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現地情報誌「ライトハウス」が過去に取り上げた、アメリカ芸能界ゴシップ情報や、著名人・有名人へのインタビュー記事など。

ライトハウス編集部
ライトハウス編集部

小林三郎・エアバッグ開発までの死闘-その2

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一橋大学院・客員教授の小林三郎さんを迎えて、講演会を開催します。
それに先立ち、小林さんがホンダに入社してから、エアバッグ開発までの道のりを6回シリーズで連載します。

ライトハウス20周年記念イベント第13弾
「ホンダ・スピリッツと
エアバッグ商品化の秘話を語る」
小林三郎さんセミナー開催
9月3日(木)
5:30pm開場 6:30pm開演

場所:ライトハウス・セミナー会場
2958 Columbia St., Torrance, CA 90503
セミナーは終了いたしました>>


(その2)
「逆風の中でのエアバッグ開発」


猫またぎの六研

1970 年代は世界的に交通安全が注目を浴びてきた時代で、アメリカを中心に事故死亡者を減らす目的でESV(実験安全車)計画が実施され、ホンダもこれに参画して小型車の安全研究に着手した。しかし日本ではまだ安全の価値観が生まれてない時代で、車のユーザも「自分だけは事故を起こさない」と、シートベルトを締める人も少なかった。

商品開発はお客様の要望に応えていくのが優先されるので、当然、安全技術は将来のために研究はしておくが、すぐには必要性の低いもの。経営トップを別にすると、会社のほとんどの人間が興味すら持っていなかった。「安全研究室・六研、何やってんの?」などと聞かれることもたびたびあり、□の悪い連中は、猫もまたいで通る味の悪い魚になぞらえて、“ 猫またぎの六研” と呼んだ。日陰に居ても仕事はコツコツやるべきと考えていたが、やはり日向の人を見ると羨ましくて、早く成果を出して社内で認知されたいといつも思っていた。


精神的に95%の努力はチームの元気付け

今でこそエアバッグが当たり前の技術になったが、70〜 80 年代には、誰もその実現性を信じていなかった。私自身も「車がぶつかると、ハンドルの中央から袋が膨らんで人間を助けるシステム」と聞いて、その滑稽さに思わず笑ってしまった。マネージャーから私がエアバッグチームに入ると聞いた時は、目の前が真っ暗になった。70 年代中頃は、米国のエアバッグ法規も採用、撤回と二転三転し、BIG 3もトヨタ・日産もエアバッグ研究開発を中止し、やっているのはベンツとホンダだけになった。エアバッグそのものに研究所のほとんどの人が反対していることに加え、技術ターゲットが難しすぎて、何をやってもなかなか成果が出てこない状況が続き、チームは私自身を含め、元気がなかった。

2代目のLPL(プロジェクトリーダー)だったTさんは、エアバッグはものにならないと直感的に思っておられたようで、チーム全員の前で「俺の目の黒いうちは、このようなリスクを持つものは商品化しない」と正直に言ってしまい、その時の全員の悲しそうな顔は見るに耐えなかった。私が中間のまとめ役だったので、私自身が弱気になってはいけないと思い、努めて明るく振る舞い、なるべく大きな声で話すようにした。

 “ 人の命を救うこと” は大切なことではあるが高尚すぎて思い入れにはならず、本に『前向きで具体的な夢を語ると良い』と書いてあったので、さっそく「今にCIVICの半分にエアバッグをつけるぞ!」と自分自身に言い聞かせ、何となくその気になってチームの皆に言ったら呆れ顔をされた。諦めずに何回も言うと、「また冗談ばかり・・・」。しかし、何となく皆の顔が明るくなったのを見逃さなかった。自分自身も含め、チームの元気づけが私の最大の仕事で、精神的には95%くらいを占めていた。


プロジェクトリーダー就任と自律

82年末に、それまで12 名でやってきたチームが4名に減らされ、その後を任された形で3代目のLPL に就任した。元気の出にくい状況だったが、チームは私を含めエアバッグを仕上げようと残った4人なので、彼らのためにも成果を出さなくてはと、リーダーとしての責任を感じた。

ある日、研究担当役員のSさんからエアバッグの展開計画を説明してほしいと連絡があり、資料を抱えて出かけて行った。説明し始めてまもなく、Sさんが全然開いていないのに気づいた。そして突然、「これ止めよう。ものになりそうもないし、あなたには他にやってもらいたいこともあるから・・・」と言われ、顔から血の気が引いた。今止めたらこれまでの苦労が水の泡になる。
(次号へ続く)

ライトハウス2009年6月16日号


連載その3 「高信頼性確保に向けての戦いを読む」>>