小林三郎◎エアバッグ開発までの死闘&講演会

ライトハウス電子版アプリ、始めました

一橋大学院・客員教授の小林三郎さんがホンダに入社してから、エアバッグ開発までの道のりを6回シリーズで連載します。

(その1)「ホンダ文化で形成された自己信条」

本田宗一郎との出会い

1971年、本田技術研究所に入社した。スポーツカーの設計がやりたくて入ったのに、新設の安全研究室に配属され、1週間でもう辞めたくなっていた。ある日、設計室の中を歩いていると、本田技研工業(株)社長だったオヤジ(本田宗一郎)がこちらに向かって来た。顔だけは知っていたので「おはようございます」と頭を下げた。そのとたん、新人とわかったのか、私の肩を強く叩き、「おい、おまえ今何やってんだ?」と聞いた。「自動車の安全です」と言うと、「安全は車の中で一番大切なんだ。頑張れよ」と大声で言いながら行ってしまった。声を掛けられたことが嬉しくて、その瞬間、「ホンダの安全に骨を埋めよう」と心に決めた。このことが、後年に挫折しそうになったときの大きな心の支えになった。
 
ホンダに入社して、いろいろとユニークな文化を教えられたが、中でも2つ、新人時代に厳しいことがあった。
 
1つ目は、先輩の誰かに何かを質問に行くと、必ず「あんたはどう思うのか?」と、まずこちらの考えを聞かれることだった。質問だけすると、自分の考えや予想もなしに他人にものを聞きに来るなと、大変冷たく追い返された。また、「上司がこう言っていました」というのも禁句で、「お前は子供の使いだな。ボスだけで充分で、おめえなんかホンダにゃいらねえよ」と悪口雑言。どんな事にも自分なりの、自律した見方をもたせることをしつけたもので、技術屋を成長させる効果的な方法だと思う。
 
さらに何か自分の意見を言うときに、自分らしさ・ユニークさを強く要求された。本に書いてあったとか、学校で習ったと言おうものなら「評論家なんかいらねえよ」とかなり馬鹿にされた。ところが「昨日新宿を歩いていたらこんなことがあったんです」というような話は、真面目に聞いてくれた。
 
2つ目は先輩から「一言で言って何だ?」という質問を浴びせられることがとても多かったことだ。特に目的については、基本の要件である「A00(エーゼロゼロ)」というホンダ用語が大はやりで、どこに行っても、何についても、「A00は何だ?」と質問された。
 
ある日、安全部品の試作を頼みに板全課に行った。Mさんが図面を見ながら「A00は何だ?」と聞いたので、「性能アップ、コストダウンと、ウェイトダウンです」と答えたら、「それ違うな。性能アップして何をしたいのか、コスト・ウェイトダウンして何をするかがA00だろ?」と本質的なことを言われ、負けを悟った。
 
目的と手段の違いを研究所中の人がきちんと理解していた。自分のやっていることの要点、目的、コンセプトなどをいつも一言で、自分の言葉で言えるように訓練された。これが技術屋としての自律の第一歩であった。
 

ホンダ文化を強烈に学んだ1日

入社2年目、エアバッグ報告会にLPL(Large ProjectLeader)のO主任研究員と一緒に参画した。当時報告は若い方がやるのが常識だったので、Oさん主体で決めた内容だったが、私が研究所の実質上のトップ、K専務に報告した。
 
最初に安全の基本方向について「トヨタ・Ford・GMはこうやっています。だからホンダはこうやります」と言った途端、K専務の態度が一変した。「よその会社の話なんか聞きたくない。ホンダらしさはどこなんだ。小林らしさは何だ」と30分ほど散々文句を言われ、激しくはなかったが本当に怒っているのがよくわかった。
 
最初は脚が震えて、何で怒っているのかわからなかったが、 段々聞いているうちに、「あんたは今、ホンダの将来安全の方向性を決めているのだろう?基本方向を決めるのに、なぜよその会社の顔色を見るのだ。なぜ自分の信念でこうなりたいと言わないのか?相対比較みたいなくだらないことでなく、絶対価値で方向性を決めろ」ということであった。
 
当然再報告となったが、会社の内情がよくわかっていない私は「もう首になるのではないか」としょげていた。ところが最後にKさんは、「今日は少し言い過ぎたかもしれん。あんたのやってくれた努力に対しては感謝しているよ。どうもありがとう」と言って、トップが私に向かって頭を深く下げたのには、びっくりした。
 
