最新号特集
日系人の葛藤と決意
2世たちの戦争体験
日系部隊の歴史
パールハーバー攻撃で始まった日米の戦争は、アメリカの日系人社会に大きな打撃を与えた。
日系人は以前から激しい排斥に遭っていたが、この日を境に「敵性外国人」のレッテルを貼られた。
アメリカ人として生まれた2世たちは、米兵として戦地に向かい、命をかけてアメリカへの忠誠を証明した。
今回は、元日系部隊の兵士たちの戦争体験談を紹介しよう。
©US Army Photograph
パールハーバーの衝撃
日系人は「敵性外国人」に
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日系人の人口が急激に増加したのは20世紀の初頭だ。日系人が農業などで頭角を現すようになると、特に西海岸を中心に激しい排日運動が展開された。その蓄積された排日感情の火に油を注いだのが、日本軍によるパールハーバー攻撃だった。
1941年12月7日(現地日付)、ハワイの海軍基地パールハーバーが日本軍によって奇襲攻撃を受けると、日系人リーダーたちは直ちにFBIによって検挙され、日系人は日本人の血を引いているというだけで「敵性外国人」のレッテルを貼られた。
翌年2月19日、ルーズベルト大統領は大統領命令9066号に署名した。これは裁判や公聴会なしに、特定地域から日系人を排除する権限を陸軍に与える法律だ。
同年3月2日、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア州の西半分とアリゾナ州南部が第1軍事地域に指定され、強制立ち退きが開始。強制立ち退きを強いられた人は全米10カ所にある日系人収容所に送られたが、その総数は12万人に上った。
優秀な訓練成績を出し
1日も早く前線へ
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パールハーバー攻撃の前年11月には、全米で徴兵制度が再導入されていた。40年の国勢調査によると、日系人はハワイ全人口の37・3%を占め、白人の24.5%を抜いて人口比率のトップだった。当時、統治領だったハワイでも徴兵が始まると、約3千人いたハワイ統治領防衛兵の約半数が日系人で占められるという結果になった。
開戦後、軍部が頭を痛めたのが彼ら日系兵の存在だ。軍部は、緊急対策として日系兵だけを集めて本土へ移送することにした。彼らは第100歩兵大隊と名付けられたが、兵士たちはいつしか自らを「ワンプカプカ」と呼ぶようになった。ハワイ語で穴のことをプカといい、その延長線でゼロをプカと呼ぶ。
彼らは訓練で良い成績を残し、1日でも早く前線で戦功を挙げることが自らの任務だと考え、あえて「リメンバー・パールハーバー」をモットーに訓練に励んだ。
陸軍マニュアルによると、重機関銃の組み立てに要する時間は16秒で「可」の評価だが、日系兵には5秒という記録を出した兵士がいた。彼らの訓練ぶりを視察に来たある将校は「今までに指揮したどんな100人よりも、彼らのような100人を部隊に持ちたい」と報告している。
アメリカのために
死ねる権利を要求
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ワンプカプカの兵士たちが訓練に励んでいた頃、ハワイでは土木工事に精を出す学生たちがいた。ハワイ大学でROTC(予備仕官訓練)を取っていた学生たちだが、開戦直後に何の説明もなく除隊された。そこで日系学生の約半数にあたる169人が軍上層部に嘆願書を出し、「ハワイは私たちの故郷で、アメリカは私たちの国です。どんな仕事でもかまわないので、アメリカに尽くす機会を与えてほしい」と訴えて、部隊編成の許可を得ていた。
正式には技術予備労務隊と呼ばれ、陸軍工兵連隊所属となったが、実質的に彼らに与えられた仕事は、一般市民が請け負う肉体労働だった。彼らは自ら「トリプルV:大学必勝義勇隊」と名乗り、兵舎や倉庫の建設や道路工事などで汗を流した。
その頃、アメリカ本土でも若き日系人リーダーたちが、日系人の徴兵実施を政府に求めていた。JACL(日系市民協会)は42年11月、ソルトレイクシティーで緊急総会を開いて、日系兵部隊の編成について協議している。その結果、徴兵許可を求める案が全会一致で決議された。
ついに43年2月、ルーズベルト大統領は、日系志願兵からなる第442連隊の編成を発表した(日系兵の徴兵開始は44年1月)。こうして2世たちは晴れて「アメリカのために死ねる権利」を得た。ただし将校は白人であることが条件だった。
多くの司令官が欲しがる
名誉の部隊として活躍
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1年3カ月の長い訓練を終えた第100大隊の兵士は、北アフリカ経由でイタリア戦線に参加し、初戦から「前線で決して振り返らない兵士」と呼ばれて高い評価を得た。第442連隊がイタリアに出兵すると、第100大隊は第442連隊の第1大隊として編成されたが、その戦功に敬意を表して第100大隊の名を継続して使用する許可を得ている。
日系部隊は各地で軍史に残る戦功を残した。なかでも有名なのが「失われた大隊救出作戦」だ。フランスのドイツ国境近くのボージュの森で、連合軍は激しいドイツ軍の反撃に遭い苦戦を強いられていた。第442連隊が山間の町ブリエアを解放した直後、テキサス兵たちは敵兵に囲まれ動きが取れなくなった。
テキサス兵の救出命令を受けた日系兵たちは深い森の中に出動、炸裂する砲弾の中を6日間駆け抜けた。ようやく第3大隊I中隊が「失われた大隊」を救出した時、185人中わずか8人しか残っていなかった。
ほぼ休みなしに戦い続けた34日間で、日系部隊はブリエアを解放し、212人のテキサス兵を救出し、その後9日間におよぶ前進を続けた。この間に日系部隊が出した戦死者は216人、負傷者856人以上。兵力は半分以下になっていた。
現在ブリエアには、解放を記念して「リベラシオン(解放)通り」と名付けられた道路がある。ここから折れた森へと伸びる道は「第442連隊通り」だ。森の入り口に建つ記念碑には「国への忠誠とは人種のいかんに関わらないことを、改めて教えてくれた米軍第442連隊の兵に捧げる」と刻まれている。
太平洋戦線で活躍した
MISの日系兵士たち
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パールハーバー攻撃直前の1941年11月、サンフランシスコのプレシディオ陸軍基地内に、MIS(Military Intelligence Service:軍事情報機関)管轄の語学学校が極秘で開設された。日米間の緊張が高まる中、日本語教育機関の必要性を考慮して設立された日本語学校だ。戦後の46年6月、米陸軍語学学校と改名され、それまでに約6千人の卒業生を出したが、その85%が日系2世兵士であった。
第442連隊がヨーロッパ戦線で活躍し、その戦功が華々しく報道されたのに対して、MISの任務は極秘扱いであったため、長い間、その存在すら知られていなかった。
日本語学校を卒業したMISの兵士たちは、アッツ島やガダルカナルの戦闘、フィリピン奪回や沖縄戦など、太平洋戦線の激戦地に配属された。日本兵捕虜の尋問や押収した日本語書類の翻訳、日本軍の通信傍受などを担当し、前線に出る時は日本兵と間違って撃たれないように、必ず米兵と共に行動したという。
戦後は進駐軍の一員として日本の復興にも寄与した。戦中・戦後を通して、米軍と日本人との架け橋として彼らが果たした役割は大きい。
MISの戦功が一般に知られるようになったのは、72年、ニクソン大統領が大統領命令11652号を発令し、第2次大戦中の軍事情報の機密扱いを解除してからのことだ。
2000年4月、陸軍は第2次大戦に従事したMISの兵士に対して、55年遅れの大統領冠状を授与した。
(2007年8月16日号掲載)





