吉田準輝さん/ヨシダグループ会長

ライトハウス電子版アプリ、始めました

「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事。
僕の金儲けは、ぜんぶ恩返しなんや

全米で販売され、アメリカ人に愛用されている「ヨシダソース」。そのコマーシャルにはヨシダフーズ・インターナショナルの創立者・吉田準輝会長が自ら出演し、地元ポートランドで大人気を博しているという。その明るく愛嬌あふれるキャラクターの陰には、不法移民として入国、差別を受けながらも自分の信念を貫き通した、強靭な底力があった。

【吉田準輝さんのプロフィール】

よしだ・じゅんき◎1949年京都生まれ。1968年渡米。不法移民として苦労を重ねながら、ワシントン州警察逮捕術師範を経て、1982年「ヨシダフーズ・インターナショナル」を設立。しょう油ベースのソースの製造販売を開始する。同社を筆頭にヨシダグループは19社の会社で構成され、その最高経営責任者兼会長としてアメリカのビジネス界で活躍。2001年、アメリカ合衆国政府より優秀中小企業家賞を受賞。2003年9月、ヨシダグループは、米国の中小企業局(Small Business Administration)が選ぶ全米24社のうちの一社として、FedExやインテル、アメリカオンラインなどと共に「殿堂入り」を果たした。

 

東京五輪で知った”強いアメリカ”に憧れて

妻のリンダさんとは学生時代にひと目ぼれで結婚。共にボランティア活動をしている

小学校の時から番長してました。グレてたからなぁ。家がレストランやってましたしね。レストランというのは大変で寂しかったんやろね。で、身体が大きい方やったし、喧嘩に明け暮れて。3歳の時に片目を失ってるんですよ。で、みんなに「片目」とか言われて、カーッとなって手をかけてたんだよね。
 
小学生の時に、中学生に野球のバットでメチャメチャにやられたんですけど、そんな時にお袋が怒った、僕のこと。泣いて帰って来たから。「もっとやり返して来い!」って。そういう性格だったからお袋は。いつも「こんちきしょー。見とれ」って。自分でね、何千回、何万回ね。アメリカでもその言葉を自分に言い聞かせてきた。
 
中学の時に、東京オリンピックがあったんやけど、勝つ人間ってアメリカ人ばっかしでね。テレビで流れてくる曲も、アメリカ国歌ばっかりやったから。それを観た時に子供心にジーンときたんだよね。その時から、自分はアメリカに「Belong」っていう気持ちが確かにあった。で、その時、立命館大学の空手、柔道っていうのはものすごく有名やったから、空手部に入りたくて受けたんやけど、すべって。因果かな、すべったのも英語が原因。

 

血が出るほど舌を噛んだ。貧乏では恩返しができない

最初はシアトルで空手を教えてたんやけど、縁があって後にオレゴンに来ることに。1974年にはオレゴン州の警察学校からの招請で逮捕術を教えることになってね。来た当時なんて、成功するとか金儲けするとか考えてへんかったね。憧れやったんです、単純に。でも、うちの長女・クリスティーナが病気で死にかけて、お医者さんが娘を助けてくれてね。その時、生まれて初めて神様にお祈りをして、「自分の命を交換してくれ」と自分の命を捨てることが理解できた。
 
日頃は飲みに行ったり、ポーカーしたりね。親としての役割はしてなかったですよ。貧乏人だったから保険もなかったしね。病院出る時に看護婦さんがくれた請求書がたったの250ドル。その時に、もう血が出るほど舌を噛みしめたんですよ。「こんちきしょー、絶対この恩返しをする」って。それがオレの力です。貧乏では恩返しはできひんしね。だから僕の金儲けっていうのは、はっきりしてる。恩返しなんや。
 
今やってるのは、病院の理事に、子供ガン協会のトラスティーでしょ、ロナルド・マクドナルドハウス(貧しい親が子供を病院に連れてくるための宿泊施設を作る組織)の理事。それから”Kids on the Block”の理事を10年間やってね、これ、ぜんぶスポンサーです。
 
ウォルマートやコダックからお金を集めるんです。そのお金でボランティアの先生方が小学校に行って、マペットを使って、子供に教えるんですよ。肌の違いとかね、文化の違いとかね。「そんなこと言うたら駄目だよ」とかね。
 
