日系人の葛藤と決意・二世たちの戦争体験

ハワイ・パールハーバー攻撃で始まった日米の戦争は、アメリカの日系人社会に大きな打撃を与えた。日系人は以前から激しい排斥に遭っていたが、この日を境に「敵性外国人」のレッテルを貼られた。アメリカ人として生まれた二世たちは、米兵として戦地に向かい、命をかけてアメリカへの忠誠を証明した。今回は、元日系部隊の兵士たちの戦争体験談を紹介しよう。
 
(2007年8月16日号掲載)

ハワイ・パールハーバーの衝撃 日系人は「敵性外国人」に

©US Army Photograph

日系人の人口が急激に増加したのは20世紀の初頭だ。日系人が農業などで頭角を現すようになると、特に西海岸を中心に激しい排日運動が展開された。その蓄積された排日感情の火に油を注いだのが、日本軍によるパールハーバー攻撃だった。
 
1941年12月7日(現地日付)、ハワイの海軍基地パールハーバーが日本軍によって奇襲攻撃を受けると、日系人リーダーたちは直ちにFBIによって検挙され、日系人は日本人の血を引いているというだけで「敵性外国人」のレッテルを貼られた。
 
翌年2月19日、ルーズベルト大統領は大統領命令9066号に署名した。これは裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権限を陸軍に与える法律だ。
 
同年3月2日、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア州の西半分とアリゾナ州南部が第1軍事地域に指定され、強制立ち退きが開始。強制立ち退きを強いられた人は全米10カ所にある日系人収容所に送られたが、その総数は12万人に上った。

©US Army Photograph

ハワイの日系兵「優秀な訓練成績を出し、1日も早く前線へ」

パールハーバー攻撃の前年11月には、全米で徴兵制度が再導入されていた。40年の国勢調査によると、日系人はハワイ全人口の37・3%を占め、白人の24.5%を抜いて人口比率のトップだった。当時、統治領だったハワイでも徴兵が始まると、約3千人いたハワイ統治領防衛兵の約半数が日系人で占められるという結果になった。
 
開戦後、軍部が頭を痛めたのが彼ら日系兵の存在だ。軍部は、緊急対策としてハワイの日系兵だけを集めて本土へ移送することにした。彼らは第100歩兵大隊と名付けられたが、兵士たちはいつしか自らを「ワンプカプカ」と呼ぶようになった。ハワイ語で穴のことをプカといい、その延長線でゼロをプカと呼ぶ。彼らは訓練で良い成績を残し、1日でも早く前線で戦功を挙げることが自らの任務だと考え、あえて「リメンバー・パールハーバー」をモットーに訓練に励んだ。
 
陸軍マニュアルによると、重機関銃の組み立てに要する時間は16秒で「可」の評価だが、日系兵には5秒という記録を出した兵士がいた。彼らの訓練ぶりを視察に来たある将校は「今までに指揮したどんな100人よりも、彼らのような100人を部隊に持ちたい」と報告している。

アメリカのために死ねる権利を要求した二世たち

ワンプカプカの兵士たちが訓練に励んでいた頃、ハワイでは土木工事に精を出す学生たちがいた。ハワイ大学でROTC(予備仕官訓練)を取っていた学生たちだが、開戦直後に何の説明もなく除隊された。そこで日系二世の学生の約半数にあたる169人が軍上層部に嘆願書を出し、「ハワイは私たちの故郷で、アメリカは私たちの国です。どんな仕事でもかまわないので、アメリカに尽くす機会を与えてほしい」と訴えて、部隊編成の許可を得ていた。
 
正式には技術予備労務隊と呼ばれ、陸軍工兵連隊所属となったが、実質的に彼らに与えられた仕事は、一般市民が請け負う肉体労働だった。彼らは自ら「トリプルV:大学必勝義勇隊」と名乗り、兵舎や倉庫の建設や道路工事などで汗を流した。
 
その頃、アメリカ本土でも若き日系人リーダーたちが、日系人の徴兵実施を政府に求めていた。JACL(日系市民協会)は42年11月、ソルトレイクシティーで緊急総会を開いて、日系兵部隊の編成について協議している。その結果、徴兵許可を求める案が全会一致で決議された。
 
