下河内 護さん/SHIMOKOCHI-REEVES クリエイティブディレクター

ライトハウス電子版アプリ、始めました

デザイナーとして大切なのはデザインが好きで、一生涯続ける意志があること

芸術の名門校、アートセンター・カレッジで学ぶために渡米。卒業後はデザインの神様、ソウル・バス氏の事務所に就職し、ユナイテッド航空などのロゴデザインを手がけた。業界で活躍してきた経験を聞いてみた。

【下河内 護さんのプロフィール】

しもこうち まもる◎愛知県生まれ。高橋春人氏の作品に感銘を受け、中学卒業後、上京して師事する。デザイン誌で紹介されていたアートセンター・カレッジに憧れ、1963年に渡米。同校在学中に頭角を現し、奨学金を得て、1970年にオナーで卒業。同時に世界有数のデザイナー、故ソウル・バス氏の事務所に就職。同事務所に在職中、United Airlinesのロゴデザインを始め、California Cheese、Avery International、Lawry’sやAT&Tなどの有名企業の仕事を手がける。1976年に独立し、フリーランスに。母校や他のデザイン大学で教鞭を執る。85年に元同僚だったアン・リーブスさんとSHIMOKOCHI-REEVES事務所を設立。TBSや東燃、日清など、日米企業をクライアントとして活躍中。

 

デザインの神様の事務所に就職

(上)デザインを手がけたユナイテッド航空とTBSのロゴ(下)ソウル・バス氏の事務所で勤務していた駆け出しの頃(1970年)。左はバス氏の右腕だった故アート・グッドマン氏
小学校の頃から絵が好きで、展覧会の度に入賞して、先生に褒められ、すっかり自分はアーティストになるんだと決めていました。中学生の時、地元の名古屋で高橋春人先生の展覧会があり、原爆廃絶という作品を見て、すごい感銘を受けました。すぐに手紙を書いて、先生の下でデザインを勉強するために東京に出ました。
 
修業してから3年くらい経った頃、ロサンゼルス(現在はパサデナ)にある芸術の名門校、アートセンター・カレッジの記事をデザイン誌で読み、ぜひそこで勉強してみたいと思いました。親父は、僕が生まれてすぐに死んだんだけど、10代の頃、アメリカに留学していました。ミシガンには叔父もいたし、21になったばかりで何でもできると思っていましたから、冒険ができたんでしょうね。
 
アートセンターでは、グラフィックデザインの勉強をしました。全世界からデザインを志し、実力のある人が集まって来ていました。大抵は、デザイン系の大学を卒業した人や、デザイン事務所に務めていた人で、僕みたいに現場の経験だけというデザイナーはいません。また、当時は70年代で、人種差別もありました。僕の作品を見た白人のクラスメートに、ねたみ半分、冗談半分で、「お前の右腕を折ってやろうか」と言われたことも。そういうのは、まともに受け取らなかったのですが。
 
卒業する1、2カ月前に、ドン・クーブリー前学長から、「君はニューヨークに行くのか、ロサンゼルスに残るのか?」と聞かれました。僕が「ロサンゼルスに残る」と答えたら、「それじゃあソウル•バスのオフィスを紹介してあげよう」と言われ、学長が直々に面接をセットアップしてくれたんです。
 
ソウル・バスと言えはデザイン界のパイオニアで、デザイナーとしては世界で5本の指に入る巨匠です。新卒で面接を受けられるなんて、考えられないことでした。デザインの神様直々の面接を受けたら、いきなり「いつから仕事に来られる?」ですよ。卒業式が土曜日だったので、週明けの月曜日から働き始めることになりました。
 
当時は時代が大らかでしたから、ほとんどの学生は、卒業後に3~4カ月かけてポートフォリオを作り直し、それからじっくり仕事探しをしていたんですよ。だから、クラスメートからはやっかみで、「そんなに早く仕事に就くなんて、下河内は頭がおかしい」って言われました。僕にとっては、すごくラッキーだった。

 

デザイナー人生を変えたユナイテッドのロゴ

パートナーのリーブスさんと
トントン拍子にソウル・バスの事務所に入れたわけですが、実は僕を雇うために、元々いたデザイナーがクビになっていたんです。入社当初は知らなかったんですけど。入ってからも、横のデスクにいたデザイナーが次の週にいなくなって、またその隣の人がいなくなってと…。仕事ができなければ、容赦なくドンドン首になりました。完全能力主義です。
 