怒られたり、感謝されたり、頭の中がぐちゃぐちゃで整理できずに室課に戻ったところ、ちょうど出かけていたHマネジャーが帰ってきた。経過を報告したところ、「ちょっと来い」と小部屋に連れて行かれ、一言文句言われて黙ってスゴスゴ帰って来たのか?なぜケンカをして来ない?やる気がないなら会社を辞めろ」とさらに30分怒られた。強烈な体験で技術屋の哲学・生き方を教えられた。良い上役からはあまり学べなかったが、クレイジーな上役からは、色々なことを学び、少しずつ強くなっていった。
 
(2009年6月1日号掲載)

 

(その2)「逆風の中でのエアバッグ開発」

猫またぎの六研

1970年代は世界的に交通安全が注目を浴びてきた時代で、アメリカを中心に事故死亡者を減らす目的でESV(実験安全車)計画が実施され、ホンダもこれに参画して小型車の安全研究に着手した。しかし日本ではまだ安全の価値観が生まれてない時代で、車のユーザも「自分だけは事故を起こさない」と、シートベルトを締める人も少なかった。
 
商品開発はお客様の要望に応えていくのが優先されるので、当然、安全技術は将来のために研究はしておくが、すぐには必要性の低いもの。経営トップを別にすると、会社のほとんどの人間が興味すら持っていなかった。「安全研究室・六研、何やってんの?」などと聞かれることもたびたびあり、□の悪い連中は、猫もまたいで通る味の悪い魚になぞらえて、“猫またぎの六研” と呼んだ。日陰に居ても仕事はコツコツやるべきと考えていたが、やはり日向の人を見ると羨ましくて、早く成果を出して社内で認知されたいといつも思っていた。
 

精神的に95%の努力はチームの元気付け

今でこそエアバッグが当たり前の技術になったが、70~80年代には、誰もその実現性を信じていなかった。私自身も「車がぶつかると、ハンドルの中央から袋が膨らんで人間を助けるシステム」と聞いて、その滑稽さに思わず笑ってしまった。マネージャーから私がエアバッグチームに入ると聞いた時は、目の前が真っ暗になった。1970年代中頃は、米国のエアバッグ法規も採用、撤回と二転三転し、BIG3もトヨタ・日産もエアバッグ研究開発を中止し、やっているのはベンツとホンダだけになった。エアバッグそのものに研究所のほとんどの人が反対していることに加え、技術ターゲットが難しすぎて、何をやってもなかなか成果が出てこない状況が続き、チームは私自身を含め、元気がなかった。
 
2代目のLPL(プロジェクトリーダー)だったTさんは、エアバッグはものにならないと直感的に思っておられたようで、チーム全員の前で「俺の目の黒いうちは、このようなリスクを持つものは商品化しない」と正直に言ってしまい、その時の全員の悲しそうな顔は見るに耐えなかった。私が中間のまとめ役だったので、私自身が弱気になってはいけないと思い、努めて明るく振る舞い、なるべく大きな声で話すようにした。
 
“人の命を救うこと”は大切なことではあるが高尚すぎて思い入れにはならず、本に『前向きで具体的な夢を語ると良い』と書いてあったので、さっそく「今にCIVICの半分にエアバッグをつけるぞ!」と自分自身に言い聞かせ、何となくその気になってチームの皆に言ったら呆れ顔をされた。諦めずに何回も言うと、「また冗談ばかり・・・」。しかし、何となく皆の顔が明るくなったのを見逃さなかった。自分自身も含め、チームの元気づけが私の最大の仕事で、精神的には95%くらいを占めていた。
 

プロジェクトリーダー就任と自律

82年末に、それまで12名でやってきたチームが4名に減らされ、その後を任された形で3代目のLPLに就任した。元気の出にくい状況だったが、チームは私を含めエアバッグを仕上げようと残った4人なので、彼らのためにも成果を出さなくてはと、リーダーとしての責任を感じた。
 
ある日、研究担当役員のSさんからエアバッグの展開計画を説明してほしいと連絡があり、資料を抱えて出かけて行った。説明し始めてまもなく、Sさんが全然開いていないのに気づいた。そして突然、「これ止めよう。ものになりそうもないし、あなたには他にやってもらいたいこともあるから・・・」と言われ、顔から血の気が引いた。今止めたらこれまでの苦労が水の泡になる。
 
(2009年6月16日号掲載)
 

 

