松居慶子さん/ミュージシャン

ライトハウス電子版アプリ、始めました

結婚記念で制作したアルバムで全米デビュー
日本人アーティスト初のビルボード1位に

【松居慶子さんのプロフィール】

まつい・けいこ◎東京生まれ。5歳でクラシックピアノを始める。1986年プロデューサーの松居和氏との結婚を機に渡米。1987年自主制作アルバム『ドロップス』が音楽誌、FM局で絶賛され、その後14枚のアルバムを発売。2001年に発売された『ディープブルー』はビルボードのコンテンポラリージャズチャートで日本人として初の1位を記録する。全米骨髄ドナープログラムへの協力などチャリティーコンサートへの積極的な取り組みでも知られる。

「同じ日本人女性として励みになる」ファンの声に支えられた

ハンティントンビーチの自宅に停泊しているヨットに乗って、カタリナまで遊びに行くのが楽しみとか。夫の松居和氏と。

渡米のきっかけは結婚なんです。音楽プロデューサーの主人(松居和氏)と結婚して、彼の仕事をアメリカで手伝っていくんだろうなと思っていました。日本でもグループで活動をしていましたが、主人に「音楽を取るか、結婚を取るか」と迫られまして(笑)。私としては覚悟を決めて結婚を選んだつもりだったんです。
 
その時に新婚旅行に一緒にインドに行こうか、それともロサンゼルスでアルバムを結婚記念に作ってみようかという選択がありました。せっかくだからアルバムを制作してみたいと思って、自主制作のアルバムを作ったのが最初。すぐにレコード会社が決まって1987年に1枚目のアルバムが出ました。自分としては「これからアメリカでキャリアを積む」だとか、そんなことは全然考えていなかったんです。書きためていた曲をアメリカで出せていい記念になった、くらいの気持ちでした。主人のコネクションで『ジーザスクライスト・スーパースター』に主演したカール・アンダーソンもボーカルで協力してくれました。このアルバムをミュージカルにしようと皆で盛り上がったり。とても充実したレコーディングでしたね。
 
そして1987年7月4日、タワーレコードの独立記念日の推薦盤として私のアルバムが紹介されたんです。記念撮影に行ったことを思い出します。それを境にラジオでよく曲がかかるようになりました。初めてのコンサートはサンタモニカのアットマイプレイスというライブハウスでした。
 
1988年に上の娘が生まれましたが、彼女が日本の小学校に上がるまでは、基本的にずっとこちらに住んでいました。ロサンゼルスに住んで週末がコンサートというペースでしたね。面白いのはラジオで聴いているうちは、私が女性か男性かもわからない。ケイコなんてこちらの人はキーコなんて発音しますし、どこの国の人かもわからないみたいなんです。それで、コンサートで私が登場して初めて女性だとわかるんですね。
 
ファンのレスポンスですか? 最初の頃はEメールもなかったから。でも、私の曲を聴くと元気が出ると言ってくださる方、それに同じ日本女性として励みになると言ってくださる方もいましたね。明日へのエネルギーが湧いてくるとも。そうそう、私自身が落ち込んでいた時に友達に冗談で「ケイコの音楽を聴けばいいんじゃないの」と言われたり。また、湾岸戦争の時には、出征した人が船の上の売店で私のアルバムを買って、辛い時期を私の曲を聴きながら乗り越えたということもありました。とてもうれしかったですね。
 
曲のインスピレーションは日常生活の中からふっと湧いてきたり、旅先で出会った大自然にインスパイアされて生まれたりします。「フォーエバー、フォーエバー」という曲は下の娘が2歳の時に「ママのことはいつまでもいつまでも大好き」と言ってくれた、そのことを残したいと思って作ったんです。その娘が生まれた時はコンサートの本数も抑えていました。7枚目の『サファイヤ』の時ですね。でも、その年、驚くほどアルバムの売り上げが伸びたんです。不思議だな、音楽の方が独り歩きを始めたんだなと思いました。
 
娘たちは普段は私の母が日本で一緒に住んでくれていて、私たち夫婦は日本とアメリカを行ったりきたりしています。年間に14往復くらいしていますね。もちろん娘たちといつも一緒にいたいと思います。でも、こんな言い方をすると偉そうだけれど、こうして聴いてくれる人がたくさんいるということは、音楽を続けていくのがお役目といった感じがするんです。ある時ツアーに出かける私に娘が「どうして行くの?」と言ったんですね。「ママのピアノを待ってくれる人がいるんだよ」と答えると、「そうか!!」と言っていました。コンサートのビデオを見て、彼女は「おうちにいる本当のママと、ママは2人いるんだね」とも言っていました。サイン会の時も横にいてうれしそうに手伝ってくれたりするんですよ。

娘の教育のためなら日本へ。無欲?そうかもしれない

去年はアルバムがビルボードの1位になりました。インストゥルメンタルだから国境を越えやすいという理由もあると思いますが、他の国からもお声を掛けていただいて、ここ数年はヨーロッパやアジアのツアーにも出掛けています。南アフリカでは1日中、30分毎にインタビューが入っていたり、コンサートでは曲の途中でもお客さんが盛り上がって歓声をあげるなど、とても印象的でした。モロッコ、ドミニカ、イスタンブール、シンガポールでも演奏しました。来年は韓国、ロシア、ヨーロッパにも行けそうです。
 
年間のコンサートがアメリカで60本、日本でも最近は10カ所でやっています。だから1番ほしいものは時間ですね。でも逆にコンサートをやっている時間にエネルギーをキープできるんです。お客さんに喜んでもらえたことが私の喜びとなり、それがまた新しいエネルギーにつながっていくと実感しています。コンサートは1つ1つがスペシャルな出来事で、この場所、この時間でしか会えない人と空間を共有するもの。だからこそ大事にしていきたいですね。
 
小泉首相が私の音楽を聴いてくださっていると声を掛けていただいた時は本当にびっくりしました。金屏風の前で握手させていただいた時に「いつもアルバム聴いているよ。『ディープブルー』!ライブもいいよね」と。私が首相とブッシュ大統領とご一緒した時のことについてはファンの方に「ケイコの音楽が世界にハーモニーをもたらす前触れではないか」と言われ、うれしく思いました。
 
ここまで来るのに壁はなかったか? 主人を始め、周囲の人にプロテクトされてここまで来られたのでとてもラッキーでした。恵まれていると思います。ビジネスの面では完全に主人に任せていますので。主人の中ではいろいろ大変だったもしれませんが。
 
無欲? そうですね。娘を日本の小学校に上げる時も、そのためだったら完全に日本に引き揚げてもいいと思ってました。
娘が音楽の道に進みたいと言ったら?もちろん私たち夫婦でできることは全面的に協力します。でも、これは私も主人もなんですけど、キャリアを積むより何よりまず人間的にいい人であってほしいと望んでいるんです。母もいろいろな方に「娘さんが成功されてさぞうれしいでしょう」と言われるようですが、母としてはどんなに私の仕事がうまくいくことよりも、娘に幸せでいてもらうことが1番なんですよね。
 
2003年は、またロサンゼルスと東京を往復する1年になります。日本とアメリカ以外にも、さらにいろんな国でのコンサートを重ねていきたいというのが新年の抱負です。そのためにもいつも元気でいなくちゃいけませんね。
 
(2003年1月1日号掲載)

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