村上真由美 / ソフトボールリーグ・コーディネーター

ライトハウス電子版アプリ、始めました

(ライトハウス・ロサンゼルス版 2008年9月1日号掲載)

オリンピックに匹敵する国際大会の開催をめざす

幾度の苦節を経てプロデビューを果たす

高校卒業後、トヨタ自動車に入社し、日本リーグで投手として活躍。アメリカのプロリーグ入りをめざして2000年渡米。05年、テキサス・サンダースで日本人初のプロソフトボールプレイヤーになる。06年に引退し、Women’s Major League Softball Internationalを設立し、同年より毎年、世界大会を企画・運営。コーディネーター、指導者、TV解説者としても活躍中。

ソフトボールのプロを目指して2000年に渡米しました。私は、1996年アトランタ五輪の出場選手に選ばれたのですが、公式発表後に代表から外されてしまいました。自分ではどうしようもできない力に、夢を打ち砕かれてしまったのです。ですからプロを目指したのは、「このままで終わりたくない」という気持ちからでした。
 
テキサスのチームと契約したのですが、直後に経営不振でリーグが消滅。「何てついてないんだろう」と思いましたが、悩みませんでした。リーグ休止の手紙に、「来年頃に再開予定」と書いてあったので、その時は自分で契約しよう、そのためには英語が必要だと考え、語学学校に行きました。その後、コーチングのサティフィケート取得のため大学に進学。在学中もソフトボールを続け、州のチャンピオンにもなったんですよ。
 
その後サクラメントのチームと契約しましたが、開幕までにビザが取得できず、プレーできないことに。夢の実現まであと1歩でまたしても阻まれてしまったわけですから、この時はさすがに落ち込みました。結局、プロデビューを果たしたのは渡米5年後。開幕戦で、ユニフォームを着てアメリカ国歌を聴いた時は感無量で、「諦めなくて良かった」と心から思いました。

素人チームのプレーで楽しさを再認識

「ロビンス」というサウスベイのクラブチームでプレーしたのもいい思い出です。実業団でプレーしていた私が、いわば草野球チームでプレーしたわけですが、本当に楽しくて。変なプライドがあったんでしょうね。でも、アメリカでは関係ない。1から自分のことを知ってもらうため、多くの人にプレーを見てもらって、夢を語りました。

子供たちの夢にひと役買いたい

WMLSのチームメンバーと、1番左が村上さん。生き生きとした表情が印象的

プロでは1シーズンプレーしましたが、年齢的なことと、リーグの問題点を改善したいという気持ちから引退。今はWMLSI(Women’s Major League Softball International)という国際大会の企画・運営に携わっています。この大会は06年から始まり、カリフォルニアで毎年開催しています。ソフトボールは、プロといっても契約金は少額ですが、優秀な選手はたくさんいます。その人たちに活躍の場を与えたかったのです。
 
ソフトボールは、今回の北京五輪が最後。12年のロンドン大会からは正式種目から外されます。16年の復活を目指し活動をしていますが、前途は多難です。ですからWMLSIを五輪に代わる大舞台にするのが目標です。最終的には、各国のリーグ優勝チームが一堂に会するワールドカップにしたい。日本には12の実業団チームがありますが、「優勝の先に国際大会」という目標があれば、やる気もレベルもアップするはずです。
 
日本ではただでさえ夢のない子供が増え、五輪でプレーできない現実が、一生懸命ソフトボールをやっている子供たちの夢を奪っている。だからこそ、彼らが目標にできる大会や、「アメリカでプロになりたい」と思えるプロリーグを作りたいって思うのです。私が頑張ってこられたのも、ソフトボールという夢があったから。自信を持てるものが1つでもある、ってことは大切なことですし、幸せなことです。子供たちにそれを見つけてもらいたい。私はソフトボールを通して、そのお手伝いをしたいのです。ことはありません。第2次世界大戦で日系人の方たちが受けた差別を考えたら、時代は本当に進んだなと感じますね。

※このページは「ライトハウス・ロサンゼルス版 2008年9月1日号」掲載の情報を基に作成しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

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