最新号特集
日系人の葛藤と決意
2世たちの戦争体験
元日系兵士たちの証言(2)
「我々は銃や兵器を開発するよりも
暮らしを良くするものを生み出すべき」
「我が家の名誉のために
戦って」と母から激励
![]() ビクター・アベ(87歳) |
1920年、南ロサンゼルスで岡山県出身の父、広島県出身の母との間に長男として生まれました。父は1905年、16歳の時にビジネスカレッジで学ぶために渡米、ハリウッドのお金持ちの家に住み込みで働きながら学校に通い、卒業後は車のセールスをしていました。
私は週5日、放課後の1時間、近くの日本語学校に通っていました。バスケットボールの練習があって毎日は通えませんでしたが、16歳まで行きました。2人の弟、姉、妹や友達との間で話していたのはもっぱら英語。ただし両親とは日本語で話していました。
カリフォルニア大学バークレー校で勉強していた頃に太平洋戦争が始まり、21歳になった私にも召集令状が来ました。アメリカ生まれで市民権を持っていたので徴兵されたのです。戦争が始まって、両親は日本にいる親戚のことを大変心配し、2つの国のバックグラウンドを持つ私も曖昧な気持ちで戦争を捉えていました。しかし、母は私に言いました。「我が家の恥となることをしないでほしい。家に名誉をもたらす行いをしてほしい」と。それは、もちろん「アメリカ軍に立派に仕えなさい」という意味です。私は訓練を受けるため、アーカンソーに送られました。
軍隊に入ったのは42年の2月。その2カ月後に、家族は強制立ち退きでサンタアニタ競馬場のアセンブリーセンターに送られ、その後、ワイオミング州のハートマウンテンの収容所に入れられました。冬は華氏マイナス36度の極寒です。私や弟たちはアメリカ兵として国に仕える一方、家族は家や職を失い、そんな過酷な暮らしを強いられているということが理解できませんでした。
シカゴに移送された姉を尋ねて列車に乗った時に、乗客から「ジャップ」と言われたことがありました。アメリカの軍服を着ているのに、顔が日本人だったからです。その乗客は酔っぱらっていたんですよ。しかし、軍隊の中ではアメリカ人として公平に扱われ、差別を感じたことはありませんでした。
対面した日本兵捕虜は
日本人の顔に安心した
![]() |
MISの語学学校で訓練を受けた私は、日本語を英語へと翻訳する任務を与えられました。サンフランシスコから出航し、オーストラリア、ニューギニア、フィリピン、レイテ島、そしてミンダナオ島に出向きました。私の仕事は主に、日本軍が撤退した後、残骸となったテントや日本兵の遺体などから回収してきた書類・手紙・新聞など日本語の資料を、分厚い辞書を片手に翻訳するというものでした。
話すのはあまり得意ではなかったので通訳はしませんでしたが、1度だけフィリピンで捕虜となった日本兵と直接話をしました。その日本兵は私よりも少し年上で、無精ひげをはやし、食糧不足から随分とやせこけていました。出身や家族など身許を尋ね、日本軍に関する情報を聞き出しました。
彼はタクシーの運転手で、軍隊ではコックだったようでした。捕虜になって10日ほど経っていたので、落ち着いた様子ではありましたが、私を見ると同じ日本人の顔であることに安心し、タバコを手渡すと喜んでいました。
それぞれの地に1カ月から長くて半年滞在し、2年後に除隊。45年の5月にアメリカに戻ってきました。家族はまだ収容所にいたのですが、弟と一緒に貸していた南ロサンゼルスの家を取り戻しました。父の車がまだガレージにあったので、新しいバッテリーとタイヤを交換したところ、ちゃんとエンジンが動き出したんです。家も車も取り戻し、人生が再スタートしたことへの喜びは格別でした。ネクタイの会社で輸入業務に携わった後、バークレーに戻って48年に大学を卒業し、構造エンジニアの仕事に就きました。
広島の原爆は、ロサンゼルスに戻ってから、テレビで観ました。恐ろしいキノコ形の雲は衝撃でした。母の親戚の安否をずいぶん心配しましたが、結局連絡が取れませんでした。
人間はいつの世も、問題を抱えているものです。地球上のどこかで紛争が起こっています。しかし、多くの命を奪い、環境を破壊し、大金が使われる戦争をもう2度と行うべきではありません。我々は銃や兵器を開発するよりも、暮らしをより良くするものを生み出していくべきだと思います。
「戦時下ではただその状況を理解して
