井上怜奈/フィギュアスケート選手

ライトハウス電子版アプリ、始めました

スケートが好きで、ひたむきに練習を重ね、ペアとシングルで2度のオリンピック出場。だが、一時は情熱も目標も見失い、さらにガンに苦しめられ、引退を考えた。しかし、アメリカに拠点を移し、ゼロからの再出発。「スケートを楽しむ」という原点に立ち戻り、3度目のオリンピックは、米国籍を取得し、アメリカ人として出場した。肩の力を抜いてスケートをとことん楽しんだ、井上さんに話を聞いた。

トリノの米国代表に選ばれた時は、なるべくしてなったと思いました

いのうえ・れな◉1976年10月17日生まれ。兵庫県西宮市出身で、千葉県松戸市育ち。早稲田大学出身。4歳からスケートを始め、中学3年の時、アルベールビルオリンピックにペアで出場、14位。高校2年の時には、リレハンメルオリンピックにシングルで出場、18位。肺ガンにより父を失い、直後に自身も肺ガンを患うが、現役復帰。2001年からアメリカに拠点を移し、ジョン・ボールドウィンとペアを組んで、全米選手権、四大陸選手権で優勝。05年、米国市民権を取得、トリノオリンピックにはアメリカ代表として出場、7位入賞を果たす。

マイペースで努力するのも才能

スケートを始めたのは、小児ぜんそくを患ったから。4歳の時に、かかりつけのお医者さんが水泳かスケートをしてみたらと言うので、両方始めました。選手になりたいと思って始めたわけではなく、スケート教室で滑っていたら遊んでくれる先生がいて。基本的なスピンとかジャンプを教えてくれたのが子供心に楽しくて、教え方が上手だったからか、ちょっとずついろんなことを学ぶようになりました。

選手になったきっかけは覚えていないんです。上手な選手が練習していると、「すごいなー」と思うことはあっても、選手になろうとか優勝しようとか思ったことはなくて。ただ、最初からスケートが好きで、練習が好きだから、言われたことを一生懸命やりました。「才能とか運動神経だけなら、もっと素晴らしい子もたくさんいるけど、君はマイペースだけど努力できる。努力も才能のひとつだよ」と、先生に言われたことがあります。そのマイペースが玉に瑕でしたが(笑)。

最初はシングルでやっていて、小学4年生の時からペアも始めたんです。シングルでは、それこそマイペースだから、「スピード出して」と言われても自分のペース。だから先生が、身体の大きい子や男子と組ませたら、スピードとかパワーが付くんじゃないかと。

ペアでは1992年にアルベールビルオリンピックに出場。94年にはシングルでリレハンメルオリンピックに出ました。ただ、この年の最終目的はオリンピックではなくて、世界ジュニアでした。それが急に出られることになってパニックに。心の準備ができていなかったんです(編集部注:シングル18位)。2006年にトリノに出て、その差は歴然としていました(編集部注:ペア7位入賞)。競技ってパニックになるとおしまいなんですよ。自分自身じゃなくなっているんです。だからリレハンメルの経験があって良かったかなと。

独りの渡米生活で親のありがたみを痛感

アメリカに来たのは95年、たまたま私の友達が3カ月間練習しに行くから、「一緒に行かない?」と誘われて。私が「燃え尽き症候群」みたいな状態だったので、環境を変えてリフレッシュさせるために誘ってくれたんでしょう。みんなに言われたのは、私みたいになりたいと思っている子がたくさんいて、でも実際なれる子は本当にひと握り、そのひと握りにいるのに辞めちゃうのはもったいないと。ただ、自分の中で何か燃えるものがなければできません。親は「スケートのことは、自分で決めてやりたいようにしなさい」と言ってくれました。「もったいない」と言わなかったのは、うちの親くらいです。

ただ、こっちに来たら自分のやりたいようにして、自分の中にそれなりの目標があって、楽しくやっている子がたくさんいて。そういう場面に出会えて、「自分も楽しいからスケートしていた時期もあったな~。あの時はどこに行っちゃったんだろう」と、振り返ることのできるチャンスでした。

96年のシーズンが終わった時、スケート連盟の人に、今度は長期間で練習してみたらどうかとすすめられて、再度渡米しました。私は典型的なひとりっ子で、何でも自分が困る前に与えられる感じだったのが、急に何もかも自分でやらなきゃいけない。どれだけ親がやってくれていたか痛感しました。そのおかげで、自分で人生のリーダーシップを取れるようになったし、大人になるためのちょうどいい成長の時期だったのかもしれません。

ジョニー(編集部注:現ペア・パートナーのジョン・ボールドウィン)と出会ったきっかけは、ジョニーのパートナーを探していたお父さんに私の先生が会って、私の名前を挙げたから。それからホームステイ先に毎日、多い時には1日2、3回も勧誘の電話がかかってきました。私の中では00─01年のシーズンで引退と決めていましたが根負けして、トライアウトして、さっさとお断りしようと思ったのが始まりです。

パートナーのジョンさん(右)の母親(左)が練習風景を撮影し、父親(左から2人目)がコーチを務めるというボールドウィン家は、熱心なスケート一家

やる気のないペアが一念発起でトリノへ

ジョニーも、親にやらされて仕方がなくスケートを続けているというような、やる気のない状態。それで結局、私も最後の年だから、うまく行っても行かなくてもいいやと、ジョニーとペアを組むことに。ただ、当時は永住権を持っていないと、アメリカで試合に出られなかったんです。永住権が取れたのが00年8月1日。試合に出たかったら8月31日までにテストを受けなきゃいけないんです。30日間で、曲を選んで、プログラムを作って、テストの準備をして。どうやってテストに受かったんだろうっていうくらい下手くそだったのに、受かったんです。

でも、2人ともペアのスケーターの身体じゃないのに、無理矢理いろんなことをやろうとしたから、ジョニーは手の骨を折って、私は脚を疲労骨折。予選大会1週間前に病院にチェックに行ったら、ジョニーはまだ骨がくっついていなくてギプスが取れない。結局、リフトの練習を始めたのが試合前日。それでも予選を通ってしまいました。

そんな状況だから、01年の全米選手権はビリから2番目。でも、周りの人が、「2人は練習したら絶対いいチームになる」と言ってくれて。3カ月半しか時間がなかったのに、ここまでできたから、1年間一生懸命練習したらどこまで行けるか試してみよう。やる気のない、成功してもしなくてもどっちでもいいみたいな2人が、本格的にチームとして起動したのがこの時です。

04年に初めて全米優勝、全米選手権でも優勝し、05年も全米選手権で2位と、着実に結果が良くなってきて。それぐらいからトリノオリンピックを狙える位置にいるかなと感じました。だから、トリノの米国代表に選ばれた時は、なるべくしてなったと思いました。いいチームにしたいと思って練習を積んできたからわけですから。驚きとか、そういうものはなかったですね。ただ、日米両方でオリンピックに出場したことは、貴重な経験だと思いました。

今シーズンで現役を終えるのですが、これからは子供たちにスケートを教えたいですね。ショーのお話とかももらったりしています。実は、スケートをずっとしてきたので、辞めてすぐにまたリンクに戻りたいとは思わないんですけど(笑)。だけど、選手は辞めてもスケートは続けて行くと思うんです。自分がいろいろな経験をしてきたので、それが活かせる場所だし、私にとって、それがリラックスの手段ですからね。
 
(2007年1月1日号掲載)

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