最新号特集
日系人の葛藤と決意
2世たちの戦争体験
元日系兵士たちの証言(1)
「第442連隊で左手を失いましたが
米国人としての義務を果たせました」
「失われた救出作戦」で
犠牲者の多さに愕然
![]() ドン・セキさん(83歳) |
私はパールハーバーの請負業者で働いていましたが、攻撃のニュースは自宅で聞きました。聞いた時のショックは計り知れません。人口の4割が日系人のハワイをなぜ日本は攻撃したのか。気分が悪くなりました。実はパールハーバー攻撃の数カ月前に、両親は日本に永住帰国していました。両親は末っ子の私を連れて帰国するつもりだったのですが、私はそれを断っていたのです。
翌日仕事に行くと、海兵隊に追い出されました。日系人はどの軍事基地でも働けなくなったのです。43年3月、志願兵の募集が発表されるや、すぐに志願しました。両親は日本人でも、私はアメリカ生まれのアメリカ人です。両親にいつも「自分の親や国の不名誉になるようなことはするな」と教えられていましたから、迷いはありませんでした。
志願兵3千人の募集枠に1万人が応募しましたが、皆思いは同じだったのではないでしょうか。44年春に出兵となり、イタリアのナポリ経由でローマ北部の戦地に配置されました。140高地で戦っていた時にパートナーが砲弾を受け、片足はぶっ飛び、もう一方の足も切断寸前で、皮1枚で繋がっていました。急いで高地から下ろしましたが、そこで戦死しました。
近くの川には、ドイツ兵の死体がごろごろと転がっていました。のどが渇いて仕方がないので、死体の転がる川の水を飲みました。病気にならなかったのが不思議です。魚が食べたくなって、近くの海に手榴弾を投げ込み、浮いてきた魚を捕って料理したものです。
秋にはマルセーユからフランスを北上し、ボージュ山脈に入りました。雨が続き、とにかく寒かったですね。激戦の末にブリエアの町を解放しましたが、その直後にさらに厳しい戦いが待っていました。敵に包囲されたテキサス部隊「失われた大隊」の救出命令です。I中隊が左方から、K中隊が右方から攻め、私の所属するL中隊は増援部隊となって出撃しました。
前線を突破して最初にテキサス兵にたどり着いたのはI中隊でした。こうしてテキサス部隊の仲間でも助けられなかったテキサス兵200数人は、日系部隊によって救出されましたが、日系部隊が出した犠牲者は膨大でした。185人いたI中隊は8人しか生き残らなかったと知り、大きなショックを受けました。戦場では班ごとに動くので、他の部隊のことは引き上げてみないとわかりません。K中隊も17人しかおらず、この時ほど衝撃を受けたことはありませんでした。
2世部隊の戦功は
連帯意識の賜物
![]() |
その後、ビフォンテンでドイツ軍に包囲され、マシンガンの銃撃を受けて左手がぶっ飛びました。そこで左手をなくしましたが、もし横から撃たれていたら死んでいましたから、命が助かっただけでもラッキーでした。
バージニアの病院からユタに新設された整形外科専門の軍事病院に輸送され、9カ月に及ぶセラピーを受けました。食事を取る訓練から水泳や乗馬、魚釣りのセラピーまでありました。病院には5千人もの兵士が収容されており、同じ部隊からも9人が入院していました。ユタの日系社会は強制収容の対象にならなかったので、日系社会が毎週のようにイベントに招待してくれたのはいい思い出です。
ユタからさらにサンフランシスコの病院に移り、そこでまた新しい義手をもらって除隊となりました。ハワイに帰ったのは、45年のクリスマスの直前でした。ハワイでは公務員になり、日本で行われる工事の通訳として訪日しました。その仕事に就いたのは、両親に会うためです。6年ぶりの再会でした。が、両親は私の姿を見るや号泣しました。その後、ロサンゼルスでGIビル(退役軍人に支給される教育費)を使って大学に進学し、会計士になりました。
2世部隊の戦功は、連帯意識の強さによるものだと思います。親のため、国のため、そして子孫のために戦っているのだという意識を皆が持っていたからこそ、あれだけの戦功を残すことができたのではないでしょうか。