(その3)「高信頼性確保に向けての戦い」

熱意とやる気が試された時

研究担当役員のSさんから呼び出され、エアバッグの展開計画を説明すると、「これ止めよう。ものになりそうもないから・・・」と突然言われた。顔から血の気が引いた。以前からエアバッグ研究中止の噂はあり、チームメンバーもどうなるのかと心配し、扉の隙間から様子をうかがっていた。ここで引き下がってはいけないと、安全がそのうち重要な価値になることや、世界の交通事故死亡者が増えていることなどをあれこれ言ってその場をしのいだ。
 
説明の途中でも、「やっぱりエアバッグ止めようよ」と合計10 回あまり言われた。しかし、皆のためにも引き下がってはいけないと抵抗し続けると、最後にSさんが少し怒りながら、「そこまであんたが言うなら続けよう。しかし必ず商品化しないと許さねえぞ。人も増員するから」と言ってくれた。メンバー4人は5人に増えた。結局私の熱意とやる気が試されたのだと思う。
 
次々と新たな技術課題が出てきた。未経験分野なので先輩に聞くこともできず、研究はなかなか前に進まなかった。「あれはものにならない、かわいそうに・・・」と言う声も聞こえてきて、ある日、はっきり物を言う先輩から声をかけられた。「さぶちゃん、エアバッグが2大テーマに選ばれたよ」。よく聞くと、研究所の2大役立たずテーマだと言うのだ。「Sさんのレーダブレーキと、小林のエアバッグ」とのこと。少し腹は立ったが、そう思っていることがよくわかった。この2大役立たずテーマが、20年を経た現在では量産、市販されている。技術を予測することが、いかに難しいかを示す良い例だと思う。
 

高信頼性の目標値・シックスナイン

エアバッグの技術で最も難しかったのは、実は袋や袋を膨らませるインフレータではなく、高信頼性技術だった。エアバッグの2大故障である暴発・不発を可能な限りゼロにしたいが、ゼロに近付くほど課題解決が困難になる。宝くじの1等より少なければ、お客様も納得していただけると考え、故障率を100 万分の1に決めた。具体的に言うと、100万台の車が平均寿命の15年間走行して、暴発と不発合わせて1件以下である。それまでの機械・自動車技術に比べ、2~3ケタ高い信頼度、99.9999%、通称シックスナインヘの挑戦が始まった。
 
高信頼性の技術は当時あまり一般的でなく、日本の専門家はどちらかというと理論ばかりで、具体的にシステムをどう設計すればよいのか教えてくれなかった。アメリカにはNASAのアポロ計画で築いた高信頼性技術があったので、私とチームメンバーのHさん、品質保証部のMさんの3人で、ロサンゼルスのM社を訪れコンサルティングを受けた。
 
コーチングスタッフ全員、約30人の博士たちを紹介され、毎日2、3人がいろいろなことを指導してくれた。最新のデータは入手できたが、日本で修得したものに比べて何ら新しいことはなく、2週間で約4000万円の費用を払った。
 
私にとっての最大の収穫は、夜のディナーでのやりとりだった。「宇宙開発では現場での事前実験ができないから、信頼性をどこまでやったらOKとするのか?」と聞くと、「確信(Confidence)には2種類ある。数値的確信(Statistic Confidence)と精神的確信(Emotional Confidence)である。自分で納得できるまでやったら、あとは神に祈るんだ」。宇宙開発という科学の先端にいる人も最後は神に祈ると聞いて、心の重荷がずいぶんと軽くなったことを覚えている。
 
(2009年7月1日号掲載)

 

(その4)「量産に向けての死闘」

アメリカから学んだ信頼性とは?

アメリカでコンサルティングを受けた帰路の飛行機の中でレポートを書き始めた。しかし、教えてくれた事実は書けるものの、結論がまったく書けない。日本に帰ったら鬼のK社長(前専務)が「高信頼性の本質は何だ?」と言うに決まっている。高信頼性とはいったい何だったのか? 何を教えてくれたのか? メモを読み返した。何回読み返しても何も新しいことはなかった。当たり前のことばかり。一緒に行った2人は仕事が終わったし収穫もあったと、ワインを飲みながらフライトアテンダントと話をして楽しんでいる。大金使ってくだらないことしか得てこなかったら怒るだろうなと、K社長の顔が浮かんでくる。
 
あと1時間で成田に着く時間になり、かなり焦ってきたが何も出てこない。「なんて当たり前のことしか言わなかったのだろう?」と、最後にもう一度メモを見た。突然何かがヒラメいた。「あっ、高信頼性というのは当たり前のことを徹底的にきちんとやることなのか!」。
 
K社長はこの報告を聞いて、予想以上にあっさり納得してくれた。人間にとって当たり前のことをきちんとやるのは、実はとても難しく不得意なことである。愚直にねらい通りにひとつひとつきちんとやることが大切であり、これが高信頼性の本質であることが実際に開発をやってみて確認できた。
 

