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アメリカン・ドリーマーズ

アメリカの各業界で活躍する日本人・日系人に、渡米のきっかけから、大きな夢を実現するまでの軌跡をインタビュー。

ライトハウス編集部
ライトハウス編集部

松井紀潔さん/松井ナーサリー・インク社長

稼いだお金は、自分の懐に入れるべきものではありません
それをすべて、地域貢献に使うのが正しいと信じています


1万円を握りしめ、太平洋を渡った松井さん。アメリカでの農業に大志を抱いた25歳は、世界一の蘭生産者に。これまでの道のりと、今後の生き方を聞いた。


【プロフィール】まつい としきよ◎1935年、奈良県生まれ。61年に、農業団体研修プログラムに参加し、カリフォルニアに1年滞在する。その後帰国するが、アメリカ体験が忘れられず再度渡米し、菊農園で働く。当時の所持金は1万円。その後、妻と娘を呼び寄せ、永住権を取得。独立して、本格的に菊栽培を始める。その後幾多の試練を経て、バラ栽培、蘭栽培へと転向した。現在は、資産100億円を超える世界一の蘭生産者。農園の従業員数190人、年商22億8500万円、純利益1億7600万円、蘭栽培の温室総面積は東京ドームの約6倍。蘭栽培としては世界一の規模で、全米の25%、カリフォルニア州の50%のシェアを握る。地域活動にも熱心に取り組み、2006年の農業リーダーシップ表彰受賞を始め、市長賞、郡会議賞などを多数受賞。

日本の農業ではダメ
大志を抱き、単身渡米

巨大な敷地に並ぶ蘭の温室。
全敷地面積は、東京ドームの約6倍

私は奈良出身で、実家は農業を営んでいました。23歳で結婚。長女も生まれました。しかし、「今の日本の農業では夢が実現できない。満足できず終わってしまう」と、心の中では思っていました。

1961年、25歳の時に1年間の農業団体研修プログラムに応募し、カリフォルニアに派遣されることになりました。妻と娘を奈良に残して行かなければなりませんでしたし、長男で家を出ることの後ろめたさや世間の目も気になりました。母は、「出て行くのはいいが、戻って来れないよ」と言いました。厳しい言葉ですが、それは母のはなむけの言葉でもあったんです。「出た以上は頑張れ」と。その言葉は、アメリカ生活で私をずっと支えてくれました。

1年が過ぎ、日本に帰国。しかし、アメリカのことが忘れられませんから、帰国して1年ほどで、すぐにアメリカに戻ることにしました。ビザの問題で妻と娘を置いて行かざるを得なかったため、また私1人での渡米。その時の所持金は1万円。しかし、自分には渡米しかないという情熱がありました。

2年後、永住権申請を始め、妻と娘を呼び寄せました。そして、66年に永住権を取得し、67年に独立。貯めた5千ドルを資本に小さな農園を借りて、菊栽培を始めました。妻も農園に出て働いてくれました。幼い娘は、あるアメリカ人の方が無料で面倒をみてくださったんです。今でもその理由がわからないのですが、後に生まれた3人の子供の面倒も見てくれて。その方の温かい気持ちのおかげで、今の私と家族があるわけですから、とても感謝しています。

私が栽培を始めたのは大輪菊。綿密なデータに基づいた経営計画と10年先を見越したプランを立て、運営しました。私が実行したことは、高品質の大輪菊を周年供給することでした。そして、委託販売を一切せず、1都市1店舗のみで販売。おかげさまで順調に業績が伸び、全米シェアの15%を占めました。

しかし、70年代のオイルショックで、収益に陰りが出始め、バラ栽培に転向しました。アメリカでは、バレンタインと母の日にバラの消費が増えるのですが、私は、時代のキーワードは「カジュアル」だと睨んでいましたから、バラも年中気軽に利用されると踏んだのです。


従業員への愛が足りない
それに気付いて大改革

蘭と名の付く品種の実に90%を栽培する松井
ナーサリー

カリフォルニアの海岸沿いを隈なく調査し、バラ栽培に適した場所を探しました。見つけたのが、今農園を営むサリナスだったのです。基本的にバラは、夏に育てるのが難しい花。しかし、サリナスの気候は夏でも涼しく、それを利用して新品種のベガというバラを栽培しました。誰もが欲しくても手に入らない「夏のバラ」を栽培し始めたのです。これも大当たりしました。どんどん夢が実現していくのを実感しましたね。

