タダシ・ショージ/ファッションデザイナー

ライトハウス電子版アプリ、始めました

自称〝ネクラのフリーター〟から、今や世界30カ国で展開するファッションデザイナーになった。4年前からはミス・ユニバースの公式スポンサーとして、世界の美女が大舞台で着るドレスを提供し、「タダシ」の名は世界中に放映されている。特に目的もなく訪れたロサンゼルスで開花した才能を支えたのは、失敗にくじけない前向きな性格と、自分に対するプライドだった。

日本でできなくてもそれで終わりと思わず世界は広いのだから海外で試せばいい

しょーじ・ただし◉1948年生まれ。宮城県仙台市出身。高校卒業後、上京して高松次郎氏に師事。その後、数々の仕事をした後、73年渡米。トレードテクニカル大学ファッションデザイン科で勉強する傍ら、コスチュームデザイナーのビル・ウィットン氏のスタジオに勤務。82年、パートナーと「タダシ」を設立。6年前に単独オーナーに。現在では全米3000店以上のデパートやブティックで販売され、04年に旗艦店となる1号店をサウスコーストプラザ、2号店をラスベガスのフォーラムショップにオープン。上海にもデザインスタジオを立ち上げ、世界30カ国で展開している。

LAに長期滞在したくてファッションデザインの道に

幼い頃から絵を書くのが好きで、東京芸術大を受けたのですが、落ちてしまって。親にお金を出してもらって私立に行くのは嫌だったので、どうしようかと思っていた時、たまたま入った画廊で、現代美術の旗手だった高松次郎さんがアシスタントを探していると教えてもらったのです。普段、人とはあまり話さないほうなのに、なぜかその時は画廊の人とそんな話になったんですね。高松さんは好きなアーティストだったので連絡したら「すぐに来てください」ということになり、3年ほどアシスタントをしました。

アシスタントを辞めた後は、不動産雑誌の広告取りをしたり、船乗りをしたり、倉庫で荷物の仕分けをしたりなど、いろいろな仕事をしました。当時はフリーターという言葉もなかったけれど、ネクラのフリーターだったんです。さすがに「このままじゃダメだ」と(笑)。

高松さんのところにいた60年代後半から、世界のアートの先端であるニューヨークに行きたいと思っていたので、ナイトクラブのバーテンダーをしたり、赤坂のレストランでアシスタントマネージャーをしたりしてお金を貯めて、渡米したのが25歳の時です。

でもその頃は、特に目的もなかった。ロサンゼルスに来たのも、たまたま友達がロサンゼルスにいたからで、友達が南アフリカにいたら、南アフリカに行っていたかもしれない(笑)。どんな風に生活できるかも知らないで、ロサンゼルスに来ちゃったんですね。まず無料のアダルトスクールで英語を勉強しましたが、天気は良いし、いい所だと思って、長期滞在したくなった。そのためには学生ビザ取得が手っ取り早いのですが、4年制大学に行くほどのお金がなかったんです。それでたまたま友人の友人が、学費の安いトレードテクニカル大学を見に行くというのでついて行った。それがファッションデザイン科でした。

公式デザイナーを務めるミス・ユニバース大会。2006年度は世界170カ国以上でテレビ放映された

1枚の布で作る過程が彫刻のようでハマッた

姉がファッション関係の仕事をしていたので、イブ・サンローランやケンゾーが頭角を現していたことや、プレタポルテが始まっていたのは知っていましたが、それ以外はミシンの使い方も知りませんでした。それまでファッションデザイナーになりたいと思ったこともなかったし、ビザが欲しくて入った学校で、そもそもファッションデザインはアートではないと思っていた。ところが、、勉強してみるとハマった。

当時、日本では立体裁断もなかったのに、アメリカでは立体裁断だけ。1枚の布をマネキンに巻きつけて作っていくのですが、平面のファブリックをつけて形を作っていくのは彫刻のようで、これはおもしろいと思いました。僕はドレーピングで売れ出したのですが、ドレーピングの面白さを知ったのはこの時です。

その頃からオーダーメイドのオートクチュールより、大量生産のプレタポルテがやりたかった。でも学校では、いつも前日にテレビで見たドレスの話をしていました。あの当時、『キャロル・バネットショー』とか『ザ・サニー・アンド・シェアー・コメディーアワー』などのショーがあって、キャロル・バネットやシェアーがいつもすごいドレスを着て登場していたんです。するとある日、友人が「業界紙にコスチュームデザイナーのビル・ウィットンさんの求人募集が出ている」と教えてくれました。

それでスケッチを持っていくと、絵は上手かったからすぐに採用され、「40時間働きなさい」というので、午前は学校に行って、午後と週末に仕事しました。だから僕は、本当にラッキーなんですよ。

ビルは当時、エルトン・ジョン、スティービー・ワンダー、ジャクソンズなどのコスチュームを手がけていましたが、コスチュームはエンターテイナーのために作るので、オートクチュールと同じ。ここでフィッティングの仕方やドレス作りのノウハウを覚えました。大学を卒業後もそこで仕事をしていましたが、何回か辞めて、するとまた呼んでくれて、そのたびにポジションが上がって、給料も上がりました(笑)。

その間、プレタポルテの5、6社で働きました。最後にいた「ブラックウェル」のブランドは小さな会社だったので、デザインしてパターンを取ってと、すべて自分でやらなくてはならなかった。大量生産のA to Zはここで覚えました。

82年にパートナーが見つかって、「タダシ」の名で会社を設立しました。最初のシーズンに、オフィスからそのままシアターに行けるようなデイタイムドレスを出したら、バーグドルフ・グッドマンが買ってくれました。それが売れたので、今度はカクテルドレスも作ったら、サックスが最初に買ってくれ、これがまたすごく売れたのです。ブルーミングデールやニーマンマーカスなども買ってくれるようになり、デイタイムドレスよりも売れ出したので、カクテルドレス主体に切り替えました。

ファッション業界のアカデミー賞とも言われるダラス・ファッションアワードの授賞式にて

日本人でも性格が日本に合っているとは限らない

6年前から単独オーナーとなり、知名度を上げるために広告も出すようになったら、会社は3倍くらい大きくなりました。ミス・ユニバースのスポンサーとしてドレスを提供するようになったのは4年前からです。

パートナーシップを解消した時は、すべてを失う可能性もあったので1番大変でしたが、僕は過去のことにくよくよしないんですね。1回の人生だから、失敗したことに対して反省して、将来のために頑張りましょうと考えたら、それでいい。

フリーターの時も、後悔はしなかったし、大変だとも思わなかった。当時は東京で姉と同居していたのですが、姉は親兄弟に言いつけなかった。だから姉には感謝しています。自尊心と自信はあったから、姉も「危なっかしいけど、この子はやるんじゃないか」と思っていたんでしょうね。

僕は10歳くらいの時から、将来は絵描きになってパリに住もうと思っていました。日本人だから日本に住まなくてはならない、ということはありません。アメリカ人でも日本が好きで日本に住んでいる人も大勢いるし、日本人でもその人の性格が日本に合っているかどうかはわからない。日本でできなくても、それで終わりだとは考えなくてもいいのです。世界は広いのだから外国に出て試してみればいい。

今は旅費も安いのだから、海外に出て、良かったらそこに住めばいいし、やってみないことにはわからない。そんな風に考えたら、イジメやネクラもなくなるんじゃないでしょうか。

今は店も2軒あるし、世界30カ国で販売していますが、中国にもスタジオがあるので、これからは中国でネームブランドの展開を広げていきたいですね。
 
(2007年1月1日号掲載)

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