アメリカ・ホンダCEO との闘い

エアバッグの仕様が固まってきて、高信頼性を証明するために実車での試乗走行確認テストが必要になった。日本の火薬取締法ではエアバッグとダイナマイトが同類であり、試乗走行ができなかったので、テストが可能なアメリカに協力を求めた。再びロサンゼルスに出向いたが、アメリカ・ホンダのCEO、Aさんにそっけなく断られた。「アメリカ人はエアバッグが嫌いですから、テストを行う必要性はありません」。
 
帰国し、研究担当役員のSさんに相談したら、「諦めたら終わりだよ。君がまたAさんの所に行ってお願いするしかないだろう」と冷たい返事。私は、SさんがA・CEOに電話してくれるのかと思ったが、そういう甘い考えはホンダでは通用しない。一度つらいことを他人任せにして逃げたら、逃げ癖がついて自立できない。自分のことは自分で解決するのだ。ここで引き下がると研究を中止せざるを得ないので、再度アメリカに出かけて行ってお願いした。
 
「またですか」と相当嫌な顔をしながら、Aさんは秘書に言って3人のEVP(Executive Vice President :筆頭副社長)を呼んできた。この3人のEVP は「アメリカ人はエアバッグが嫌いです。絶対に使わない」と言い切った。Aさんは「ほらね、私だけじゃなく皆不要と思っているのだ」と言い、会議は終わった。
 
帰国してS研究担当役員に報告したが、「また、行くしかない」という結論に至った。将来のターゲット市場であるアメリカの親分が絶対要らないと言うのに、研究開発する意義はあるのかと本当に悩んだ。そんな時はいつも、昔、オヤジ(本田宗一郎)が私に言った、「安全は車の中で一番大切なんだ」という言葉を思い出し、これを信じるしかないと心に決めた。3回目で駄目だったら、エアバッグの研究開発を中止し、責任を取ってホンダを辞めようと思っていた。実際には書かなかったが“辞表を胸に” という心境でアメリカ・ホンダに飛び込んだ。
 
(2009年7月16日号掲載)

 

(その5)「エアバッグ搭載車の誕生」

アメリカでの市場テスト実施

エアバッグの高信頼性を証明するための市場走行確認テストが許可されない。アメリカ・ホンダCEOのAさんに懇願するため、再び渡米した。これで断られたら責任を取ってホンダを辞めようと、まさに辞表を胸にという境地で臨んだ。
 
Aさんは、なかば呆れ顔で、「何でアメリカが要らないと言っているのにやろうとするのか?」。自分の信じる安全の大切さを必死に訴えることしかできなかった。「今アメリカで年間5万人が交通事故で死亡しています。毎日150人の方が亡くなっているのです。自動車企業としてできるだけのことをする義務があります」。
 
最後にAさんは少し怒りながら、「アメリカ・ホンダとお客様には絶対に迷惑をかけないこと」を条件にテストを許してくれた。後日談だが、エアバッグ商品化後、アメリカでは要望が拡大し、装着率がうなぎ上り。日本メーカーとしてエアバッグ初装着のアキュラ・レジェンドは安全での優位性を確保し、販売も好調だった。そんな析、アメリカ・ホンダの廊下でAさんに出会ったところ、「さぶちゃん!エアバッグのおかげでアキュラが好調なんだ。次のアキュラ・インテグラにはエアバッグを100%装着しよう!」。技術屋の気持ちを馬鹿にしやがって、首を締めてやろうかと思ったが、サラリーマンなのでじっと我慢した。今は「間違えてごめんよ」という意昧だったのかなと理解している。
 
しかしAさんは何故テストを許してくれたのだろう?自分は信じていないし、EVPも大反対したエアバッグのテストをアメリカでやるリスクを負って、自分の責任でOKしてくれたのだ。多分、安全はお客様にとっての大切な価値と思っていたことと、私の熱意に反応してくれたのだと思う。他の企業の人に、同じことが起きる可能性はありますかと聞いたことがある。「あり得ない。反対された提案を3回CEOのところに持って行ったら、左遷です」。
 

量産化判断の経営会議

アメリカでの市場テストも終わり、量産を決める経営会議が青山本社で行われた。開発チーム側からの報告が終わり、関係者約十数名の討論が始まった。リスクの大きさが議論となり、3分の1が量産反対意見を言い、3分の2が消極的反対意見で、賛成は研究所側だけだった。さすがに私もこれまでだと覚悟を決めた時、K社長(前研究所専務・社長)が私に聞いた、「小林さん、エアバッグをやると、ホンダに信頼性技術が残りますか?」。私は答えた、「今までにない技術ですから、必ず残ります」。「わかった。信頼性はお客様にとっての大切な価値だからエアバッグをやりましょう」。誰も反対しなかった。
 
