大原 洋人 / プロサーファー

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サーフィン世界大会USオープンで優勝!日本人初の快挙を果たした18歳のプロサーファー

『僕が頑張ることでサーフィンの素晴らしさをもっと伝えたい!』

大原洋人さんが8月にハンティントンビーチで開催されたサーフィンの世界大会「2015 Vans US Open Of Surfing」で日本人として初めて優勝しました。ファイナルで見事な逆転劇を見せて、大会を制した大原さんに今の気持ちを伺いました。

大原 洋人◎1996年、千葉県生まれ。13歳でプロテストに合格後、スポンサーのサーフブランド「Hurley」チームに合流。今年から糟谷修自コーチと共にハワイ・ホノルルに拠点を移す。

― USオープンのファイナル(決勝)にはどんな気持ちで臨まれましたか?

大原さん(以下大原):決勝ということは2位は確実。どうせなら、優勝したいと思いました。予想していた優勝候補の選手が準決勝で敗退して、決勝の相手は自分と同じ世代の選手。十分勝てる、と自信を持って海に入りました。

―最初は相手が優勢。終了3分前に良い波をゲットした見事な逆転劇でした。

大原:会場となったハンティントンビーチは、大好きなポイントの一つ。何度も入っているし、波と相性がいいんです。決勝の波待ちをしている時、あ、潮が変わったと感じました。ピア(桟橋)の方に波が来るのが直感で分かり、最後の波を待つことができました。

―その波を乗り切って最後に見せたガッツポーズ。どんな思いで?

大原:誰に向かってということではなく、納得の行くライディングができて“よっしゃ!”という感じだったと思います。もちろん、これで勝てたという確信もありました。

サーフィンの世界大会USオープンで優勝し、日の丸の旗を掲げる大原洋人選手。

―今年に入って日本からハワイに住まいの拠点を移されました。影響はありましたか?

大原:ハワイで練習できたのは大きいと思います。決勝会場はグーフィー(陸に向かって左方向に進む)の波が多いのですが、いつも苦手で…。ハワイに来てボウルズに集中的に入って、グーフィーを何度も練習したのが役に立ちました。

―糟谷修自コーチの存在は大きいですか?

大原:もちろんです。今回、コーチと共に生活できたことでサーフィンが変わりました。いつもは海外でコーチと合流して、コミュニケーションもそこそこに試合になります。でも、今は生活を共にしていますから、試合の時は少し言葉を交わせば伝わります。

糟谷修自コーチ(以下 糟谷) :コーチとしては、選手が自分の思うように波の上で動いてくれるのが理想ですけど、なかなかそうはいきません。でも、まるでリモコンでもあるかのように、自分が望んだライディングをそのまましてくれる時がある。USオープンの洋人はそんなライディングをしてくれました。

―ご両親はテレビの前で号泣されたとか。

大原:今でも電話で喜びを伝えてくれます。サーフィン好きの父に孝行ができたことを嬉しく思います。

―一夜にして有名になった気分は?

大原:正直、まだ実感が湧かないのですが、SNSのフォロワー数が1万人単位で増えて、周囲の反応にびっくりしています。

―プロになった経緯と糟谷コーチとの出会いを教えてください。

大原:実は姉もプロのボディボーダーで、世界中を試合で周っています。それで、僕も海外の試合を転戦することになった時、少しでも家計の助けになればと(笑)。プロテストに合格したのは13歳の時でした。今回優勝した時、姉も海外の試合中だったのですが、とても喜んでくれたと聞いています。

糟谷 :実は昔、日本の試合に出た時に、小学生の男の子がとことこと近づいてきて「大原洋人です!」と自己紹介していったんですよ。その時のこと、よく憶えています。

大原:13歳の時、コーチとして再会したのですが、僕も憶えていました。修自さんはすごいオーラがあるプロでしたから。

―この優勝で2020年の東京五輪での種目に選定される可能性も高まりました。

大原:五輪種目になれば嬉しいですし、出場できたら、もちろんメダルを狙います。今回の優勝や五輪でサーフィンに注目が集まって、このスポーツの素晴らしさがもっと多くの人に伝わったら嬉しいです。

―優勝で世界ランクは81位から13位に。世界トップが競うワールドチャンピオンシップツアーの出場権が射程距離となりました。

大原:ここまで来たら出たいですね。だから年内の残りの試合で気を抜かずに良い成績を残さないと。ワールドツアーが今の最大の目標です。

糟谷:日本のプロで、ワールドツアーに最も近いのが洋人です。13位は日本人最高順位。最後まで気を抜かず頑張ってほしいです。

大原:はい、頑張ります!
 
(2015年9月16日号掲載)

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