きたのでしょうか。それを防ぐ方法はなかったのでしょうか。またどうして日系人、日本人はそれにあらがわなかった、もしくはあらがえなかったのでしょうか。そして、戦後に日系移民が市民権を取れるようになった背景には何があり、それはどうして戦前には実現しなかったのでしょうか。さらに、なぜ1988年という年に、アメリカ政府は強制収容について誤りであったと謝罪をし、賠償金支払いを決定したのでしょうか。もし、そうした過去の出来事の理由がはっきり分かれば、「今、私たちが差別をされないのはなぜか?」「強制収容は再び起こるのだろうか?起こる可能性があるとすれば、どうしたら防げるのだろうか?」といった現在や未来についての問いの答えも出てくるのではないかと思い始めたのです。
 
残念ながら日系人の歴史は、アメリカの歴史の中ではメインストリームではなく、日系人史研究もアフリカ系やメキシコ系など他のエスニック研究に比べれば比較的小さな分野でしかありません。しかし、それでも、その忘れられがちな日系人史の事実を丹念に掘り起こし、歴史的文脈の中に位置付け、確かに形あるものとして歴史をつむぎ、未来へつないでいる研究者がいます。この特集では日系人史研究に取り組む日系人の方々に、そうした歴史の背景についての疑問を投げかけ、一緒に歴史の中を歩いてみました。その中では、想像もしなかった考え方をうかがったり、新たな発見をしたりすることもありました。皆さんは、どんなことを考えられるでしょうか。
 
日系人史についての疑問を、日系人史研究者にたずねました。

 

差別的政策はレイシズムだけが原因ではない。
歴史の背後には必ず理性的な理由があるのです。

移民の国であるはずのアメリカは、1924年、なぜ日本からの移民を禁止したのですか?

ロン・クラシゲ

ロン・クラシゲさん
南カリフォルニア大学歴史学部准教授。1964年、ロサンゼルスのカルバーシティー生まれ。カリフォルニア大学サンタバーバラ校卒業後、ウィスコンシン大学マディソン校で修士&博士号取得。専門は日系アメリカ人研究、歴史政治学研究など。

強制収容が起きた主な理由に、レイシズム(人種差別的偏見)が挙げられることがあります。「ジャップは出て行け」と大見出しが踊る当時の新聞を見ると、強制収容は集団ヒステリー的なレイシズムが起こしたものだと思わずにいられません。そうしたレイシズムに対して日系アメリカ人がどう行動したかを、リトルトーキョーで夏に行われるお祭り「二世ウィーク」を軸に書いたのが、ロン・クラシゲさんの『Japanese American—Celebration and Conflict』です。
 
移民としてアメリカで生活を築いた一世と、アメリカ人として生まれ、アメリカでの教育を通して強烈にアメリカ化しつつも人種差別の波にさらされた二世。その二世に、一世の町、リトルトーキョーでの購買を促したのが、二世ウィークの最初の目的だったと言います。レイシズムの高まりの中で、二世ウィークの性質は白人社会に日本文化への理解を促す目的を持ったり、また日本文化継承の意味を持ったりとさまざまに変化を遂げていきます。その変化は、日系コミュニティーやアイデンティティーの変化とも密接な関係にあったようです。
 
この本を書いたクラシゲさんは、南カリフォルニア大学で歴史を教える日系三世。日系人が多く住んでいたカルバーシティーで生まれ育ちました。歴史を専攻したのは「歴史を通して、私自身のアイデンティティー、そして日系コミュニティーを理解したかったから」だと話します。少年時代の友人は日系人もいれば白人もいて、その二つのコミュニティーを行ったり来たり。「『私は日系アメリカ人なのか、アメリカ人なのか』と常にアイデンティティーに悩まされていました。日系コミュニティーの小さな池にいれば快適 でしたが、メインストリームの大きい池にも興味がありました。片方に行ってしまえばいいのだけど、小さい池を離れたいわけじゃなくて、両方にいた いとジレンマを感じていたのです」。
 
大学で歴史を専攻したクラシゲさんが最初に取り組んだ研究は人種差別的法律、中でも日系移民による土地の所有を禁じた1913年のカリフォルニア州の「外国人土地法」でした。「典型的な三世の発言ですが、キャンプが強制収容所のことだと知ったのは大学に入ってから。レイシズムが あったのは知っていたけれど、個人のレベルだと思っていて、まさかそんなに大規模に社会的で政治的なものだとは思ってもみなかったのです。それを知ったことが土地法の研究につながっているように思います」。
 