ついに43年2月、ルーズベルト大統領は、日系二世志願兵からなる第442連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして二世たちは晴れて「アメリカのために死ねる権利」を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。

多くの司令官が欲しがる名誉の部隊として活躍

1年3カ月の長い訓練を終えたハワイ出身の第100大隊の兵士は、北アフリカ経由でイタリア戦線に参加し、初戦から「前線で決して振り返らない兵士」と呼ばれて高い評価を得た。第442連隊がイタリアに出兵すると、第100大隊は第442連隊の第1大隊として編成されたが、その戦功に敬意を表して第100大隊の名を継続して使用する許可を得ている。
 
日系二世部隊は各地で軍史に残る戦功を残した。なかでも有名なのが「失われた大隊救出作戦」だ。フランスのドイツ国境近くのボージュの森で、連合軍は激しいドイツ軍の反撃に遭い苦戦を強いられていた。第442連隊が山間の町ブリエアを解放した直後、テキサス兵たちは敵兵に囲まれ動きが取れなくなった。
 
テキサス兵の救出命令を受けた日系兵たちは深い森の中に出動、炸裂する砲弾の中を6日間駆け抜けた。ようやく第3大隊I中隊が「失われた大隊」を救出した時、185人中わずか8人しか残っていなかった。
 
ほぼ休みなしに戦い続けた34日間で、日系部隊はブリエアを解放し、212人のテキサス兵を救出し、その後9日間におよぶ前進を続けた。この間に日系部隊が出した戦死者は216人、負傷者856人以上。兵力は半分以下になっていた。
 
現在ブリエアには、解放を記念して「リベラシオン(解放)通り」と名付けられた道路がある。ここから折れた森へと伸びる道は「第442連隊通り」だ。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは人種のいかんに関わらないことを、改めて教えてくれた米軍第442連隊の兵に捧げる」と刻まれている。

太平洋戦線で活躍したMISの日系二世兵士たち

パールハーバー攻撃直前の1941年11月、サンフランシスコのプレシディオ陸軍基地内に、MIS(Military Intelligence Service:軍事情報機関)管轄の語学学校が極秘で開設された。日米間の緊張が高まる中、日本語教育機関の必要性を考慮して設立された日本語学校だ。戦後の46年6月、米陸軍語学学校と改名され、それまでに約6千人の卒業生を出したが、その85%が日系二世兵士であった。
 
第442連隊がヨーロッパ戦線で活躍し、その戦功が華々しく報道されたのに対して、MISの任務は極秘扱いであったため、長い間、その存在すら知られていなかった。
 
日本語学校を卒業したMISの兵士たちは、アッツ島やガダルカナルの戦闘、フィリピン奪回や沖縄戦など、太平洋戦線の激戦地に配属された。日本兵捕虜の尋問や押収した日本語書類の翻訳、日本軍の通信傍受などを担当し、前線に出る時は日本兵と間違って撃たれないように、必ず米兵と共に行動したという。
 
戦後は進駐軍の一員として日本の復興にも寄与した。戦中・戦後を通して、米軍と日本人との架け橋として彼らが果たした役割は大きい。MISの戦功が一般に知られるようになったのは、72年、ニクソン大統領が大統領命令11652号を発令し、第2次大戦中の軍事情報の機密扱いを解除してからのことだ。2000年4月、陸軍は第2次大戦に従事したMISの兵士に対して、55年遅れの大統領冠状を授与した。

元日系兵士たちの証言


「第442連隊で左手を失いましたが米国人としての義務を果たせました」

ドン・セキさん(83歳)

「失われた救出作戦」で犠牲者の多さに愕然

私はパールハーバーの請負業者で働いていましたが、攻撃のニュースは自宅で聞きました。聞いた時のショックは計り知れません。人口の4割が日系人のハワイをなぜ日本は攻撃したのか。気分が悪くなりました。実はパールハーバー攻撃の数カ月前に、両親は日本に永住帰国していました。両親は末っ子の私を連れて帰国するつもりだったのですが、私はそれを断っていたのです。
 
