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アメリカン・ドリーマーズ

アメリカの各業界で活躍する日本人・日系人に、渡米のきっかけから、大きな夢を実現するまでの軌跡をインタビュー。

ライトハウス編集部
ライトハウス編集部

出村文男さん/武道家、映画スタント、俳優

この国のために私ができることは人間育成
子供たちの成長の一助となれることが生き甲斐なんです


在米45年。日本での空手生活に限界を感じ渡米するが、日本人としての誇りは常に堅持。これまでの経験を基に、出村流アメリカでの生き方をうかがった。


【プロフィール】でむら ふみお◎1940年、横浜生まれ。48年、8歳で剣道を始め、52年頃より本格的に空手を始める。60年、東日本空手大会優勝。61年、全日本空手大会優勝。65年に渡米し、オレンジ・カウンティーに空手道場を開く。69年、雑誌『BLACK BELT』で“Instructor of the Year”に選出。69年〜74年、“Japanese Village & Deer Park”で空手のデモショーを行う。72年、“Nunchaku Karate - Weapon of Self-defense”、73年“Golden Fist Awards” 受賞。75年には、雑誌『BLACK BELT』から“Man of the Year”に選ばれた。映画は、94年の『Rising Sun』、95年の『Mortal Kombat』に出演。2002年に「Shitoryu Genbu-kai Association」を設立し、現在、サンタアナ糸東流空手玄武会総本部会長を務める。

母に諭され
空手道を続けた

(上)雑誌『BLACK BELT』には、通算60回ほど表紙
に登場
(下)ブルース・リー(中央)とスティーブ・マックイーン
(左)と。有名武道家や俳優との交流は深かった

私が空手を始めたのは終戦直後の何もなかった時代。小さい頃、身体が弱かったので、それを克服するために始めました。当時空手はまだ新しく、カッコよくてミステリアスなところに惹かれましたね。1957年頃から空手の試合や審判などのルールが整備され、61年に初めて行われた全国大会で私が優勝。その後2〜3年続けて出場しました。しかし、64年の東京オリンピックの頃、先生から現役を退いて審判に回るように言われました。私はまだまだ若かったし、現役でやり続けたかった。また、当時の先生とは考え方に食い違いもあり、「日本で空手をしても仕方がない、外国に出よう」と決心したのです。

渡米したのは65年。1人で日本を離れ、サンタアナで住み始めました。小さなガレージを利用して、こちらで知り合ったパートナーと空手を教え始めました。しかし、道場を開いたと言っても生徒は少なく、お金もない。そんなある日、私は練習中に誤って相手の歯を折ってしまい、治療費を払わされました。「こんな馬鹿らしいことはない」と思い日本へ帰国したんですが、日本に着いた途端に後悔して…。だってアメリカを体験すると、日本の何もかもが小さく思えて、もうここには住めないと思ったんです。それで今度は、全日本空手道連盟の笹川良一会長の協力を得て、66年に再度渡米。それからは「成功するまでは絶対帰らない!」ともう死ぬ覚悟でした。

渡米後は、道場の仕事をしながら、ブエナパークの日本村で空手ショーに出演していました。日本の伝統的な空手、例えば「突き」の演武では、顔に当たる直前で手を止めるのですが、アメリカ人にはそのすごさがわからない。そこで「突き」の時には、実際に当たったような演出で見せ場を作ったんです。観客にはとても受けたのですが、日本の空手界からは大クレーム。「空手は見世物じゃない」って。どうするべきか、とても悩んで、ショーを辞めようとも思いましたね。辞める前に、一度母に見てほしいと思い、アメリカに呼んだんです。「これが最後のショーかもしれない」って私が言うと、「悪いことをしてるんだったら、辞めなさい」って。「悪いことなんかしていない」と返答すると、「だったらやりなさい」って言ってくれたんです。母は明治の人間で昔の小学校しか出ていませんが、あの時代の人の、そういう力ってすごいと思いますね。

こうして、空手道場とショーの出演を通して、色々な武道家と出会いました。ブルース・リーとは、UCLAで空手と古武道の演武をした時に知り合いました。彼はとにかく勤勉で、研究熱心な男でしたね。チャック・ノリスとは、彼が韓国での兵役を終えて帰国してから知り合いました。彼は向こうでテコンドー(韓国式空手)を習ったのですが、テコンドーは足技が中心であるため、特に手技の「突き」を習いたいと私を訪ねて来たんです。ショー・コスギとは、日本村のショー出演者を探している頃に知り合いました。彼は日本から来たばかりで、当時はまだ茶帯。12年ほど一緒にショーに出て一生懸命やってくれました。スティーブン・セガールはこの近くに住んでいて、合気道をやってるんです。彼もショーに数年一緒に出ましたね。もちろん、今でも付き合いがあります。
 