しかし、84年の秋、メキシコ系の農業従事労働者の組合結成に火が着き、私の農園にも飛び火しました。私は従業員に、平均賃金の3割高で支払っていましたから、影響がないと高をくくっていたんです。しかし、組合は容赦なく賃金アップを要求。その後2年ほどは連続赤字でした。従業員のことを考えて運営してきたのに、なぜこうなったのか悩みました。

そんな時、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏著『心を高める、経営を伸ばす』という本に出会いました。その本を読んで、自分の経営には、従業員に対する「愛」が足りないと気付いたのです。

そこで早速、組織改革に取りかかりました。マネージャーと12人の課長職を全員メキシコ人にし、「コモスタール!(元気か)」「アディオース!(さようなら)」と、私からスペイン語で元気に話しかけるようにしました。また、作業効率の上昇を目指し、マネージャーの負担軽減のためグループ制を採用。出来高払い制にしました。すると、時間給制より20%ほど作業効率が上昇。給料が増えたため、社員にも活気が出ました。その結果、皮肉にも社長の私の給与は、社内で8番目に下がりました(笑)。

しかし、ここでも順調にいかないものです。南米産の安いバラが、市場を荒らし始めたのです。その状況は日増しにひどくなり、91年頃には、周りの農園がどんどん廃業していきました。

そこで、私は蘭栽培に注目しました。当時のアメリカには蘭の周年栽培はなく、栽培技術は、愛好家の趣味の領域を超えていませんでした。しかし、大規模栽培を可能にすれば、高価な蘭が家庭の主婦でも手が届く花として普及し、廉価で市場に流せると私は考えたのです。「アメリカの台所に蘭を飾る文化を作ろう」。それが、私の命題でした。私は62歳、最後の挑戦だと思いました。

それから世界中を周り、蘭栽培を研究。商品選択の幅を広げ、誰でも買えるようにと、大・中・小のサイズを用意し、豊富な種類を栽培しました。その甲斐あって、ほぼゼロだった蘭の消費量が、8年で鉢植え花の第2位となるほど一般的になりました。手前味噌ですが、私がやってなかったら今でも蘭は高価で、一部の人しか楽しめなかっただろうと思いますね。

おかげさまで、現在は40エクタールほどの農園で、1千万鉢を栽培しています。胡蝶蘭を中心に、蘭と名の付く花の90%を生産。規模的には世界最大の生産場となり、蘭の鉢花作りとしては、全米25%のシェアを占めています。


最後は
1万円だけ残れば良い

私は、アメリカに来たからには移民同士でまとまるのではなく、現地の人の中で頑張ろうと決めていました。ですから、友人にも恵まれ、すてきな出会いを経験しました。やはり、日本を飛び出した以上、まずはその地域の人たちと上手く交わらないとダメです。アメリカで腰を据えるつもりならなおさら。日本を引きずって暮らすのではなく、アメリカの規則に従って生きなければなりません。もちろん言葉のハンデはありますが、気持ちの伝わり方に違いはありません。

私は、2004年に松井奨学基金を設立しました。そして、地元の恵まれない子弟の学業支援や奨学金に私財を使うことを遺書に残し、公表しました。なぜなら、地域の人々のおかげでここまで来られたという、感謝の気持ちがあるからです。私が与えてもらった機会を、ほかの人にも与える。これが私の使命だと思っています。

また、4人の子供が全員ハーバードを卒業し、もう教育費が要らなくなったことも基金創設の理由です。この先、稼いだお金を使う所がありませんからね。

サリナスは農業の街で、移民も多い。家計が苦しく、大学に行けない人もたくさんいます。そういった人たちに教育の機会を与え、人間育成を促す。そうしないと、社会が良くなりません。今は収益の10%を還元していますが、いずれは土地も全部売って、そのお金を地域貢献に使おうと思っています。おそらく、売れば100億円くらいにはなるでしょうから、今後25年間に2〜3千人くらいは大学に送れるはずです。そしてその人たちが、20年、30年後に社会に還元してくれたら、こんなにうれしいことはありません。それが一番正しいお金の使い方だと信じています。

私の子供は跡を継がないでしょうし、押し付けるつもりもありません。ですから子供たちは、私の財産を1セントたりとも期待していません。もちろん、私も残しません。その代わり、自分が人を助けられるようになった時に、人のために尽くすことが人間としていかに尊いかという「利他の考え」を財産として残すつもりです。元を辿れば、私は1万円でやって来た男です。その分だけ手元に残ればいいんですよ。

私は死ぬまで農民です。汗を流して土地から作物を生み出し、そしてそれをまた土地に返す。今でも、農園で一番の働き者は私。100歳までこの調子でいくつもりです。


(2010年1月1日号掲載)