翌日仕事に行くと、海兵隊に追い出されました。日系人はどの軍事基地でも働けなくなったのです。43年3月、志願兵の募集が発表されるや、すぐに志願しました。両親は日本人でも、私はアメリカ生まれのアメリカ人です。両親にいつも「自分の親や国の不名誉になるようなことはするな」と教えられていましたから、迷いはありませんでした。
 
志願兵3千人の募集枠に1万人が応募しましたが、皆思いは同じだったのではないでしょうか。44年春に出兵となり、イタリアのナポリ経由でローマ北部の戦地に配置されました。140高地で戦っていた時にパートナーが砲弾を受け、片足はぶっ飛び、もう一方の足も切断寸前で、皮1枚で繋がっていました。急いで高地から下ろしましたが、そこで戦死しました。
 
近くの川には、ドイツ兵の死体がごろごろと転がっていました。のどが渇いて仕方がないので、死体の転がる川の水を飲みました。病気にならなかったのが不思議です。魚が食べたくなって、近くの海に手榴弾を投げ込み、浮いてきた魚を捕って料理したものです。
 
秋にはマルセーユからフランスを北上し、ボージュ山脈に入りました。雨が続き、とにかく寒かったですね。激戦の末にブリエアの町を解放しましたが、その直後にさらに厳しい戦いが待っていました。敵に包囲されたテキサス部隊「失われた大隊」の救出命令です。I中隊が左方から、K中隊が右方から攻め、私の所属するL中隊は増援部隊となって出撃しました。
 
前線を突破して最初にテキサス兵にたどり着いたのはI中隊でした。こうしてテキサス部隊の仲間でも助けられなかったテキサス兵200数人は、日系部隊によって救出されましたが、日系部隊が出した犠牲者は膨大でした。185人いたI中隊は8人しか生き残らなかったと知り、大きなショックを受けました。戦場では班ごとに動くので、他の部隊のことは引き上げてみないとわかりません。K中隊も17人しかおらず、この時ほど衝撃を受けたことはありませんでした。

二世部隊の戦功は連帯意識の賜物

その後、ビフォンテンでドイツ軍に包囲され、マシンガンの銃撃を受けて左手がぶっ飛びました。そこで左手をなくしましたが、もし横から撃たれていたら死んでいましたから、命が助かっただけでもラッキーでした。
 
バージニアの病院からユタに新設された整形外科専門の軍事病院に輸送され、9カ月に及ぶセラピーを受けました。食事を取る訓練から水泳や乗馬、魚釣りのセラピーまでありました。病院には5千人もの兵士が収容されており、同じ部隊からも9人が入院していました。ユタの日系社会は強制収容の対象にならなかったので、日系社会が毎週のようにイベントに招待してくれたのはいい思い出です。
 
ユタからさらにサンフランシスコの病院に移り、そこでまた新しい義手をもらって除隊となりました。ハワイに帰ったのは、45年のクリスマスの直前でした。ハワイでは公務員になり、日本で行われる工事の通訳として訪日しました。その仕事に就いたのは、両親に会うためです。6年ぶりの再会でした。が、両親は私の姿を見るや号泣しました。その後、ロサンゼルスでGIビル(退役軍人に支給される教育費)を使って大学に進学し、会計士になりました。
 
二世部隊の戦功は、連帯意識の強さによるものだと思います。親のため、国のため、そして子孫のために戦っているのだという意識を皆が持っていたからこそ、あれだけの戦功を残すことができたのではないでしょうか。
 
私は今、生きていることに感謝していますし、アメリカ人としての義務を果たせて良かったと思っています。これまでに世界中を回りましたが、しみじみアメリカ人で良かったと実感しています。

「生きて帰って日本を再建しろと捕虜の日本兵を説得しました」

ジョージ・フジモリさん(86歳)

マンザナーから志願 太平洋諸島の前線へ

ロサンゼルスのダウンタウンで映画を観ていたら、突然映画が中断されてパールハーバー攻撃を知りました。それまではパールハーバーがどこにあるのかも知りませんでした。その後、強制収容が始まり、マンザナー収容所に送られました。当時は日系人の政治家もいなかったので、皆泣く泣く収容所に入るしかなかったのですね。マンザナーはとにかく砂埃がひどくて家の中も砂だらけ。隣の部屋の音も筒抜けでした。
 