この土地法は実は「日系移民」を名指しして、土地の所有を禁じているわけではありません。所有を禁じられたのは、米国市民になれない「帰化不能外国人。」つまり帰化権のないアジア系移民の中でも、当時まだ米国移住を許されていた日系移民が対象でした。帰化不能外国人を定めた「帰化法」があったがために、人種差別的法律の成立は容易になったとクラシゲさんは言います。当時はさぞレイシズムが渦巻いていたのかと思いきや、「こうした人種差別的法律ができた時代とはいえ、その時アメリカ人全員がアジア人を嫌っていて、差別的政策を 求め、歓迎したわけではありません」。
 
州のレベルでは、13年に外国人土地法が成立しましたが、連邦レベルで人種差別的政策が行われるのは、移民法が日本からの移民を禁じた24年まで、そこから10年以上の歳月がありました。日本からの移民が正式に始まった1880年代から数えると約40年間、レイシズムはくすぶりつつも実際の差別的法律に連邦レベルでは結びつかなかったわけです。「1924年に移民法が成立した背景には、20年代のアメリカ政治があります。 19年、第一次世界大戦が終わります。アメリカの戦死者数は他国と比較すると甚大ではありませんでしたが、それでも多くの人が死んだ悲劇的な戦争でした。そして、アメリカは二度と世界の問題に巻き込まれたくないと、孤立主義の時代に入っていきます。世界に対してドアを閉じ、同時に世界から押し寄せる移民にもドアを閉ざすのです」 。
 
当時の「移民」とは、アメリカ的なWASP(白人アングロサクソン・プロテスタント)とは異なる、ロシアや南イタリア、東ヨーロッパのカトリック、ユダヤ人、そしてアジア人。こうした非アメリカ的な要素を排除し、古き良き伝統に帰ろうとする内向き思考が20年代の通奏低音だったのです。19年から32年にかけて施行された「禁酒法」もまた酒を飲んで問題を起こす移民を念頭に置いた、伝統に帰ろうとする試みの一つであり、KKKなど白人至上主義団体が人気を得始めたのも、同じくこの時代でした。「 20年代は保守主義者が台頭した時代。その中で勢力を伸ばし始めた大日本帝国の軍事力に対する恐怖感が高まり、 24年の移民法が成立したのです。もしレイシズムだけが成立の理由なら、レイシズムが蔓延していた1880年代に成立していてもおかしくなかったでしょう」。

再びアメリカは移民にドアを閉じますか?

世界や国内の状況によって、内向きにも外向きにもなってきたアメリカ。今、また移民を排斥しようとする動きも見られますが、再び移民に対して差別的な法律を制定することはあるのでしょうか?「第二次世界大戦後の世界体制により、アメリカは国際的な関係の中で重要な立ち位置を占めていますから、今、そんな法律を成立させることはまずないでしょう。アメリカの差別的法律や政策はレイシズムだけで成立するのでなく、政治的文脈を抜きにしては語れないのです」。
 
またアメリカが移民に対し開かれた国になった理由には、冷戦という政治的作用もあったと言います。「『アメリカはレイシストだ、あんな国の側に つくな』とソ連に言われるわけにいかなかった。『差別は過去のものだ、私た ちは移民を歓迎する』とアピールする必要があったのです。国家は理由なく、突然態度を変えるものではない。経済的なものにしろ、政治的なものにしろ、そこには必ず理由があるのです」。
 
クラシゲさんは、どんな狂気に満ちた歴史でも、全てに理性的な理由があると考えています。「理性的だからと言って正しいわけではありませんが、その理由を理解せず、『醜悪な考えに取り憑かれた邪悪な人間が起こしたことだ、自分はそうはならない』とは 考えるわけにいかない。その時代にいたら、自分も同じような行動を取ったかもしれない。なぜ世界はそうなったのか、なぜ人はそういう行動を取ったのか、歴史はその理由を教えてくれます。それはより良い判断をする根拠になるかもしれない。歴史は、未来のための真実を探す媒介物になると思うのです」。
 
こうした歴史研究は、クラシゲさんのアイデンティティー問題も解決したそうです。「どっちか片方じゃなくてもいいように思い始めたのです。どっちもつながっているし、どっち側にもいられるんだってね」。

アジア系アメリカ人は60年代後半に生まれました。
アジア系が「アメリカ人」として初めて可視化されたのです。

「アジア系アメリカ人」が現れた1960年代。その前後では何が変わったのでしょうか?