これもオレの一種のリベンジですよ。「くそー、今に見てろよ。37年前シアトルに来た時、どんなに人種差別されたか」。日本の差別よりも、こっちの方がきつかったですよ。

 

アメリカまで来て日本人にだけ売りたくない

商売らしい商売をしようと手がけた最初の会社が、オレゴン・トレーディング・ポスト。1980年、日本に干し肉を送ろうとしてね。でも、干し肉は日本には入れられへんかったね。日本は肉にうるさかったから。それで発明したのがターキージャーキー。ブラウンターキーを燻したやつに、うちのソースをまぜてジャーキーみたいにした。日本にコネもなかったし、商売も下手やったから成功しいひんかったけど、今はもう「ターキージャーキー」って、アメリカでは誰でも食べてますよ。
 
そこからソースになって、いろんな経験を積みながら、成長していったんかな。がむしゃらに1日1日。その日、その日の勝負ですよ。だから、うちの会社なんて、5年計画、3年計画なんてないよ。その日、自分の持っているすべてを使って一生懸命集中したらね、明日は絶対にいいんですよ。残業してでもその日の仕事はその日に終わらせる。次の日に持っていったらダメ。
 
何で「よしだ」っていう日本の名前で、日本の味がバーベキューソースの横に並んで売られてるのか、わかりますか? 普通、オリエンタルセクションに並ぶから、食品界の七不思議なんですよ。オレゴンではね、当時(大手グロサリーストアの)セーフウェイが1番力を持ってた。で、バイヤーさんがね、何度か交渉してくれて、やっとの思いでセーフウェイに置くことができるようになった。でも、気が付いたらオリエンタルセクションに入れられてたんですよ。
 
そこで、僕、何したと思う? 天下のセーフウェイへの出荷を止めたんですよ。もともとオリエンタルセクションに入れないという約束やったから、僕は、ものすごく怒って、「日本人だけに売るくらいなら、今までアメリカで何回も破産しかけてまでやってきた甲斐がない」って徹底的に戦った。そしたらね、バーベキューセクションに戻してくれたんです。そこまで信念を通さなきゃダメ。
 
アメリカに来たんだから、やっぱりアメリカ人の世界に入らないと。だから学校行っても、日本人だけで集まってるんじゃね。うちのソースだってアメリカ人対象に売りたかったんや。日本人だけに売るつもりなかった。
 
今、レストランのプロジェクトが進んでまして、2006年の4月にオープンするんです。普通のステーキハウス。それから、やっぱりいろんな人にビジネスのことでアドバイスしてあげたいね。いろんな会社の役員をしてるけれども、お金は取りませんよ。お金もらってもしゃあないもん。自分の経験したことを分け与えるのに、なんでお金取るんだよ。たまたま自分がうまくいっただけ。

 

神様が絶対助けてくれる、守ってくれると確信

みんな成功したいんやと思うよ。成功したくないって人、いないですよ。ところが99.99%うまくいかない。で、知らないうちに自分の夢が何やったかなって忘れてしまってるんだよね。
 
「もうちょっとで、できたのに」とか「あいつのせいで失敗した」とかね、「もうちょっとお金があったら」って、そんな言い訳言ってもしょうがない。少しの失敗も、現実的には100%の失敗なんやから。
 
オレなんか4回破産しかけてるからね。でも、夜も寝られへんなんてないですよ。「明日、どうにかなる」、神様が絶対助けてくれるっていう自信があった。オレの家は3代クリスチャンやからね。自分は守られてるって信じてる。それがまた目に見えない原動力になってるんやろね。
 
「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事やね。やっぱりムカッとするということは大事やと思うなあ。頭に来るというのは、いいことなんですよ。それを良い方に持って行くのか、悪い方に持って行って、人を恨んだり、落ち込んだりするのか。僕も落ち込むことはあるけど、1晩寝たら考えへんね、次の日は。
 
人生というのは将棋のようなもんですよ。自分が1手動いたら、周りは二十何手の動きが出てくるわけですよ。1手打つっちゅうのはそれだけのことを考えなね。プロは十何手先まで考えてるらしいね。でも、そこまでいかんでもいいと思うな。最低でも2手3手先まで考えたらいいんじゃない。夢というのも大事だけど、おっきな夢を描き過ぎたら、小さな夢も達成できなくなるし、そういうもんなんやと思う。
 
(2006年1月1日号掲載)

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