松久信幸さん/「NOBU」「MATSUHISA」オーナー

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成功とは1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならない

1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにオープンした「MATSUHISA」は、3年目にはザガットで日本食トップの地位に。アメリカにおける日本食レストランの草分けとして常に注目を浴びてきた。現在、全世界に「NOBU」は15店、1500人のスタッフを抱え、「まだ自分は成功していない」と謙虚に笑う。その陰には何度も転んで何度も立ち上がった、苦労と努力の長い年月があった。

【松久信幸さんのプロフィール】

まつひさ・のぶゆき◎1949年、埼玉県で木材輸入を営む家の3男として生まれる。小学1年生の時に父親を交通事故で亡くす。高校卒業後、東京の寿司屋・松栄で7年間修業をした後、24歳でペルーに渡り、パートナーで寿司屋を経営する。その後、ブエノスアイレス、アラスカを経て、1987年にロサンゼルスに「MATSUHISA」を開店する。1994年にはニューヨークに「NOBU」を開け、以来、ロンドン、ミラノ、ギリシャなど9店舗、展開し、2005年には、さらにダラス、バハマなど4カ所にオープンした。

 

「ここ、いいな」一瞬で寿司屋の虜に

ビジネスパートナーであり、友人でもあるロバート・デ・ニーロと

父親は材木の仕事をしていましたが、小学校に入って2カ月目に交通事故で亡くしたので、父親に対する憧れが強かったですね。パラオで撮った父の写真が家にあって、寂しくなるといつもその写真を見ていた。小さい時からずっと、父親みたいになりたい、外国に行きたいという憧れがありました。
 
6年生の時に、ひと回り上の兄に寿司屋に連れて行ってもらって、「いらっしゃい!」というかけ声、寿司屋独特の匂い、カウンターで食べるというスタイルに一瞬のうちに虜になったんですね。「ここ、いいな」。その時、僕も寿司屋になろうと決めたんです。高校を卒業して、東京の「松栄」という寿司屋に就職しました。
 
ペルー在住の日系人のお客さんが、よくペルーの話をしてくれました。リマの港は世界一の漁獲量ということで、非常に興味を持った。一緒にペルーで店をやらないかと誘われて、休みを取ってペルーに行ったんですよ。ちょうど結婚した時期で、お袋は明治の人間ですからひどく反対した。当時、ペルー移民は行ったら帰って来れないというイメージでしたから。
 
でも、僕はふたつ返事でした。「行きたい」。いったん日本に帰って女房と結婚式を挙げてペルーに戻りました。店はうまく行っていましたが、3年過ぎて、パートナーと衝突してしまったんです。というのも、僕がフードコストを考えていなかったから。いい物を食べさせたいと思うと、どうしてもいい物を仕入れてしまう。でも、出資者は、コストを下げて利益を出したいわけです。その後、何をするという予定もなく辞めてしまったのですが、ちょうど知り合いからアルゼンチンのブエノスアイレスに仕事の口があるというので、引っ越しました。その店には日本からの職人は自分だけで重宝されましたが、アルゼンチンは物価が安く給料も安い。1年間やって、このままでいいのだろうかという不安を抱き、帰国を決めました。

 

開店して50日目で全焼。アラスカでの辛い体験

4年ぶりの日本はオイルショックで景気が悪く、負けて帰った私には居場所がありませんでした。「もう2度、海外に出たい」という思いにかられました。そんなある日、アラスカで日本食レストランをやらないかと声をかけられました。
 
そこでは念願の自分の店を持つことになっていました。工事も手伝いました。そして、オープンから50日目のこと。パートナーから電話がかかってきたんです。「店が火事になっている」と。駆けつけてみると、本当に燃えている。全焼でした。
 
呆然と立ち尽くしましたね。保険にも入っていなかったんです。一銭もなくなったどころか、帰る飛行機代もない。しかし、そういう時にも助けてくれる人がいた。ある人が現金で飛行機代を出してくれました。
 