カレン・イシヅカ

カレン・イシヅカさん
作家、研究者、映画監督 。1947年生まれの日系三世。97年、夫で映画監督のロバート・ナカムラさんと全米日系人博物館内にFrank H. Watase Media Arts Centerを設立し、日系人の映像資料製作・保存に尽力。2015年、UCLAで博士号取得。

「Asian American(アジア系アメリカ人)」という名前は、アジア系内の差異が分からないアメリカ人が名付けたもののように見えますが、実は 1960年代後半、日系人史研究の先駆者ユウジ・イチオカさんが名付けたものだそうです。それまで、アジア系アメリカ人は、日系、中国系、フィリピン系と個別に存在するだけで連帯意識はなく、白人と黒人で構成された米国社会で「オリエンタル」と呼ばれ、外国人のような扱いを受けていました。
 
カレン・イシヅカさんは『Serve the People』の中で、そのオリエンタルたちが結集して、自らをアジア系アメリカ人と呼び、個々では少数で脆弱な政治的パワーを束ねて、「アメリカ人」として存在を確立していった時代を記録しています。自らもその時代の中にいたイシヅカさんは、サンタモニカ育ちの日系三世。母から「誰よりも優秀でありなさい」と言い聞かされて育てられたと言います。「日本的な名誉や家名に対する感覚から来るものもあったでしょうが、加えて母は、『日系人の強制収容は間違いだった』と私を通して証明しようとしていたのだと思います。母にとって強制収容は、政府のあまりにひどい裏切りでした。母はアメリカで生まれて育ち、アメリカだけが唯一の母国だったのですから。でも子どもの頃の私はキャンプが何かを知らず、理解したのは大学に入ってからでした」。
 
1950〜60年代、差別にさらされてきたアフリカ系アメリカ人が立ち上がり、公民権運動が活性化します。この公民権運動には、日系人人権活動家、ユリ・コチヤマらをはじめアジア系アメリカ人も参加。そして、アフリカ系アメリカ人公民権運動と時を同じくして、各地の大学にエスニック研究が設置されると、マイノリティーとしての自己のアイデンティティーを問う若い人々が増え、アジア系アメリカ人運動が発生。またベトナム戦争が始まり、アジア系への人種差別と暴力がむき出しにされる中でアジア系の連帯意識が高まりました。こうし た運動の中で、多くの日系三世が初めてキャンプとは何かを知り、それまでキャンプについて話すことがなかった親に質問をし始めます。親の世代が、 国によって経済的にも心理的にも社会的にも傷付けられたことを知り、やがて強制収容に対するリドレス(戦後補償)運動に発展するのです。
 
当時、イシヅカさんはサンディエゴの大学院に在籍し、ソーシャルワークを専攻して、ドラッグ乱用防止のための団体で働いていました。「 60年代、 70年代のアジア系コミュニティーではドラッグ乱用が深刻な問題でした。しかし『誰よりも優秀であろう、200%アメリカ人であろう』とする日系などアジア系コミュニティーは、そんな問題があるとは認めなかった。それはドラッグ乱用を悪化させるばかりでした。」しかし、その頃ロサンゼルスにイエローブラザーフッドなどアジア系の元ギャングたちが集まった自助グルー プが結成。ドラッグ乱用防止対策を始めていて、イシヅカさんは彼らと共にアジア系コミュニティーのドラッグ乱用防止に取り組みました。アジア系アメリカ人運動は、差別解消を求めただけではなく、コミュニティー内の変革の側面もあったのです。

アジア系アメリカ人の運動は、その目的を達成しましたか?

ベトナム反戦デモ

Photo by Robert A. Nakamura
ロサンゼルスで1970年に行われたアジア系アメリカ人によるベトナム反戦デモの様子

イシヅカさんはその後、夫でアジア系アメリカ人映画作家のパイオニア、ロバート・ナカムラさんと共に、日系人のドキュメンタリーを中心とする映画製作に活躍の場を移します。92年にロサンゼルスに全米日系人博物館が設立されると映像資料の製作、保存に尽力。94年には同館で「America’s Concentration Camps(アメリカの強制収容所)」と題した展覧会を行います。「この展覧会では、事実や数字だけを紹介するのではなく、キャンプに入れられた二世の視点からキャンプを紹介する構成を取りました。キャンプを知らない人にどんな場所だったかを理解してもらうには、」キャンプにいた人々の視点を通して、キャンプでどんな時間を送ったか感じられるようにするのが良いと思ったのです」。
 
