日系移民とアメリカの歴史

日系アメリカ人の歴史研究者のお話を踏まえ、1790年から現在に至るアメリカの歴史と日本をはじめとする世界の歴史を、日系移民と日系人を中心にして整理してみました。
 
年表を整理してみると、長い歴史の中で、アメリカで日本人が「日本人である」ことだけでからかわれることも、法的差別も受けることも、犯罪者扱いされることもない状況は、ほんのここ数十年の稀有な歴史だということが浮かび上がってきます。また、日本人、日系人が自らのアイデンティティーに誇りを持っ て暮らせるようになったのも、公民権運動、アジア系アメリカ人運動以後、ここ40年、50年ほどのことなのです。この私たち日本人が当たり前のように享受している自由と平等は、いまだに全てのアメリカ人、移民に実現されているわけではありません。肌の色、宗教、性別、性的嗜好、そうしたことだけで犯罪を疑われ、憎まれ、時には殺される人々が存在します。「再び戦争が起きたら、私たちは強制収容されますか?」、日本人の私たちには、それは非現実的なことに思えます。しかし、その「私たち」が日本人以外だとしたらどうでしょうか。その恐れを否定できない人々が、いまも存在しているのです。彼らの受けている差別に目をつぶること。それは私たち日系移民と日系人の歴史に目をつぶることとも言えるような気がしています。

 

日系移民とアメリカの歴史(〜1900年代)

「帰化法」制定(1790年)
市民権を取得する権利を白人の自由市民に限定。1873年にはアフリカ生まれおよびその子孫にも帰化が認められた。この帰化法が、日本をはじめとするアジア系移民の帰化を拒否する法的根拠となった。
奴隷解放宣言(1863年)
1861〜65年の南北戦争の最中、共和党のリンカーン大統領が奴隷解放を宣言。黒人奴隷に代わる安価な労働力が求められ、1848年頃のゴールドラッシュから増えていた中国からの移民が急増。
中国人排斥法(1882年)
中国からの移民が禁止される。
日本からの移民が増加(1884年)
明治政府が日本国民の海外渡航を正式に許可。移民が禁止された中国人に代わり、日本からの移民が増加。渡米した日本人の多くは、農園や農場、缶詰工場、鉄道敷設などで労働に従事。
日清戦争(1894-95年)

 

日系移民とアメリカの歴史(1900年〜1950年)

日露戦争(1904-05年)
大国ロシアに、有色人種の東洋人の国である日本が勝利したことにより、米国で黄禍論が加熱。
アジア人排斥運動(1905年)
サンフランシスコでアジア人排斥同盟が設立。1906年にはサンフランシスコ教育委員会が中国、日本、韓国系移民の生徒の隔離決議を採択。
日米政府間で紳士協定締結(1908年)
反日運動が西海岸を席巻。中国に対するような全面的な移民禁止を避けるため、日本政府は日本からの移民を自主的に制限。
「外国人土地法」成立(1913年)
カリフォルニア州議会で、帰化不能外国人の土地所有が禁止される。これにより一世は土地所有が事実上禁止に。1910年、同州議会選挙では「排日」を訴えた民主党が躍進していた。
第一次世界大戦(1914-1918年)
ヨーロッパが主戦場となった初の世界大戦。開戦当初は中立の立場を取っていたアメリカも1 9 1 7 年 、連合国側で参戦。
日本人の帰化禁止の確認(1922年)
最高裁(オザワ訴訟)が、日本人は白人の自由市民に当たらないとして、日本人の帰化禁止を合憲とする判決を下す。
1924年「移民法」(1924年)
移民の数を国別に制限。東欧地域からの新移民を著しく制限。また帰化不能 外国人の入国を禁止したことから、事実上、日本からの移民は全面禁止に。
世界恐慌発生(1929年)
株価が大暴落し、失業者が急増。
満洲事変(1931年)
日中戦争開戦(1937年)
第二次世界大戦開戦(1939年)
9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発 。4 0 年には日独伊三国同盟締結。
太平洋戦争開戦(1941年)
12月7日、日本軍が真珠湾を攻撃し(約2400 人の米国軍人・民間人が死亡)、太平洋戦争が開戦。その後数日間にわたり、指導者的立場にいた一世らが大量に逮捕され、敵性外国人収容所に送られた。また、開戦に先立ち、11月には MIS(米国陸軍情報部)の日本語学校が開設された。
「大統領令9066号」発令(1942年)
2月19日、裁判や事情聴取なしに特定地域から民間人を隔離できる権限が軍部 に与えられる。3月以降、西海岸に住む約12万人の日系人、日本人全員に、財産や社会的地位への補償なしに、強制立ち退きが命じられた。彼らは集合センターを経て、戦時転住局が管理する全米10カ所の強制収容所に送られた。ミノル・ヤスイは夜間外出禁止令の合法性を、ゴードン・ヒラバヤシは強制立ち退き命令の合法性を、フレッド・コレマツは強制収容の合法性を争い、裁判を起こした。
忠誠登録(1943年)
収容所内の日系人、日本人に対し、「忠誠登録」が行われた。米国に対して忠誠だと見なされた者は、出所し就労・就学することが可能となった。同年、日系兵士のみで編成された戦闘団が編成され、第二次世界大戦で多大な戦功を上げた。
コレマツ訴訟とエンドウ訴訟(1944年)
12月、フレッド・コレマツの強制立ち退き拒否に対する有罪判決を、最高裁が支持。同日、最高裁は収容所からの釈放を求めるミツエ・エンドウの裁判に関し、忠実な市民を監禁することは許されないとして、日系人の隔離命令を撤回。
第二次世界大戦終戦&冷戦へ(1945年)
8月15日、太平洋戦争が終結。10月から翌年にかけて収容所は閉鎖。収容者たちは再び立ち退きを余儀なくされ、元の土地または新たな土地で生活の立て直しを図った。米国はこの後、資本主義・自由主義陣営の盟主として、ソ連を中心とする共産主義・社会主義陣営と対立することになる。
「日系人立ち退き賠償法」(1948年)
3800万ドルの補償が実施されたが、戦時中に失われた実際の損害の1割にも満たないものだった。