私は今、生きていることに感謝していますし、アメリカ人としての義務を果たせて良かったと思っています。これまでに世界中を回りましたが、しみじみアメリカ人で良かったと実感しています。
「生きて帰って日本を再建しろと
捕虜の日本兵を説得しました」
マンザナーから志願
太平洋諸島の前線へ
![]() ジョージ・フジモリさん(86歳) |
ロサンゼルスのダウンタウンで映画を観ていたら、突然映画が中断されてパールハーバー攻撃を知りました。それまではパールハーバーがどこにあるのかも知りませんでした。
その後、強制収容が始まり、マンザナー収容所に送られました。当時は日系人の政治家もいなかったので、皆泣く泣く収容所に入るしかなかったのですね。マンザナーはとにかく砂埃がひどくて家の中も砂だらけ。隣の部屋の音も筒抜けでした。
マンザナーに行く前に結婚して妻が妊娠していたので、子供が生まれるのを待ってMISに志願しました。私の家族も妻の家族もマンザナーにいたので、妻子のことは心配していませんでした。
日系人はアメリカへの忠誠を証明しなければならないと信じていましたが、志願に関しては賛否両論。収容所は不穏な雰囲気に包まれていたため、夜にこっそりと抜け出すようにして入隊式に向かいました。
ミネソタ州のキャンプ・サベージで8カ月の訓練を受ける予定でしたが、1カ月半で出兵命令を受け、ブーゲンビル島(現ソロモン諸島)に配属されました。私はどの部隊にも属さない一匹狼で、白人のボディーガード2人と共に、ジャングルで洞窟などに隠れている日本兵に降参するよう呼びかけるのが仕事でした。
ある時、弾丸が私のヘルメットをかすりました。大ケガには至りませんでしたが、ヘルメットに穴が開きました。それまでヘルメットを鍋にしてご飯を炊いていたので、困りました。
その後、フィリピンのルソン島に行きましたが、日本兵は本当にかわいそうでした。ほとんどが飢えており、銃弾も1人5発しか供給されていません。「撃たなきゃ損」とばかりに撃ち放題の米兵とは、大きな違いでした。
フィリピンで終戦
進駐軍として東京へ
![]() |
ルソン島でフィリピン人のふりをした脱走兵を見つけたことがあります。フィリピン女性と子供と一緒でしたが、飢えから脱走してフィリピン社会で生活をしていたのです。
2人は土下座して「日本には家もないし、もう家族もいない。どうか見逃してくれ」と懇願しました。脱走兵だったので、日本人の捕虜収容所に連れて行くと、そこで日本兵に殺されるのは明白です。
そこで白人のボディーガードに事情を説明し、2人を見逃しました。名前も聞きませんでしたが、フィリピンで元日本兵が見つかったという話を聞くたびに、あの2人はどうなったのだろうと思い出します。
日本兵は捕虜になるよりも自決の道を選ぶので、まずそれを思いとどまるように説得しなければなりません。日本兵は「天皇陛下のために死ぬ」と言うのですね。それを聞いた時は、「バカを言うな。他人のために死ぬんじゃない」と言いました。私はいつもまずタバコを与え、「日本では生きて帰ると恥と言われるが、アメリカではヒーローなんだ。命を無駄にせずに、生きて帰って日本の再建に貢献するんだ」と説得しました。
フィリピンで終戦を迎え、戦後は東京の進駐軍で通訳をしました。横浜では皆怖がって家から出てこないので、安心するように訴えて回りました。道路には人っ子ひとりないのです。
でも最初に出てくるのが子供です。子供にチョコレートをやると、母親が出てきます。そうして人々が表に出てくるようになりましたが、夫や子供を亡くして、自ら死を選んだ女性も多く、用水路には死体が重なっていました。
MISは極秘扱いだったので、情報が公開された72年まで、誰にもMISの話をしたことはありませんでした。私たちは部隊に属さなかったので、部隊が勲章を受け取っても私たちは叙勲されません。軍の傷病手当が支給されたのも、戦後60年経ってからです。
それでも戦後の日系社会の飛躍を見ると、今では日系人の上院議員もいるし、海軍大将や陸軍参謀長まで輩出しました。子供たちもどんな学校にも行けます。日系兵士の犠牲は無駄にならなかったと思うと、それが何よりもうれしいですね。
(2007年8月16日号掲載)
![]() |