展覧会では、全米10カ所にあった強制収容所の場所を示したアメリカ地 図も展示。その地図の前でもなお「で、いったいこれらの収容所はどこの国にあったの?」と、アメリカに強制収容所があったことを信じない人もいたそうです。「強制収容所なんてあまりにもアメリカ的ではありませんから。アメリカ政府が、人種だけを理由にその集団全員を、有刺鉄線に囲まれた収容所に入れたという事実に多くの人がショックを受けていました。一方、中には『ナチスドイツの強制収容所とは違ったでしょ』と言う人もいました。もちろん違います。だからと言ってアメリカの強制収容が正当化されることにはなりません。問題は、アメリカ政府が法に則った手続きもなく、憲法に背き、米国市民を強制収容したということです。人種を理由にした強制収容が憲法で防げないなら、それは、どの人種にも、誰に対しても起こり得る。誰しもが強制収容される可能性があるということなのです」。
 
強制収容に対する謝罪を求めると同時に、二度と起こらぬ楔となるように金銭的賠償をも求めたリドレス運動が実を結び、88年に「市民の自由法」が成立。イシヅカさんはその時、今後は人種を理由にした強制収容などは二度と起きないだろうと思ったそうです。「でも9・11の同時多発テロ後、ムスリムや中東系の人々を強制収容しろなどという声が上がりました。その意味では、アジア系アメリカ人運動やリドレス運動が目指した目的は達成されなかった。人種差別はなくならなかったし、根絶される日が来るかも分からない。それでもアジア系アメリカ人運動が成し遂げたことは少なくなく、それがなければ、アジア系アメリカ人の現在は、随分違うものになっていたと思うのです」。
 
アメリカの歴史全体の中では、ごくごく小さな場所しか占めないアジア系アメリカ人の歴史。イシヅカさんはだからこそ、自分たちの歴史について言葉にして残す必要があると思っているそうです。「そうでなければ、その歴史は消えてしまうかもしれない。過去は私たちがいったい何者なのか理解する手がかりになります。私は アメリカ人ですが、ただ『アメリカ人』であるのではなく『日系アメリカ人』です。『日系』の要素はアメリカ人である私の大切な一部であり、その歴史も私自身の一部なのです」。

再び強制収容が起きるなら、それは無知と恐怖が結びつく時。
フレッド・コレマツの闘いを思い出してみてください。

なぜ日系人、日本人は無実であるにもかかわらず、黙って強制収容されたのですか?

ロレイン・バンナイ

ロレイン・バンナイさん
弁護士。シアトル大学ロースクール教授、Fred T. Korematsu Center for Law and Equalityディレクター。1955年生まれ、ガーデナ育ち。83年のコレマツ訴訟の再審時の弁護団の一人。父は日系人初のカリフォルニア州議員、ポール・バンナイ。

1942年、軍事的必要性の名の下に、西海岸から日系人、日本人が一人残らず立ち退きを命じられ、強制収容所へと送られました。その際、「政府が命じた立ち退きに従うことが、アメリカに忠誠を証明する道」と考え収容に協力した二世団体の日系アメリカ人市民同盟(JACL)をはじめ、日系人、日本人の大半がそれに反抗することなく、収容所へと送られていきました。
 
その中で大多数と異なる行動を取ったのが、当時23歳のフレッド・コレマツでした。コレマツは「アメリカ人である私は、他のアメリカ人と平等の権利がある」と、立ち退きを拒否して西海岸に留まります。そして白人の恋人と共に西海岸から逃亡しようと計画し、逮捕されてしまうのです。しかし留置所に一人の弁護士が訪れ、コレマツの運命は大きく変わっていきます。
 
アメリカ自由人権協会北加支部長だったその白人弁護士は、「コレマツの裁判を日系人強制立ち退きの合法性を問うテストケースとしたい」と無償で弁護を申し出たのです。「政府の命に逆らった」「家族をおいて白人の恋人といることを選んだ」とコレマツは日系コミュニティーで疫病神扱いされながらも、信念を貫き最高裁判所まで訴訟を持ち込みます。しかし44年12月、「日系人、日本人の西海岸からの強制立ち退きは軍事的必要性があった」として最高裁判所は、一審、二審の有罪判決を支持したのです。コレマツは犯罪者としての前科を背負い戦後を生きていくことになります。
 
しかし81年に、戦中のコレマツ訴訟は、「西海岸で日本人、日系人がスパイ活動を行っていた」という国がねつ造した偽の証拠に基づいていた事実を、国の書類の中からマサチューセッツ大学の教授が発見。83年にコレマツ訴訟の再審が始まるのです。
 