  

日系移民とアメリカの歴史(1951年〜2000年)

移民の市民権獲得が可能に(1952年)
移民国籍法が制定され、移民である一世も市民権が取得できるように。ただし国別の移民数割当制度は残され、移民は制限されたままだった。同年、カリ フォルニア州最高裁が、1913年に成立した外国人土地法に違憲判決。
アフリカ系アメリカ人公民権運動(1950s-60s)
人種分離法によって差別を受けていた黒人をはじめとする有色人種が、法の下の平等を求めて運動を展開。
ベトナム戦争(1955-1975年)
6万人以上の死者・行方不明者を出した後、米軍は1973年に完全撤退。
「公民権法」制定(1964年)
7月2日、公民権法が制定され、人種、宗教、性、出身国による差別が禁止された。
「移民法」改正(1965年)
移民数の国別割当制度が廃止。日本を含むアジアからの移民が可能となった。
アジア系アメリカ人運動(1960s後半-1970s中頃)
公民権運動やベトナム戦争に触発され、日系、中国系、フィリピン系、韓国系などのアジア系アメリカ人が自らを「アジア系アメリカ人」と呼んで連帯し、人種差別に立ち向かう運動を展開。それと前後して、西海岸の大学で次々とアジア系アメリカ人研究が開始。こうした三世、四世らのアイデンティティーを探る動きが、70年代後半から始まったリドレス(強制収容に対する補償を求める運動)へとつながっていった。
「大統領令9066 号」撤回(1976年)
CWRIC発足(1980年)
強制収容と大統領令9066号の調査のため、「戦時市民転住収容に関する委員会(CWRIC)」発足。81年には全米各地で公聴会が行われ、約750名が証言。
強制収容に関する裁判(1983年)
強制立ち退き政策が進められていた1941、42年頃、政府関係者らが強制立ち退きに軍事的必要性がないことを知りながら、それを隠匿した事実が発見され、第二次世界大戦中のゴードン・ヒラバヤシ、ミノル・ヤスイ、フレッド・コレマツへの有罪判決がくつがえされる。
「1988 年市民の自由法」成立(1988年)
8月10日、レーガン大統領が署名し成立。強制収容に対する連邦議会による公式の謝罪と、元収容者に対する各2万ドルの金銭的賠償が記され、さらに強制収容に関する教育を行うための教育基金が設立された。

 

日系移民とアメリカの歴史(2001年〜)

アメリカ同時多発テロ事件(2001年)
9月11日のアメリカ同時多発テロ後、イスラム系、中東系アメリカ人、移民に対する偏見や差別が深刻化。日系人の強制収容のようにイスラム系を強制収容すべきという発言をする者も現れた。この時のノーマン・ミネタ運輸長官が自らの収容経験をもとにレイシャル・プロファイリングに反対し、阻止するなど、多くの日系人が差別に立ち向かった。
日系人部隊に勲章(2011年)
日系人部隊の第100歩兵大隊、第442連隊戦闘団、MISに米国最高位の勲章である議会名誉黄金勲章が授与された。
強制収容伝承のための助成金 (2015年)
国立公園局は、強制収容の歴史を伝承するため、強制収容所管理団体や大学等へ助成金300万ドル弱の支給を決定。

(2016年8月1日号掲載)

「日系アメリカ人の歴史」のコンテンツ