森本正治さん/「料理の鉄人」3代目和の鉄人

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寿司ブームを自分の目で見たくて渡米
日米で注目されるセレブリティーシェフに

【森本正治さんのプロフィール】

もりもと・まさはる◎1955年広島県出身。崇徳高校野球部の主将。30歳で渡米。ニューヨークの「ソニークラブ」の総料理長を経て、1994年「NOBU」オープンとともに総料理長に就任。1998年よりフジテレビ「料理の鉄人」で3代目和の鉄人を襲名。2001年11月フィラデルフィアに「MORIMOTO」オープン。著書に『No.1(いちばん)』。趣味はゴルフ。

 

肩を壊して野球を断念。もう1つの夢、寿司屋に

小さい頃からなりたかったものが2つあったんです。野球少年だったので、1つは広島カープに入団すること。もう1つは寿司屋をやること。小学校の卒業文集に書いているんですよ。「寿司まさ」をやりたいって。名前まで決めてたんですね。広島の名門崇徳高校で主将を務めたのですが肩を壊して野球を断念し、もう1つの夢だった寿司職人の道に入りました。
 
子供の頃、父が酒乱でうちには温かい食卓というものがなかったんですが、給料日の次の日だけは決まって家族で寿司屋に行ったんです。うちはなぜか最初に喫茶店に行って、妹と私はパフェを、両親はコーヒーを飲んで、それから寿司屋に行くんですよ。その時の家族の思い出みたいなのがあって、寿司屋をやりたいと思ったんですね。でも寿司屋で働いているうちに隣りの芝生が青く見えてきて、1980年くらいに喫茶店を始めました。
 
著書『No.1(いちばん)』は自分のことを回想して書いたんですが、寿司屋も喫茶店も子供の頃に味わった家族の団欒に帰していたんだなと、書くことによって改めて気づきました。それと野球では1番になれなかった。だから寿司屋で1番になろうと思ったんだと。喫茶店を始めた後も、いろいろなことをしましたね。朝7時から夜8時まで喫茶店に出て、9時から朝2時まで寿司屋で修業。それ以外にも同時に火災保険の代理店やったり新聞配達やったり。本当になんでも一生懸命しました。
 
30になった時にやろうと思ったことが4つほどありました。ベンツを買うこと、家を買うこと、居酒屋をやること、アメリカを1年くらいかけて1周すること。それで、まずはアメリカに行こうと。本当は1984年のロサンゼルスオリンピックの時に来たかったんです。1970年代後半から1980年代前半はアメリカに寿司ブームが起きていたので、自分の目でどんなものか見てみたかった。
 
ところが店の売却に手間取って、結局1985年に渡米し、ニューヨークが最初のストップでした。半年くらい仕事するつもりはなかったんですが、日本にいる時に、こちらの日系の雑誌や新聞を取り寄せて調べたら、寿司職人は引く手あまただったので、渡米しても大丈夫だとは思っていました。それでいろいろなレストランで仕事しているうちに、たまたま紹介してくれる人がいて「NOBU」のオープニングから参加しました。

 

フィラデルフィアは独立宣言、そしてNYで故郷に錦を飾る

「料理の鉄人」に出演している時は大変でしたね。鉄人というのは世界に4人しかいないわけです。それだけ注目を浴びて勝った負けたとやるわけですから、ものすごいプレッシャーで食べられない、眠れないという状態が続き、やっている時は本当に苦しかったです。ストレスですごく太ったんですよ。撮影のために月に1度は東京に行かなければいけなかったし、1日に2本撮ったことも5回くらいありました。どの対決も一生懸命だったので、特に印象に残ったというのはありませんが、人と違うことをやりたかった。
 
「納豆対決」の時の「納豆のコーラ煮」は、甘納豆があるんだから、素材は違うけれども甘い納豆があってもいいんじゃないかと思って。納豆でデザートを作りたかったんです。
 
最初に鉄人の依頼があった時、本当は断ろうと思ったんです。でも当時、日本の料理界で「アメリカの和食」は軽く見られているところがあったんですね。駐在員はアメリカに来ればキャリアになりますが、アメリカの和食料理人は引け目を感じた時代だった。それでアメリカでがんばっている若い人のためにも、と思って引き受けました。番組を通じて創作和食の地位が確立され、今では逆輸入で日本でも評判を得ているのを見ると「やったな」って思いますね。
 
2001年11月に「MORIMOTO」をフィラデルフィアでオープンした時、皆になぜフィラデルフィアなのかと聞かれたんですけど、これは言ってみれば独立宣言なんです。いつまでも「NOBU」の森本、「NOBU」から出た鉄人だと言われたくなかった。「料理の鉄人」に出ていた頃は角刈りだったのをポニーテールにしたのもそのためです。今かけている眼鏡も伊達眼鏡なんですよ。2003年にはニューヨークにもオープンする予定です。フィラデルフィアで独立して次は何だと考えた時、ニューヨークで故郷に錦を飾るといいますか、旗揚げですね。
 
「料理の鉄人」は大変だったけど、その経験を活かしていきたいですね。出演してよかったのかどうか、結果はこれから出てくると思います。今、文化的なものが西洋から東洋に向いている時代になりました。料理も同様で、先日私が音頭を取り、日本人シェフ7人が集まって料理を披露する機会を設けたんですが、日本人のシェフの料理を食べるために200ドルも出して人が集まるなんて、ひと昔前では考えられなかった。これは私1人ではなくて、日本人シェフみんなががんばってきたから実現したのですが、その一端は担うことができたんじゃないかなと自負しています。
 
私の場合はラッキーだった。でもすべての人に運が向くかというとそうじゃない。やはりライトスポットにいなければいけない。料理でも何でも、自分のやっていることを好きでい続ける、そしてやり続けることが大切なんじゃないでしょうか。
 
(2003年1月1日号掲載)

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