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アメリカン・ドリーマーズ

アメリカの各業界で活躍する日本人・日系人に、渡米のきっかけから、大きな夢を実現するまでの軌跡をインタビュー。

ライトハウス編集部
ライトハウス編集部

雲田康夫さん/Frec Food代表

自分を切羽詰まった状況に追い込んだから上手くいった
少なくとも、失敗したら日本に戻ればいいという気持はなかったね


「Mr. Tofu」と呼ばれる雲田さんは、日米食文化の狭間で、全米に「TOFU」を浸透させた功労者。25年にわたる、その熱い思いをうかがった。


【プロフィール】くもだ やすお◎1966年、青山学院大学法学部卒業、森永乳業株式会社入社。70年代初頭のスーパーマーケット台頭により、同社の牛乳販売は不振に。そこで、健康ブームに沸くアメリカをターゲットに販路を拡大。85年に単身渡米し、現地法人を設立した。以後幾多の失敗を繰り返し、93年、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が豆腐の話をしたのをきっかけに注文が殺到。それ以降、アメリカの豆腐市場の形成に尽力し、「ミスター豆腐」と呼ばれる。2008年、第3回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産大臣賞を受賞。Morinaga Nutritional Foods, Inc.前社長、中京大学国際英語学部客員教授、日本食文化振興協会理事長。著書に、『豆腐バカ 世界に挑む』『売れないモノは俺に任せろ!』(共に光文社)

強烈なスーパーの追い上げに
アメリカに豆腐市場を求めた

第3回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産
大臣賞の授賞式。当時の小泉純一郎首相と並んで

1966年、大学を出て森永乳業に就職しました。70年代初頭にスーパーマーケットの勢力が台頭し、主婦の買い物パターンが激変。宅配で価格が守られていた牛乳が、スーパーの「今日の特売品」で売りさばかれるようになった。そうなると、誰も宅配牛乳を買わなくなるでしょ。そこで、牛乳の配達網を活かして、ほかの商品も販売できないか全社で考えた。参入しやすく、しかも市場が大きい商品。それが、豆腐だったんだ。

そこで森永は、5年かけて、常温で長期保存できる滅菌処理した豆腐を開発。東京に大規模豆腐製造設備を用意した。しかし運悪く、79年に中小企業を保護する法案が成立し、豆腐の販売には全国豆腐商業共同組合の許可が必要になったんだ。当然、豆腐組合は大企業の豆腐販売を許可しないよ。そこで、海外の日本人駐在員や、健康食の代名詞となった日本食の普及に便乗し、アメリカ市場の開拓を決定。それを機に、85年の現地法人設立で渡米しました。40歳の頃だったね。

豆腐のコンセプトは、「低カロリーでコレステロールゼロの植物性高タンパク食品」。だから、アメリカ人には魅力的なはずなんだよ。でも実際食べさせると、「気持ち悪い」「味がない」「TOFUの発音が、TOE(つま先)に似ていてイヤ」と散々。しかも、原料の大豆は、当時のアメリカ人には家畜のエサ。

立ち上げから4年経った88年のある日、追い討ちをかけるように全米紙『USA Today』が、「アメリカ人が最も嫌う食品は豆腐」と掲載しちゃって。その上、本社から撤退命令が出るし。一瞬、「こりゃダメだ」と弱気になったね。

そこで、豆腐にブランドネームを付けようと考えた。思い付いたのが、鉄板焼きの「BENIHANA」。「BENIHANA」ブランドなら、スーパーも買ってくれると思ったんだ。そこで、ニューヨークにいる創業者の故ロッキー青木さんにお願いに行ったら、ダメだって。そりゃそうだよね。でも、私も必死さ。「では、うちの豆腐を使って料理を出してください」とお願いした。すると、「『低カロリーでコレステロールゼロの健康食品です』と豆腐を説明したら、ステーキはどうなる? 悪者になっちゃうじゃないか」って。で、どうしたらいいか相談したら、「自分が広告塔になりなさい」と、ご自身の経験を踏まえて、丁寧に教えてくださった。

LAに戻って、自分に何ができるか考えた。そして思い付いたのが、車のナンバープレートを「TOFU NO1」にすること。するとアメリカ人コンサルタントが、「『豆腐はノー!』って読めるよ」って。「うむ、なるほど…」。結局「TOFU A」にしたけど、走ってると、周りのドライバーが窓から親指を下に向けて「ブー!」って(笑)。

次にLAマラソンで、豆腐の着ぐるみを着て走った。運悪く転んだけど、そこにTV局のスポーツレポーターがいて、着ぐるみを指して「それは何だ」と。痛いのを我慢して、TVカメラの前で「ノーコレステロール、ヘルシーフード!」と、あれこれ説明したよ。

その時、ロッキーさんが言ったことがやっと理解できた。ある文化に異質の食べ物を浸透させるというのは、優れた栄養面にフォーカスするだけではなく、自分が広告塔になってチャンスを逃がすなってことだったんだね。

