戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/トオル・イソベさん

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移住、大不況そして戦争 日系人家族を翻弄した歴史

1926年にサンフランシスコで生まれたトオル・イソベさんは、2歳から12歳まで静岡で育った帰米二世。「父は静岡・歩兵第34連隊を除隊後、サンレアンドロで花農家をしていた伯母夫妻に呼ばれて、19年に渡米。伯母夫妻はもともと出稼ぎのつもりでしたので事業が成功した後、28年に帰国しました。その時2歳だった僕は、子どものなかった伯母夫妻と共に日本に行ったのです」。

アメリカに残ったトオルさんの家族は29年の大恐慌によって全財産を失い、翌30年頃にロサンゼルスに転居した時は食べる物にも事欠くほど。「30年に兄が日本に来たのも、それが一つの理由だったのではないかと思います」。 

30年代の日本はいよいよ太平洋戦争に向かいつつある頃。「当時の日本政府は軍人が牛耳っていておかしなプロパガンダをしていましたが、口に出してはそう言いませんでした。皆、僕がアメリカ人だと知っていましたしね」。

39年、小学校卒業を目前にして、迎えに来た母と共にアメリカに帰国。家族は当時、ダウンタウンLAで労働者向けのホテルを経営していました。トオルさんは帰国後、最初の1年は移民向けのクラスで英語を学び、翌年には9年生に編入。美術に秀で、美術学校の奨学生にも推薦されていました。「ですが、41年に全部ひっくり返ってしまったのです」。

元日本軍人であった父は、真珠湾攻撃の起きた12月7日に逮捕。残された家族は、翌42年5月の半ばにサンタアニタ集合センターに送られ、そしてワイオミング州のハートマウンテン収容所に送られました。「『日系人だから』という理由でキャンプに入れるのは違憲だと僕らは分かっていましたし、人種差別以外の何ものでもないと思ったけれど、できることは何もなかった。大統領の命令だったのですから」。

携帯を許された鞄には衣類を詰め込み、2台の車は売ることもできずに後に残しました。「持っていけないのは皆知っていましたから、誰も買わなかったですよ。でも僕の家族が幸運だったのは、米系の銀座に口座を持っていたこと。日系の銀行は戦争が始まってすぐから1年ほど凍結されてしまって、多くの家族はお金を引き出すこともできなかったのです」。

11月には父もハートマウンテンに合流。しかし食堂で3食が配給されたキャンプでは家族で食卓を囲むことはほとんどなくなりました。「僕の家族を含め、おそらく多くの家族の関係が変わったのではないかと思います」。 

43年に実施された「忠誠登録」では、トオルさんを含め弟妹は27番、28番の質問に「イエス」と回答。「決めかねていた両親に『帰りたいなら自分だけで帰って。僕らは残る』と言い、アメリカで身を立てるつもりだった両親も最終的には『イエス』と答えました」。

終戦後はLAに帰郷 MISとして朝鮮戦争に

左/南北軍事境界線近くのムンサンにて(1953年10月)

右/韓国での従軍中の休暇で京都を訪問(1953年)

忠誠登録を経てキャンプの外での労働が認められたトオルさんは西部の農場で働き、45年の終戦をアイダホで迎えました。戦後はサクラメントで働き、LAに帰郷。「家族も皆LAに戻ってきました。僕は西海岸出身ですからね、西部にはいられなかった(笑)」。

50年には家族で園芸店を始めましたが、トオルさんは52年に徴兵。「適性検査を受けた際、日本語ができたので、MIS候補になりました。基礎訓練後、日本の米軍基地内のMISの学校に8週間通い、そこで軍隊用語を習いました」。朝鮮戦争のさなかの韓国に送られ、北朝鮮の捕虜を日本語で尋問し、英語でレポートを作る業務に約1年間従事。「前線に送られていたら戦死していたかもしれません。この時は日本で教育を受けて良かったと思いました」。

54年に帰国後は、奨学金を得て大学に通うと共に家業を手伝い、58年からは30年にわたって郵便局に勤めました。リタイアした88年は「市民の自由法」が成立した年。「想像もしていなかったので、うれしいというより驚きました。『失ったものはもうないもの。悔やんでも仕方ない』と思っていましたからね」。それまでは収容所の話をすることもなかったというトオルさん。「訊かれなかったから、言わなかったのです。ほとんど誰も知らなかったわけだから、訊かれないのも当然ですね」。

今、トオルさんは流暢な日本語を生かし、全米日系人博物館のボランティアガイドとして、来館者に日系人の歴史を伝えています。

Tohru Isobe

1926年、サンフランシスコ生まれ。2歳から12歳まで日本で育つ。39年に帰国し、ロサンゼルスで学校に通う。42年、家族でワイオミング州のハートマウンテン強制収容所に。44年、キャンプ外での労働に就き、戦後はロサンゼルスに戻る。52年に徴兵され、朝鮮戦争でMISとして北朝鮮人捕虜を日本語で尋問する業務に携わる。帰国後は、88年まで郵便局に30年間勤務。現在、全米日系人博物館でボランティアガイドを務めている。
 
(2015年8月1日号掲載)

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