1987年9月、レジェンドの一部に運転席用エアバッグを装着して発売した。レジェンドを見るとついハンドルに目が行き、エアバッグ仕様車だと思うと、とてもうれしかった。ところが自分ではきちんと作り上げたつもりが、どこかに不安があるのか、時々暴発や不発の夢を見て夜中に飛び起きることがあった。会社でも「あれ本当に大丈夫かい?」と心配する人もいて、私は努めて明るく自信ありげに振る舞っていたが、実は胃が痛くて煙草を止めた。
 
そして発売3カ月後の12月10日、渋谷の東武ホテル会議室でワイガヤ(戦略・本質討論)をしている時に、前橋での交通事故の第一報が入った。「エアバッグが開き、ケガがなかったことに感激し、お客様が再度レジェンドを買ってくれた」。しばらく頭の中が真っ白になって、言葉を失った。体中の血が沸き立ち、身体がカーッと熱くなり腕のどこに血管があるかがわかった。 
 
(2009年8月1日号掲載)

 

(最終回)「エアバッグの成果と意義」

高信頼性の効果実証

1987 年、エアバッグ初の搭載車レジェンドを発売した3カ月後、交通事故の第一報が入った。「エアバッグが開き、ケガがなかったことに感激し、お客様が再度レジェンドを買ってくれた」。
 
そのお客様、前橋の厨房機器会社のH社長に会いに行った。「ホンダのセールスマンがあまりに熱心なので、ほかの車からレジェンドに乗り換えた。友達から、『ホンダの車なんかに乗って、お前の会社うまくいってないのか』とか、さんざん馬鹿にされた。でも今度のことでエアバッグもただの袋じゃないねと、皆ホンダを見直している。私も鼻が高い」と、感激の対面であった。これ以降、数々のエアバッグ作動があったが、ほとんどのお客様がその効果に満足してくださった。
 
また、信頼性とは総合力ということで、サービスの信頼性確保にも取り組んだ。具体的には、故障や不良品が出た時でも速く正確に修理して直せるトレーサビリティーシステムを導入した。エアバッグの主要部品にバーコードを付け、どの車にどの番号の部品が付いているのかわかるようにした。費用は全体で6000万円ほど。量産コストが上がるため現場では相当不評だったが、高信頼性のためにどうしても必要だと何とか納得してもらった。
 
1990年11月にインフレーターの一部に不良品が発生し、お客様に危険があるのですぐに交換するよう要請があった。国内の不良品は12個。トレーサビリティーシステムのおかけで、お客様がすぐわかり、1週間ですべての車の部品組み換えが終わった。費用は約80 万円。もしこの管理システムがなかったら、その時期に組み付けたすべての車、約5万台のお客様に手紙を出し、車を販売店に待ってきてもらって部品を外し、該当したら部品交換するという作業が必要だった。エアバッグは簡単に外しにくい構造のため、環境とツールが必要で、これらの膨大な作業は約10億円かかったと予測されている。
 
品質担当常務のYさんから喜びの電話がかかってきて、「小林さん、あんたの作ったシステム凄いよ。10億円儲かった。品質関連でこんなに良い話は聞いたことがない。」。私も予想をはるかに越える良い結果になって無性にうれしく、チームメンバーに電話をしまくって喜びを分かち合った。量産判断時の予測、“ホンダに高信頼性技術が残るか?” の答えが出た時だった。
 

エアバッグが成功した理由は何だろう

もうこれで駄目だと思う崖っぷちを、ほとんど落ちかけながら越えた。私は運が良かったと思うが、運だけではどうしても説明できない。社内のほとんどが反対する中で後押しをしてくれたK社長。大反対していたUSエアバッグテストを、自分の責任において許可してくれたAさん。苦しい状況の中で、私と一緒に戦ってくれたチームメンバー。今に必ず量産にするからという私の言葉に、少し懸念を抱きながら付いてきてくれたサプライヤー企業の方々。何故こんな勝ち目のないものに協力してくれたのか?お客様の安全向上という“想い” が、大きな潮となり、壁を乗り越えたとしか思えない。
 