自分自身を見失わないことが先決でした」
「自分はどうなる?」
恐怖心に見舞われた
![]() ジェームズ・ムラタさん(87歳) |
両親は島根県から1900年頃、サンタマリア・バレーの農場に出稼ぎに来ました。私は1920年にサンノゼで生まれ、2人の兄と4人の姉妹の中で育ちました。私が育ったグアダルーペという小さな町には日系コミュニティーが発展しており、日本語学校や仏教会などがありました。週5日間の日本語学校には高校まで通っていましたが、子供たちの間での会話は英語でした。両親は週7日、毎日農作業をしていました。私も学校が終わると、ニンジンを取って束にするなど、両親の手伝いをしたものでした。日本語学校では『君が代』なども教わりましたが、子供でしたから、自分が何であるかなど気にかけることはありませんでした。
ラジオで国際状勢を聞いていて、日本との間に何か起こるとは予期していましたが、とうとう太平洋戦争が勃発。日本人移民には夜間外出禁止令が出されました。すでに21歳になっていた私は兵役サービスに登録していたので、いずれ徴兵されることはわかっていましたが、日本軍によるパールハーバー攻撃はどう捉えていいか戸惑いました。「日本人の顔をしたアメリカ人である自分は、これからどうなるのだろう?」という恐怖心でいっぱいでした。
42年4月に、家族はテラーリ競馬場のアセンブリーセンターに送られ、炎天の砂嵐の中で4カ月を過ごしました。その後、アリゾナ州ギラに転送され、10万人の中で1年間暮らしました。私は月給16ドルという薄給で、看護師として働きました。親は将来を心配していましたが、私には「なるようにしかならない」という覚悟がありました。収容所での記録が良かったので、その後1年間はアイオワの病院で看護師の職に就きました。そして44年、私の所にも召集令状が来ました。
自分には葛藤はありませんでした。顔が日本人であっても、アメリカ人であることに変わりはない。戦争が始まって「日本に帰ってはどうか?」と心配してくれる大人もいましたが、日本という国に行ったこともないので、帰るところではありません。私にはアメリカ兵になるのが当然のことでした。
初めての日本訪問は
駐屯兵として
![]() |
まず、ミネソタにあるMISの語学学校で、通訳・翻訳の訓練を受けました。毎日朝9時から午後5時と夕食後の1時間、土曜日も昼まで授業があり、ひらがな・カタカナに始まって、軍用語や日本の地形なども学びました。毎週テストがあり、成績が悪いと学校を出されましたから、半年間必死で勉強しました。上官は皆白人でしたが、軍隊では差別を感じることはなく、バーにでも行かない限り、嫌な思いをすることはありませんでした。そして、語学学校で終戦を迎えました。
カリフォルニアのストーンマンに3カ月いた後、1カ月間フィリピンで待機。その後、東京に進駐して、第一生命ビル内の連合国総指令部に勤務しました。私の業務は上官の住居を探し、報告書を書くというものでした。空襲で焼けたところも多い中、中目黒や新宿には立派な家屋も残っていたのです。
日本を見るのはこの駐屯が初めてでした。フィリピンから船で横浜港に向かう際、ずっと曇っていた空が急に晴れて、富士山がくっきりと浮かび上がったのです。廃墟の港とは対照的に、美しく印象的でした。日本にいた1年間に、日光や広島にも訪れました。広島の原爆跡地はすでに整備が進んでいましたが、その悲惨さは想像を絶するものがありました。その後、除隊となってミシガンに戻り、冷蔵庫修理の技術を学び、カリフォルニアに移りました。
戦争で多くの命を失った日本に対して遺憾の気持ちはありますが、個人ではコントロールできないこと。私自身、戦時下では状況を理解して行動するしかなく、自分自身を見失わないようにするのが精一杯でした。私にとって、日本はアメリカ以外の国の中で1番好きな国です。今でも日本に観光に出かけます。日本は単なる外国ではなく、確実に私の一部にあると思います。
人間は完璧ではありませんから、何かしら過ちを犯します。それでも進歩していると思います。日本人に限らず人間は勤勉です。人種を越えて理解し合い、助け合いながら成長していくことが大切だと思います。
取材協力:Go For Broke Educational Foundation (www.goforbroke.org)
(2007年8月16日号掲載)
![]() |




