戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/トシ・オカモト さん

忠誠登録により家族は別々の収容所へ

シアトルを代表する観光名所、パイク・プレイス・マーケットは、1907年に設立された、アメリカで現存する最古の公設市場と言われています。設立当時、シアトル近郊では多くの日系一世二世が農業に従事していて、42年に立ち退きを強制されるまで、多くがここで農作物を販売していました。トシさんもそのうちの一人。「私が幼い頃、父は大きな貿易会社に勤めていました。しかし、29年の世界大恐慌で会社は倒産。家族で郊外へ引っ越し、父は農場で働くようになりました。とても貧しい生活でした。15歳になる頃には車の運転ができない父に代わってトラックを運転し、パイク・プレイス・マーケットへ野菜を運んだものです。学校へ行く前と放課後は父と同じように農場で責任を持って働きました。真珠湾攻撃の日も父と農場にいて、姉が慌てて伝えにきたのを覚えています」。

その後、トシさん一家は、パインデール集合センターを経て、ツールレイク収容所へ。収容の時、トシさんは16歳。翌年17歳になった時に、17歳以上を対象とした「忠誠登録」が行われました。トシさんと姉は27番、28番にも迷わずとイエスと回答。当時、同収容所には両親、そして父と先妻との間の4人の子が暮らしていて、帰米である彼らはトシさんらを説得しようと、一家は大いに揉めました。「結局、母は私と姉に意見を合わせると言い、また心臓疾患があり自立した生活のできなかった父も母に付いていくと言い、義兄たちは私を説得するのを諦めました。イエスと答えた人が別の収容所へ移動となることを知ったのはその後です」とトシさん。

家族皆が同じ収容所にいたトシさん一家は、これにより別々の収容所に暮らすことに…。ツールレイク収容所で忠誠登録にイエスと答えた人の多くは、ミニドカ収容所へ移転しましたが、トシさんらは父の健康状態を理由に、ハートマウンテン収容所へ移転。「移動後に収容所を出て、ワイオミング州の森やオハイオ州クリーブランドで働きました。私は18歳になったら米軍に志願したいと思っていたのですが、両親は私の入営を望んでいませんでした」。そして、欧州戦線が終結した45年、18歳になったトシさんの元へ召集令状が届きます。


戦後のイタリアで従軍 差別を越え、日系社会に貢献

トシさんが最初に収容された、カリフォルニア州のツールレイク収容所のバラック

(1943年頃撮影) Photo Courtesy of James Nakano, Densho

トシさんは、基礎訓練を受けた後、白人の兵士に混じって戦車や大型トラック、水陸両用車などの整備修理のトレーニングを受講。ところが、ほかのメカニックが太平洋へ送られるのを尻目に、トシさんには待機の命。遅れること1カ月。ほかの二世と共に、日系人部隊の第442連隊戦闘団に補充要員として合流すべく、終戦後のイタリアへ向かいました。「442連隊が苛烈な戦闘を経たことは知っていましたが、戦功についての報道は少なく、その時は活躍の一部しか知りませんでした。当時の442の任務はドイツ人捕虜の警護。激戦を経験していないのに、442の退役軍人を名乗るのに、戦後気恥ずかしい思いがしたこともあります」。

ヒロさんは、その後、第88歩兵師団でメカニックとして勤務し、47年に除隊。シアトルへ戻ると、Gービ(退役軍人向けの教育資金等の給付)を使い学校でさらに自動車整備について学びます。自動車の需要が急増していた時代で、整備工は引く手あまた。卒業と同時に白人の同級生が簡単に就職先を決めていくなか、日系二世であるトシさんは差別を受け、なかなか仕事を見つけることができません。トシさんはしばらくシアトルの港で海軍の仕事をした後、シアトル市の採用試験を受験。自動車整備士としてシアトルの消防署で働くことになりました。当時、シアトルの消防署で働く初のマイノリティーだったトシさんは、その後リタイアまで32年間にわたってそこで働きました。

また70年代に、トシさんはシアトルの二世退役軍人の会の代表になります。この頃、シアトルの二世の間で話題になったのが、一世の高齢化。一世が日本語で安心して老後を過ごせる施設を作ろうと話は盛り上がり、トシさんらは「一世コンサーンズ(現・日系コンサーンズ)」を立ち上げました。現在、日系コンサーンズは、高齢者向けサービスの他、幅広い世代が楽しめる教育プログラムなども提供しています。今、シアトルの日本人、日系人が安心して老後を送れる背景には、トシさんら二世の退役軍人の努力があるのです。

Tosh Okamoto

1926年、シアトル生まれの日系二世。両親は熊本県出身。ツールレイク収容所、ハートマウンテン収容所を経て、18歳の時に徴兵。軍用車の整備などのトレーニングを受け、第442連隊戦闘団の補充要員として終戦後のイタリアへ。47年除隊。終戦後は、消防署に勤務する傍ら、高齢化した一世が日本語で介護を受けるための施設「日系コンサーンズ」設立に共同設立者の一人として関わり、2期にわたり同団体の代表を務めた。
 
(2015年8月1日号掲載)

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