エアバッグの話をした時、若い人が期待しつつ私に聞いたことがある。「小林さん、もし若返ったらホンダでまたエアバッグをやりますね?」。「もちろん」と言いたかったが、出てきた言葉は、「冗談じゃない、こんなもの2度とやるか!」。本音である。とてつもない苦しみだけで、量産後を除くと楽しい思い出がないからだ。しかし、もし若返ったらオヤジ(本田宗一郎)に肩を叩かれ、きっとまたエアバッグをやってしまうような気がする。そのくらい、あの手は熱かった。
 
(2009年8月16日号掲載)

 

ライトハウス創刊20周年 記念イベント第13弾
小林三郎さん講演会 ビジネスセミナー報告

ホンダ・スピリッツとエアバッグ商品化の秘話を語る
2009年9月3日、ライトハウス本社にて、一橋大学大学院教授の小林三郎さんの講演会を開催した。「バカヤロー」というホンダ仕込みの檄を飛ばしながら、3時間にわたって叱咤激励し続けてくれた小林さんに、創業者の本田宗一郎の魂を感じない人はいなかっただろう。
16年かけても諦めなかったエアバッグ開発のリアルな体験談を紹介しながら、次世代の価値創造とイノベーションの必要性を熱く語っていただいた。
 
企業の目的は新しい価値の創造。
世の中どっちに行くかを予測するには現場で感じるしかない

 

イノベーションは多数決じゃ起こらない

ホンダでは、肩書きで呼ばれる人は3流で、そう呼ばせる人は4流。「小林さん」って言われて2流、「さぶちゃん」って言われて1流なんですよ。ちなみにホンダ創業者の本田宗一郎さんのことを、私は親父と呼んだりします。肩書きや建前なんかない方がいい。皆「そうだよな」って思ってても、やれない会社がいっぱいある。そんな中で、「そりゃそうだ」ってことをきちんとやった会社がホンダなんです。
 
かつては世界一になった日本だけど、ここ15年、20年は全然ダメ。だからイノベーションに再挑戦しなきゃいけない。「イノベーション」とか「創造性」とか言ってる人はたくさんいるけど、大部分はどこかで聞いたようなことをベラベラ喋ってるだけ。今日は、そういうニセモノが絶対言わないようなことをいくつか言います。だからといって、私の話を鵜呑みにしちゃダメだよ。そういう自立心のない人は話にならない。自分の考えをちゃんと持って聞いてほしいですね。
 
仕事には大きく分けて「オペレーション」と「イノベーション」があります。かけた時間に比例して結果が出るのがオペレーションで、これが会社の95%を占めます。逆にイノベーションは、最初何も出てこないし、その上、成功率は1割。論理的に追求していくオペレーションに対して、イノベーションに論理なんかありません。だって創造性のやり方なんて聞いたことがないでしょ。だから難しいの。
 
イノベーションをやる時に、10人中9人が賛成してたら〝too late〞です。9人が反対してる時に、見定めてやらなければいけない。10人中9人反対しますから、多数決ではイノベーションは絶対に起こりません。新しいことは1人が決断しなきゃダメ。これはイノベーションの鉄則なんです。
 
私は、1982年にエアバッグの3代目LPL(Large Project Leader)になりました。すると12人いたメンバーが4人に減らされた上、優秀な人は引き抜かれ、デキの悪い人材が残りました。次の週、担当役員に今後の展開計画を説明していたら、「これ止めよう。うまくいきそうじゃないし」と言われた。車を売ってる先進国で年間約10万人、1日300人が交通事故で死んでると言っても反対するので、怒鳴ったら、「そこまで言うならしょうがないけど、商品化しろよ!」と言われて。それで、5人でエアバッグ開発を続けました。
 
役員が反対するのは、イノベーションに収益性が見込めないからです。皆さんの会社で新しい長期研究のプロジェクトの可否を役員の判断だけで決めていたら、イノベーションは絶対に起きません。新しいことを提案すると、彼らはそれがいかにダメかってことを理路整然に話し始める。その時は聞いた振りをして、腹の底では「だから今までできなかったんだ。俺ならやってみせるぞ」と思える人が、イノベーションを起こせる人材です。SONYのウォークマンもバンダイのタマゴッチも、最初の企画で全役員が反対したけど、売り出したら爆発的に売れました。

心の痛みがわからない人に経営はできない

〝Japan as No.1.〞に貢献したSONY、キヤノン、ホンダなど、昔の小さいベンチャーから伸びていった会社の共通点は、ものすごくユニークなリーダーの存在でした。
 