『Enduring Conviction』は 42年、 83年のコレマツ訴訟を描いたノンフィクション。著者のロレイン・バンナイさんは、コレマツ再審の弁護団の一員として訴訟に臨みました。戦中のコレマツ訴訟は、アメリカで弁護士を志す人なら必ずロースクールで学ぶ非常に有名な裁判。バンナイさんもロースクールで知ったそうです。「日系人の強制収容は違憲であるにもかかわらず、44年に最高裁は合憲としました。私はそれまで法と正義とは同一のものだと思っていたのですが、戦中のコレマツ訴訟を知り、その考えは砕け散りました。判決理由を読むと、全く意味をなさないのです。『日系人は日本に忠実な民族的特徴がある』『子どもは日本語学校に通っているから日本に忠実だ』なんて!」
 
バンナイさんはそもそも、法は社会的変革のための重要な役割を果たすもので、人々を助ける強大な力を持つものだと考え、弁護士を志しました。
「本来は弁護士がいなくても、各人が正義を得られるのが理想ですが、残念ながら現実はそうではありません。」コレマツは幸いにも弁護士を得て42年の訴訟を闘いましたが、もし他の日系人も弁護士に恵まれていたら、強制収容と闘っていたのでしょうか?バンナイさんは静かに首を横にふりました。「当時は政府を相手取って闘うなんて考えもなかったでしょうし、公民権運動以前のことですから、権利を侵害されているとも知らなかった人もいると思います。それに日系人は政治的に非常に無力なマイノリティーでしたから、反抗すればもっと悪い状況になると思った人も多かったでしょう」。
 
その中で強制収容の不当性を訴えて訴訟を起こしたのはコレマツをはじめ、ごく少数。そんな伝説的人物の再審に関わるとあって、バンナイさんはコレマツに会う前、ひどく緊張したそうです。「でもフレッドは柔らかい物腰のチャーミングな人でした。家族みたいに歓迎してくれて。彼の訴訟に関われたのは本当に幸運でした。それに弁護団も最高のメンバーでした。皆、フレッドは絶対に勝たなきゃと思っていて、何度も会議を持って綿密に訴訟の戦略を練ったんです」。
 
負けるとは思わなかったんですかと聞くと、「いいえ、でも負けたらどうしようと思ったことはあります(笑)。そうしたらコレマツ訴訟は2度も負けることになるから、まずいなあと。でも、戦中のコレマツ訴訟の証拠がねつ造されたという証拠は、国のファイルから見つかったわけですから、国は言い逃れようがないと思っていました」。
 
そして83年11月、戦中の有罪判決は無効との判決が下されたのです。「フレッドの勝訴はリドレス運動のさらなる推進力になりました。それまではいくら謝罪を求めても『最高裁は強制収容を合憲と言ったじゃないか』と反対する国会議員もいた。でもフレッドの勝訴で、それが間違っていて、日系人が不義に苦しんだことが証明されたのです。勝訴は、フレッド自身にも重要なことでしたが、日系コミュニティーにも非常に重要でした」。
 
それまで人前で自身の経験を語ることはほとんどなかったコレマツでしたが、その後は、9・11後などに「ムスリムを強制収容しろ」という声が上がるたび、人種差別の不当性を訴えるなど、2005年に他界するまで、日系人が苦しんだような差別が二度と起きないよう声を上げ続けました。

それでも止まない差別。強制収容は再び起きてしまうの?

強制収容が違憲であったと判決が出た後も終わらない人種差別。最初にインタビューをしたクラシゲさんは、人種差別的な法律が成立するには、政治的な要素が関わってくると話してくれましたが、もし戦争が起きるなど政治的な状況が整えば、再び強制収容が起きることがあるのでしょうか。「再び起きるなら、それは無知と恐怖が結びついた時だと思います。自分と異なるグループに対して理解せず『変な食べ物を食べている』『彼らの宗教は私たちのものと違う』などと無知でいるところに、『彼らが私たちの仕事を奪っている』『私たちの安全が脅かされている』と経済的な恐怖や安全への恐怖が結びついたら、『あいつらを隔離しろ、収容しろ』という声が上がってしまう。でも無知と恐怖に流されるのでなく、そこで立ち止まって、彼らについて『ヘンだ』『危ない』と書かれているものは本当だろうか、彼らは本当に何をしたんだろうかと考えてみること。日系人だろうが黒人だろうが中東系だろうが、もし誰かの権利が守られないなら、私たちの権利も、私たちの子どもの権利も踏みにじられてしまってもおかしくないのです。私たちの権利は、他人の権利と同じだけしか価値はないのです」。
 
※本特集は、次ページ「日系移民とアメリカの歴史」へ続きます。
 
(2016年8月1日号掲載)

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