74年のオイルショックで、日本村が倒産。その2日後、ラスベガスのヒルトンホテルから呼ばれて武道ショーに2年ほど出演。その縁もあって、バート・ランカスター主演の映画『ドクター・モローの島』のオーディションを受けました。その配役は、トラやライオン、熊などの猛獣と戦うというもの。50人ほど受験者がいましたが、皆、怖くて逃げ帰ってしまったんです。もちろん私も怖かったですよ。でも、武道の訓練を思い出し、「できないことはないはず」と参加しました。

これがきっかけで俳優協会に入りました。そして、次に来たオファーが『The Karate Kid』の主役。ところが主役となると台詞もたくさん。とてもやりたかったのですが、私の英語力では無理だとお断りしました。すると1カ月ほどしてから連絡があり、主役にはパット・モリタが採用されたものの、彼は空手ができないため、彼のスタントとして参加してほしいと頼まれたのです。それ以降14年間、彼の出る映画はすべて、私が影武者として出演しました。


負けることを知って
初めて勝つことができる

『The Karate Kid』のパット・モリタ氏(左)と。
常にモリタ氏の動作を研究した

空手がオリンピック競技に採用され、同じ条件で公平に勝ち負けを決定する「スポーツ化」が進みました。しかし、空手は元々、護身から始まったもの。身体が小さくても、大きい相手に勝つことができる技を鍛錬するものなのです。今は日本も含めて、世界中で空手をスポーツとして捉え、勝つことしか教えない。でも、負けることを教えないと勝てないし、長続きしません。「七転び八起き」という言葉がありますが、勝敗よりも、勝った理由と負けた理由をきちんと教え、負けても頑張れば、上に上れるんだってことを教えるべきなんです。私は10%はスポーツとして空手を教えますが、あとの90%は武道、つまり人間形成のために指導していると思っています。

昔の日本は今と違って、周囲が皆自分の先生みたいな感じだったでしょう。タバコでも吸ってたら、隣の人や知らない人にも叱られる。今の子供は誰にも指導されないからかわいそうなんですよ。武道で大切なことは子供をかわいがるだけじゃなくて、教育して世の中に出ても生きられるような人間にすることなのです。生徒にはいつも「チャンピオンになるよりもいい人間になれ。強くても性格が悪かったら誰も見てくれない。性格が一番この世の中で大切なことなんだ」と伝えています。


外国で生きるなら
日本人として責任を持つ

アメリカで生きていく上で大切なのは、「初心忘れるべからず」の教え。アメリカに来た時、何をやりたいと思ったのか、それを常に考えていなければなりません。そして、お金で動いてはいけないということ。どんな小さな仕事でも、報酬の有無に関わらず、ベストを尽くしてやる。お金は追う物ではなく、付いてくる物なのです。そうすると人伝えで評判も広まり、引いては次のステップにつながるものです。また、時間の無駄遣いもダメです。時間は戻って来ませんから。どれだけ有意義に使えるか、常に意識してください。

それと、自分の進むべき目標を作る。目標がなければ何もできないし、道がなければ歩けません。将来辿り着きたいゴールを設定し、そこに向かう道を自分で開拓するのです。そういうことをせず、映画スターになりたいとアメリカに来てもムダです。夢はあっても、それに向かう地盤がないからです。映画スターになろうとするなら、学校の演劇部に入るとか、お金がないなら無料の学校を探して勉強するとか、あるいは、テレビを見て演技の練習をするとか、やり方はいっぱいあるはず。そういう努力を重ねないと、大きい夢を持ってもダメだと思います。

最後に、日本人であることを決して忘れないでほしいですね。外国にいるなら、なおさら日本人としての誇りを持たなければいけません。たった1人の日本人が起こした悪行が、何千万人という日本人にダメージを与えることを心得て、日本人の代表として責任を持つ。これは絶対に必要なことです。

私は、今年で在米45年になります。これまでは空手一筋に頑張ってきましたが、今では、アメリカに何か残さなければいけないと思っています。それは一体何か。やはり私にできることは、人間育成しかないと思うんですね。いい人間を作るということ。いい人間とは金持ちじゃなくて、世の中に通用する人間を育てるということ。今に生きる子供たちが、少しでもそうなってくれるとうれしいですし、彼らの成長の一助となれることが、今は最大の生き甲斐ですね。


(2010年1月16日号掲載)