それからも色々挑戦したよ。でも、スーパーで冷奴のデモをやったら、カツオ節にしょう油をかけるとクネクネ動き出してアメリカ人はひるむし、味噌汁を出すと、一気に飲んだおばあちゃんがヤケドして、止めろと言われるし。スーパーの店長に「そこを何とか」とお願いして、今度は麻婆豆腐のデモを始めた。すると人気は上々! 「よしっ!」と思ったけど、客は口を揃えて「麻婆ソースをくれ」って。「ソースは他社製品だから…、豆腐を買って」と言うと、「じゃあ要らない」だって。


桃栗3年、柿8年
豆腐は10年かかるね

「TOFU A」のプレートを付けた車に腰掛ける雲田氏
(上)と、 LAマラソンで豆腐の着ぐるみで走る様子

年貢の納め時かって思いながら、ある米系スーパーの豆腐売り場に立ち寄った。すると、潰れた豆腐を買っているおばあさんがいたんだ。ビックリして「どうするの?」って聞いたら、「果物を入れてシェイクにするの」って。驚いたね。私の発想になかったから。早速会社に帰って、栄養士とフードスタイリストと社員を呼んで、果物入り豆腐シェイクを作ったら、これが美味い! そこで、「革命的な健康朝食『豆腐シェイク』」というふれこみでデモを開始。すると大盛況。結局ね、アメリカ人に豆腐を売るんだから、白くて四角い「日本」の豆腐を売る必要はなく、ぐちゃぐちゃの豆腐でいいんだよ。渡米6年目にして、それがやっとわかった。

とは言え、まだ軌道に乗らなかったし、相変わらず本社は撤退しろと言う。そんなある日ラジオを聞いていたら、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が、「私は、夫のビルに健康食品の豆腐料理をすすめるんだけど…」と話していた。当時豆腐は「soy bean cake」「soy bean curd」と呼ばれていたのに、彼女は「TOFU」と発音した。すぐにホワイトハウスに豆腐1ケースと、『豆腐マジック』と名付けた自作レシピを送ったんだ。そしたら、ヒラリー夫人から礼状が来て。それで「アメリカで頑張ろう!」って決心したよ。

それ以降、「家畜のエサで作った健康食品」という意外性も手伝って、色んなメディアが豆腐を取り上げた。すると、全米から注文が殺到。自信が付いたもんだから、本社に「もう少しやらせてくれ」と言ったら、「自分で資金調達するならОK」とつれない返答。だから独立し、借金して1日10万丁生産できる拠点をオレゴンに建設したんだ。結局、順調に売れ始めたのは、10年ほどしてからだったね。桃栗3年、柿8年。豆腐は10年だよ(笑)。


経験を後世に伝える
それが私の使命

売れるかどうかわからない物を売る時は、莫大な時間がかかるのは当たり前。だけど、時間をかければ良いってもんでもない。要は本人が、本気でどうにかするという熱意を持っているかどうかだね。これまで、精神的な重圧から10円ハゲができたり、胃潰瘍になったり、血尿が出たり。周りからは「バカじゃないの」っていつも言われた。でもね、人から「バカ」って思われるレベルに達して、やっと事業が成功に向き始めるんだよ。

ある程度まで頑張ったら、次は発想の転換。固定観念に縛られず、柔軟な発想で物事を考えることが肝要だね。「他人のせいにせずどこまで頑張ったか、そして、どれだけ大胆に発想を転換したか。それを自問自答してください」って、いつも講演で話してますよ。

今は、多くの方から「最初は大変でしたね」と言われますが、、当時、英語ができない40男には、アメリカで豆腐を売り込む以外に、生きる道がなかっただけ(笑)。でもね、いつも自分を切羽詰まった状況に追い込んでいたから、うまくいったんだと思うし、失敗したら日本に戻ればいいという気持ちもなかった。でないと、人間は簡単な道に逃げちゃう。最近、『売れないモノは俺に任せろ!』という本を出しました。サブタイトルが「成功法則58」だけど、裏を返せば58話の失敗談。それを反面教師にして読んでもらいたいね。

最後にね、私の使命は自分の経験を後世に伝えることだと思ってる。最近の日本には、私の年代で元気のない方がたくさんいらっしゃるようだけど、彼らには、人生や社会人生活の中で蓄積した豊富な経験と深遠な知識があるはず。あれだけ苦しい時代を乗り越え、日本の成長の原動力となった世代なんだから。そしてそれは、日本の国にとって貴重な財産だと思うね。だから沈黙を守らず、「俺たちには、知識と経験を若者に伝える使命がある」って思っていただきたい。そうすれば、自ずと元気が出てくるはずです。

こんな私も、今になってわかったことはたくさんあります。だけど、若い世代にこれまでの私を惜しみなく伝え、彼らがその次の世代にまた伝えてくれれば、最高にうれしい。そう思って、毎日頑張ってますよ。


(2010年1月1日号掲載)