マンザナーに行く前に結婚して妻が妊娠していたので、子供が生まれるのを待ってMISに志願しました。私の家族も妻の家族もマンザナーにいたので、妻子のことは心配していませんでした。日系人はアメリカへの忠誠を証明しなければならないと信じていましたが、志願に関しては賛否両論。収容所は不穏な雰囲気に包まれていたため、夜にこっそりと抜け出すようにして入隊式に向かいました。
 
ミネソタ州のキャンプ・サベージで8カ月の訓練を受ける予定でしたが、1カ月半で出兵命令を受け、ブーゲンビル島(現ソロモン諸島)に配属されました。私はどの部隊にも属さない一匹狼で、白人のボディーガード2人と共に、ジャングルで洞窟などに隠れている日本兵に降参するよう呼びかけるのが仕事でした。ある時、弾丸が私のヘルメットをかすりました。大ケガには至りませんでしたが、ヘルメットに穴が開きました。それまでヘルメットを鍋にしてご飯を炊いていたので、困りました。
 
その後、フィリピンのルソン島に行きましたが、日本兵は本当にかわいそうでした。ほとんどが飢えており、銃弾も1人5発しか供給されていません。「撃たなきゃ損」とばかりに撃ち放題の米兵とは、大きな違いでした。

フィリピンで終戦 進駐軍として東京へ

ルソン島でフィリピン人のふりをした脱走兵を見つけたことがあります。フィリピン女性と子供と一緒でしたが、飢えから脱走してフィリピン社会で生活をしていたのです。2人は土下座して「日本には家もないし、もう家族もいない。どうか見逃してくれ」と懇願しました。脱走兵だったので、日本人の捕虜収容所に連れて行くと、そこで日本兵に殺されるのは明白です。そこで白人のボディーガードに事情を説明し、2人を見逃しました。名前も聞きませんでしたが、フィリピンで元日本兵が見つかったという話を聞くたびに、あの2人はどうなったのだろうと思い出します。
 
日本兵は捕虜になるよりも自決の道を選ぶので、まずそれを思いとどまるように説得しなければなりません。日本兵は「天皇陛下のために死ぬ」と言うのですね。それを聞いた時は、「バカを言うな。他人のために死ぬんじゃない」と言いました。私はいつもまずタバコを与え、「日本では生きて帰ると恥と言われるが、アメリカではヒーローなんだ。命を無駄にせずに、生きて帰って日本の再建に貢献するんだ」と説得しました。
 
フィリピンで終戦を迎え、戦後は東京の進駐軍で通訳をしました。横浜では皆怖がって家から出てこないので、安心するように訴えて回りました。道路には人っ子ひとりないのです。でも最初に出てくるのが子供です。子供にチョコレートをやると、母親が出てきます。そうして人々が表に出てくるようになりましたが、夫や子供を亡くして、自ら死を選んだ女性も多く、用水路には死体が重なっていました。
 
MISは極秘扱いだったので、情報が公開された72年まで、誰にもMISの話をしたことはありませんでした。私たちは部隊に属さなかったので、部隊が勲章を受け取っても私たちは叙勲されません。軍の傷病手当が支給されたのも、戦後60年経ってからです。それでも戦後の日系社会の飛躍を見ると、今では日系人の上院議員もいるし、海軍大将や陸軍参謀長まで輩出しました。子供たちもどんな学校にも行けます。日系二世兵士の犠牲は無駄にならなかったと思うと、それが何よりもうれしいですね。

「我々は銃や兵器を開発するよりも暮らしを良くするものを生み出すべき」

ビクター・アベ(87歳)

「我が家の名誉のために戦って」と母から激励

1920年、南ロサンゼルスで岡山県出身の父、広島県出身の母との間に長男として生まれました。父は1905年、16歳の時にビジネスカレッジで学ぶために渡米、ハリウッドのお金持ちの家に住み込みで働きながら学校に通い、卒業後は車のセールスをしていました。
 