私が現役で働いていた頃、狭山の組み立て工場で働いてるほとんどの人は、「ホンダは俺で成り立ってる」と豪語していました。と言うのも、親父(本田宗一郎)が年中、その組み立てラインに来ては皆の肩をたたき、手を握って「あんたが今組んでるこの1台が、お客さんにとってすべてなんだ」と言って回ったからなんです。私のイメージでは、組み立てラインの工員1人1人から出た赤い糸が、全部束になって親父の右手につながっている。その糸の上を、熱い「想い」が通ってるんだよね。経営っていうのは、人を扱うもの。人間心理がわからない人、人の心の痛みがわからない人に経営はできない。親父は小学校しか出てなくてすごく苦労してるから、その分、日陰の人の心がわかるんです。だって考えてごらん。会社なんて、ほとんどの人が日陰で頑張ってるんだから。
 
私は車を設計したくてホンダに入社したのに、安全研究室に配属されました。つまらないから辞めようと思ってた入社2週間目くらいに、会社の廊下で親父とすれ違って、元気良く「おはようございます!」って頭下げたら、私の肩を叩いて、「おい!お前名前なんちゅーんだ。今、何やってんだ」って聞くんですよ。「小林です。最近本田の研究所に入りまして、今、四輪の安全やってます」って言ったらね、親父がでっかい声で「おっ! お前、安全か。安全はクルマん中で一番大事なんだ」って。そして、浜松弁で「けっぱれよ!」って言っていなくなった。でもそこに残ったオーラに取りつかれちゃって、ホンダの安全に骨を埋めようと決心したんです。良いリーダーになるためには、そういう強いオーラがないとダメ。
 
そのオーラというのは自分が考え抜いたコンセプト、つまり、哲学から来るものなんですね。哲学といってもギリシャやローマのじゃなくて、お客さんのことを親身に考えるかどうかなんだよ。企業を良くしようとか、今の日本を世界水準に引き上げていくにはどうすればいいかとか、そういう哲学が必要です。坂本龍馬は20歳の時に50年後、100年後の日本のことを考えてたんだよ。自分の会社だけうまくいこうなんて、冗談じゃない!日本のためにも、将来の子供たちのためにも、日本を良くしよう。そういうことをきちっと考えておくと、世界で勝てるんだよね。

本質を理解してネバーギブアップの精神で

本質を熟慮することも大事です。ホンダでは「目的」のことをホンダ用語で、基本の要件である「A00(エーゼロゼロ)」と呼んでいて、どこに行っても、何についても、「A00(目的)は何だ?」と質問されました。仕事をする上で、目的と手段がわかってない人には、哲学のかけらもない。「我が社の目的は収益だ」って言う経営者がいる。バカ言ってんじゃない! 収益を上げながら何をするかが目的なんです。企業は新しい価値を作って、お客さんや世の中に喜んでもらうのが目的。収益を目標にしてでっかくなった企業なんて、すぐダメになっちゃうから。
 
親父はね、研究所は技術の研究をする所じゃなくて、人間を研究する所だって言ってました。お客様の心を研究して、お客様が求める10年後、20年後の価値は何か。その価値が見つかったら、手段である技術を使って達成するんだって。その価値は企業の本質、目的と手段を考えればわかること。
 
エアバッグの開発中、アメリカで故障率100万分の1のテスト走行を実施する許可を得るまでに、3度アメリカ・ホンダへお願いに行きました。最初の2回は「アメリカ人はエアバッグが大嫌いなので、絶対使いません」と断言されて、帰されました。その2カ月後に再びアメリカへ行ったんだけど、人生であんなにキツかったことはないね。これでダメならエアバッグ開発を凍結する以外にないんだから。今までやってきたこと全部が水の泡だから、責任取って辞めようと思ってた。
 
やっぱり継続は力。ネバーギブアップ。1度や2度やって、尻尾を丸めて帰るようじゃ、話にならない。仕事やってると時々倒されるけど、それでも立ち上がる。立ち上がるとまた倒されて、塩をすり込まれる。それでもまた立ち上がると、今度はトウガラシかけられちゃう。3度目に立ち上がった時に「挑戦」になる。頼むよ、若い人! 挑戦しないとイノベーションできないからね。
 
ホンダでは、自分の考えをひと言で言わないと馬鹿にされる。今から聞くことを5秒で考えて、ひと言で答えられる人いますか? 「あなたの人生の目的はなんですか」。「家族と幸せになりたい」とか、誰もが言うことじゃダメで、自分らしさが入ったことをピシッと言えなきゃ。こういうのを毎日考える必要はないんだけど、1年に1度や2度は考えた方がいい。「あなたの会社は何のために存在していますか?」って。
 