働き始めて2年くらいで、ユナイテッド航空のコーポレートロゴをデザインするチャンスに恵まれました。学校にいる時は、いくつかアイデアがあれば課題を仕上げられました。ところが、この時は、僕を含め30人くらいのデザイナーたちが、何週間も毎日アイデア出しばかりするんです。アイデアが出なくても、毎日机に向かって何か描かなきゃいけないから、本当に厳しかったですね。アイデアだけで何千も集まり、その中からソウル・バス自らが選んでいきます。同じ会社にいても隣のデザイナーとの競争。斬新なデザインを考えるのに必死でした。
 
採用されなかったデザイナーがドンドン脱落していって、最終的に下っぱの僕のデザインが選ばれたんです。もうその時は感激ですよ。僕のアイデアでデザインされた物が、世の中に出るんですから。特にユナイテッドのロゴは、今でも残っていますから、感慨もひとしおです。
 
ロゴで一番大切な要素は、誰にでもわかる、記憶に残るということ。最近のロゴマークは、コンピューターを利用するから複雑なデザインになるんです。複雑になり過ぎて、面白さはあっても皆同じような感じ。そうなるとロゴとしての親しみはあったとしても、効果は薄いですよね。
 
ソウル・バスの事務所で4年間修業した後、独立してフリーランスになりました。フリーになってもしばらくは外部パートナーとして一緒に仕事をしました。ソウル・バスと働いた6年間は、私のデザイナー人生を決定付ける、充実した日々でした。本当に感謝しています。
 
1985年、ソウル・バスの元同僚のアン・リーブスと事務所を作りました。TBSのロゴデザイン(現デザインの前の物)や東燃(現・東燃ゼネラル石油)、サッカーの清水エスパルスの文字デザインなどを手がけてきました。特に印象に残っているのはTBSのロゴで、昭和天皇が崩御した時、TBSの中継車は他局より後ろの方に止めなければいけなかったって聞きました。ロゴが派手で、目立ち過ぎるから(笑)。コンペでも、社長の一存ではなく、社内でアンケートを取って社員にも好かれた結果のデザインだったので、うれしく思っています。

 

課題解決には経験と説得力が必要

この仕事を続けてきて、辛いと思ったことはないですね。なかには「これは難しい」と思うクライアントとの仕事はあります。ですが、クライアント企業の業務内容や将来の目的とか、相手のことがわかれば、アイデアは自ずと出てきます。ですからコミュニケーションが大切だと思いますね。
 
そして、デザインしたら、それをクライアントにわかりやすく説明するっていうのが、すごく大切だと思うんです。いくら良い作品でも、説明が不十分だったら、クライアントとしては理解することもできないだろうし。
 
学生の頃は、あまり必要ないと思っていたのが、実際仕事をすると重要になるんですね。紙の上の作品だけじゃなく、説明もできなければ、かみ合わないんです。デザインはサイエンスとは違って、1+1=2という答えがない。そして、さまざまな答えの中で、課題に対しての1番のソリューションを選び出すには、経験と説得力が必要です。
 
ですが、いくらいいデザインでも、それが消費者に認められなかったら売れないし、そのあたりは難しいですね。産業デザインは、ファインアートとは違うから、自分がいくら満足しても、企業の目的とかカスタマーに対するリアクションがなければ意味がない。そういう意味では、チャレンジングで面白いですね。
 
それから、デザイナーとして大切なのは、自分の仕事を好きじゃないとダメってこと。好きで、一生涯続ける意志がなかったら難しいと思うんですよ。例えば、お金になるからとか、誰かがすすめるからやるというのではなく、「好きだ」という気持ちが大切。
 
そして、やっぱり仕事を楽しまなくちゃいけない。嫌々やってたんじゃ、良い作品もできないし。好きでやるから良い仕事もできるんです。楽しくない時もあるでしょうが、それは当たり前です。たまに食べるからご馳走も美味しく感じるんですよ(笑)。それと同じでデザインも、必ずしも楽しいプロジェクトばかりじゃない。けれど、キャリアとして見た場合、仕方がないからやるっていう心構えではできないです。
 
僕は40年間やってきて、ずっと楽しんでいます。なかには「これ嫌だな」「やりたくないな」って最初思っていても、アイデアのソリューションを探っていくと、自然と楽しみが増えていきますね。
 
ほぼ一生かけてデザインは楽しんだので、これからは絵画に集中したいです。40数年住んだロサンゼルスを離れ、自然に囲まれた小さな町に移り住もうかと考えています。そこで自分の好きな絵を描くことに打ち込みたいと思っています。今度は自分の描く絵を誰かが気に入って、評価してくれたらうれしいですね。
 
(2010年1月16日号掲載)

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