私は週5日、放課後の1時間、近くの日本語学校に通っていました。バスケットボールの練習があって毎日は通えませんでしたが、16歳まで行きました。2人の弟、姉、妹や友達との間で話していたのはもっぱら英語。ただし両親とは日本語で話していました。
 
カリフォルニア大学バークレー校で勉強していた頃に太平洋戦争が始まり、21歳になった私にも召集令状が来ました。アメリカ生まれで市民権を持っていたので徴兵されたのです。戦争が始まって、両親は日本にいる親戚のことを大変心配し、2つの国のバックグラウンドを持つ私も曖昧な気持ちで戦争を捉えていました。しかし、母は私に言いました。「我が家の恥となることをしないでほしい。家に名誉をもたらす行いをしてほしい」と。それは、もちろん「アメリカ軍に立派に仕えなさい」という意味です。私は訓練を受けるため、アーカンソーに送られました。
 
軍隊に入ったのは42年の2月。その2カ月後に、家族は強制立ち退きでサンタアニタ競馬場のアセンブリーセンターに送られ、その後、ワイオミング州のハートマウンテンの収容所に入れられました。冬は華氏マイナス36度の極寒です。私や弟たちはアメリカ兵として国に仕える一方、家族は家や職を失い、そんな過酷な暮らしを強いられているということが理解できませんでした。
 
シカゴに移送された姉を尋ねて列車に乗った時に、乗客から「ジャップ」と言われたことがありました。アメリカの軍服を着ているのに、顔が日本人だったからです。その乗客は酔っぱらっていたんですよ。しかし、軍隊の中ではアメリカ人として公平に扱われ、差別を感じたことはありませんでした。

対面した日本兵捕虜は日本人の顔に安心した

MISの語学学校で訓練を受けた私は、日本語を英語へと翻訳する任務を与えられました。サンフランシスコから出航し、オーストラリア、ニューギニア、フィリピン、レイテ島、そしてミンダナオ島に出向きました。私の仕事は主に、日本軍が撤退した後、残骸となったテントや日本兵の遺体などから回収してきた書類・手紙・新聞など日本語の資料を、分厚い辞書を片手に翻訳するというものでした。
 
話すのはあまり得意ではなかったので通訳はしませんでしたが、1度だけフィリピンで捕虜となった日本兵と直接話をしました。その日本兵は私よりも少し年上で、無精ひげをはやし、食糧不足から随分とやせこけていました。出身や家族など身許を尋ね、日本軍に関する情報を聞き出しました。
 
彼はタクシーの運転手で、軍隊ではコックだったようでした。捕虜になって10日ほど経っていたので、落ち着いた様子ではありましたが、私を見ると同じ日本人の顔であることに安心し、タバコを手渡すと喜んでいました。
 
それぞれの地に1カ月から長くて半年滞在し、2年後に除隊。45年の5月にアメリカに戻ってきました。家族はまだ収容所にいたのですが、弟と一緒に貸していた南ロサンゼルスの家を取り戻しました。父の車がまだガレージにあったので、新しいバッテリーとタイヤを交換したところ、ちゃんとエンジンが動き出したんです。家も車も取り戻し、人生が再スタートしたことへの喜びは格別でした。ネクタイの会社で輸入業務に携わった後、バークレーに戻って48年に大学を卒業し、構造エンジニアの仕事に就きました。
 
広島の原爆は、ロサンゼルスに戻ってから、テレビで観ました。恐ろしいキノコ形の雲は衝撃でした。母の親戚の安否をずいぶん心配しましたが、結局連絡が取れませんでした。
 
人間はいつの世も、問題を抱えているものです。地球上のどこかで紛争が起こっています。しかし、多くの命を奪い、環境を破壊し、大金が使われる戦争をもう2度と行うべきではありません。我々は銃や兵器を開発するよりも、暮らしをより良くするものを生み出していくべきだと思います。

「戦時下ではただその状況を理解して自分自身を見失わないことが先決でした」

ジェームズ・ムラタさん(87歳)