「愛って何?」ホンダでは、こういう正解のないことを「ワイガヤ」と言って、3日3晩議論するんです。愛がわからない人に人間相手の商品を開発できるわけがないからね。「人の心を思いやること」とか、くだらないこと言ってちゃどうしようもない。「愛とは矛盾です」とか「愛とは創造と破壊の連鎖です」とか、詩人がこういうこと言うけど、それは本質を捉えて何かを表現しようとしてるからですよ。皆さん、奥さんや旦那さんになぜ惚れたのか、ロジカルに説明できます?できるわけないでしょ。愛っていうのはロジックを越えちゃってるから。あばたもえくぼ。マイナスがプラスになっちゃうんだから。
 
本質論を議論する時は、自分と同じ仲間だけじゃダメなんです。発想が狭くなっちゃうからね。ホンダでは、若い人も役員も対等に議論を闘わせます。「ホンダの人と一緒に会議してると、どっちが上司で部下なのかわからない」ってよく言われる。それと、仕事に情熱を注ぐための活力の源泉、モチベーションの源泉って何ですか? それは気高さなんです。人間ってそもそも気高いんですよ。「世界の人々に貢献しよう、未来の子供たちに青い空を残そう」。そういうことを考えていると元気が出てくるのよ。お金とステータスで人を釣ろうと思ったら大変だよ。お金なんていくらあったって足りないし、ステータスだってたくさん作ったら皆が偉くなっちゃうから。だから気高さでいいの。親父は、こういうことをやったら皆が喜んでくれる、世の中のためになるんだって夢を語ってデキの悪い連中を引っ張って、超一流の技術者、ビジネスマンに育てあげたんです。

現場での原体験で世の中の価値を予測する

体験を通じて、自分の考えを作ることも大事です。自分の考えのない人に創造性はないね。人生観が変わる原体験からしか何も得られないし、本を読むだけで学んだ「知」はただの記憶です。「創造」は熱気と混乱から生まれる。だからイノベーションしたい、日本の企業を伸ばしたいって思ったら、創造性を学びに熱気と混乱の現場に行かなきゃダメ。シリコンバレー、NY、中国の上海、インドのデリー、タイのバンコクに1年に1度か2度行ってる程度じゃ話にならない。自分のお金を使ってでもそういう所を見てほしい。自分に投資しないような人が次のリーダーになれるわけないからね。
 
原体験はどこかに旅行に行くとかじゃなくてもよくて、大事なのは深さです。人が集まる所に行くだけでもいろんなことを感じられます。現場に行って、「世の中はどっちへ行ってるんだろう?」「人間の幸せって何だろう」、そういうことに対する感受性を磨くことが大事。そうすることで、イノベーションが完成する十数年後に、世の中の人がそれを必要とするかどうか予測することができるんです。
 
現場へ行く時は、必ずカメラを持ち歩いてください。人が集まるってことは、そこに必ず何か価値があるから。なぜそこに人が集まるかを探らなきゃいけない。それを写真に撮って、じっと見てると、何かが見えてくる。世の中はこういう風に動いてるんじゃないかっていう「価値のマップ」が作れない人に経営なんかできない。価値作りがビジネスの基本なんだから。
 
16年間の研究の末、87年にホンダのレジェンド、アメリカではアキュラのレジェンドにエアバッグを付けて売り出しました。1日に2台だった生産計画が月に5千台くらいになり、エアバッグが付いてないと売れない、エアバッグの時代が来たわけです。売り出して3カ月目くらいに、エアバッグ付きのレジェンドが事故を起こしたけど、お客さんにケガはなくて、またレジェンドを買ってくれました。その方は前橋にある厨房機器会社の社長さんだったんだけど、「ホンダのセールスマンが熱心だったのでレジェンドに乗り換えた。友達から、ホンダの車なんかに乗ってお前の会社うまくいってないのかとか、さんざん馬鹿にされた。でも今度のことでエアバッグもただの袋じゃないねと、皆ホンダを見直している」と、言ってくれました。売り出しから4年ほどの間には、合わせて200通の感謝状が来ました。本当にうれしかったね。
 
イノベーションを起こすために最終的に最も大事なことは、お客さん、世の中への「想い」。この「想い」が、今の12兆円企業、ホンダを作ったんです。今日私の話を聞いて理解しようと思った瞬間、あなたたちは間違ってる。ロジックじゃないことを理解できるわけない。でも本質的な部分を感じることはできるはずです。そして感じたことを基に、明日何か行動を起こしてください。
 
(2009年10月1日号掲載)

「特別インタビュー」のコンテンツ