倉敷の実家に家族をあずけ、ロサンゼルスに単身、逃げるようにしてやってきました。1977年のことでした。最初、ウエストロサンゼルスのミツワというレストランで働きました。そこで借金を返しながら、日本の家族に仕送りをしました。妻と子供2人には、すぐにビザが下りなかったんです。
 
でも、悪いことは重なるもので、やっと買った車が盗まれ、仕方がないので自転車に乗っていると、その自転車まで盗まれてしまいました。でも、もう焦りがなくなっていましたね。アラスカでの経験で開き直っていました。仕事ができて、家族がいて、健康であれば、それでいい。そう思っていました。
 
2年経って永住権が取れると、ミツワのオヤジさんが「もっと自由にやりなさい」と追い出してくれた。その後、王将という店で働き、1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにMATSUHISAをオープンさせたんです。アラスカ時代のことがありましたから、店を持つことにはトラウマがありましたが、うれしかった。何より自分の好きなようにできるのですから。

 

最初は名前も知らなかったデ・ニーロとの信頼関係

ザガットに載ったのはオープン3年目のことですが、最初からザガットを強く意識したことはなかったです。結果的にそういう人たちが来るようになっただけ。ロバート・デ・ニーロとの出会いも、そんな感じでした。最初、誰だか全然知らなかった(笑)。でも、デ・ニーロは気に入ってくれて、しょっちゅう店に来てくれたんです。
 
1年くらい経って、彼から「ニューヨークで店をやらないか」と誘われたんです。「1度ニューヨークに来い」と飛行機もホテルも用意してくれ、彼の家に招待されていろんな話をしました。デ・ニーロはトライベッカという倉庫街のビルを買ったところで、「これがお前の場所だから」と案内してくれました。
 
彼とは4日間ずっと一緒にいましたが、4日目にお断りしたんです。チャンスをくれたことに感謝の気持ちはありましたが、当時、ロサンゼルスの店も3年目で、朝から晩まで働いて、スタッフも7、8人。これでニューヨークにも出すなんて無理。みんながサポートしてくれているロサンゼルスの店をつぶしたくない。アラスカ時代に戻りたくないという恐れがありました。
 
デ・ニーロは「わかった」と言って、その後も店に来てくれ、4年後、また「もういいだろう?」と電話をくれたんです。実は、これまでの経験から「パートナーシップはだめだ」という気持ちもあったのですが、4年間、自分を待ってくれたということで、彼を信用できたんですね。MATSUHISAも7年目で、ある程度回るようになっていたので、1994年、NOBU NEW YORKを出すことに決めました。その後、ロンドン、ミラノと9店舗を開けて、2005年にはニューヨーク、ロンドン、ダラス、バハマと4店増やしました。15店舗のほか、「セレ二ティー」というクルーズ船でも料理を出しています。

 

大切なのは誠心誠意で一生懸命続けていくこと

僕のビジネスは、あくまでも職人としての見方から始まっています。お店って出すのは簡単なんです。場所とお金さえあれば。ただ、そこにスタッフが育っていかないと難しいですね。スタッフには料理に「心を入れる」ということを繰り返し教えています。
 
ロンドンの店には「ノブさん教科書」というのがあるそうです。どこで修業をして、どんな気持ちで店を開けたか、ノブのフィロソフィーとして、マネジメントチームがトレーニングのために作ったんだそうです。知らないところで、そういう物ができているというのは驚きですが、そういう所で仕事ができることが自分でもうれしい。
 
スタッフは世界で1500人くらい。いろんな所に行って、マネージャーやシェフのみんなと話すことも僕の仕事。みんなを元気づけることもあるし、怒る時もある。誠心誠意、接していこうと努力しています。
 
人生で大切なのは、夢を持つことと、1つのことを続けること。「継続は力なり」という言葉が好きですが、1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならないんですよ。自分がその仕事について、人生について、商売に対して一生懸命、誠心誠意を尽くしていればそれでいい。仕事をしている時は、お客様にどうしたら喜んでいただけるか考えることが原点です。
 
(2006年1月1日号掲載)

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