「自分はどうなる?」恐怖心に見舞われた

両親は島根県から1900年頃、サンタマリア・バレーの農場に出稼ぎに来ました。私は1920年にサンノゼで生まれた二世で、2人の兄と4人の姉妹の中で育ちました。私が育ったグアダルーペという小さな町には日系コミュニティーが発展しており、日本語学校や仏教会などがありました。週5日間の日本語学校には高校まで通っていましたが、子供たちの間での会話は英語でした。両親は週7日、毎日農作業をしていました。私も学校が終わると、ニンジンを取って束にするなど、両親の手伝いをしたものでした。日本語学校では『君が代』なども教わりましたが、子供でしたから、自分が何であるかなど気にかけることはありませんでした。
 
ラジオで国際状勢を聞いていて、日本との間に何か起こるとは予期していましたが、とうとう太平洋戦争が勃発。日本人移民には夜間外出禁止令が出されました。すでに21歳になっていた私は兵役サービスに登録していたので、いずれ徴兵されることはわかっていましたが、日本軍によるパールハーバー攻撃はどう捉えていいか戸惑いました。「日本人の顔をしたアメリカ人である自分は、これからどうなるのだろう?」という恐怖心でいっぱいでした。
 
42年4月に、家族はテラーリ競馬場のアセンブリーセンターに送られ、炎天の砂嵐の中で4カ月を過ごしました。その後、アリゾナ州ギラに転送され、10万人の中で1年間暮らしました。私は月給16ドルという薄給で、看護師として働きました。親は将来を心配していましたが、私には「なるようにしかならない」という覚悟がありました。収容所での記録が良かったので、その後1年間はアイオワの病院で看護師の職に就きました。そして44年、私の所にも召集令状が来ました。
 
自分には葛藤はありませんでした。顔が日本人であっても、アメリカ人であることに変わりはない。戦争が始まって「日本に帰ってはどうか?」と心配してくれる大人もいましたが、日本という国に行ったこともないので、帰るところではありません。私にはアメリカ兵になるのが当然のことでした。

初めての日本訪問は駐屯兵として

まず、ミネソタにあるMISの語学学校で、通訳・翻訳の訓練を受けました。毎日朝9時から午後5時と夕食後の1時間、土曜日も昼まで授業があり、ひらがな・カタカナに始まって、軍用語や日本の地形なども学びました。毎週テストがあり、成績が悪いと学校を出されましたから、半年間必死で勉強しました。上官は皆白人でしたが、軍隊では差別を感じることはなく、バーにでも行かない限り、嫌な思いをすることはありませんでした。そして、語学学校で終戦を迎えました。
 
カリフォルニアのストーンマンに3カ月いた後、1カ月間フィリピンで待機。その後、東京に進駐して、第一生命ビル内の連合国総指令部に勤務しました。私の業務は上官の住居を探し、報告書を書くというものでした。空襲で焼けたところも多い中、中目黒や新宿には立派な家屋も残っていたのです。
 
日本を見るのはこの駐屯が初めてでした。フィリピンから船で横浜港に向かう際、ずっと曇っていた空が急に晴れて、富士山がくっきりと浮かび上がったのです。廃墟の港とは対照的に、美しく印象的でした。日本にいた1年間に、日光や広島にも訪れました。広島の原爆跡地はすでに整備が進んでいましたが、その悲惨さは想像を絶するものがありました。その後、除隊となってミシガンに戻り、冷蔵庫修理の技術を学び、カリフォルニアに移りました。
 
戦争で多くの命を失った日本に対して遺憾の気持ちはありますが、個人ではコントロールできないこと。私自身、戦時下では状況を理解して行動するしかなく、自分自身を見失わないようにするのが精一杯でした。私にとって、日本はアメリカ以外の国の中で1番好きな国です。今でも日本に観光に出かけます。日本は単なる外国ではなく、確実に私の一部にあると思います。
 
人間は完璧ではありませんから、何かしら過ちを犯します。それでも進歩していると思います。日本人に限らず人間は勤勉です。人種を越えて理解し合い、助け合いながら成長していくことが大切だと思います。
 
取材協力:Go For Broke Educational Foundation (www.goforbroke.org)
 
(2007年8月16日号掲載)

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