近澤泰良さん/カスタム・ハーレービルダー

みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの?
現状に満足しないで、ジャンジャン行かなあかんね。

バイク好きが高じて渡米。自作のバイクに乗って全米各地のショーを回るうち、その独特のデザインが評価され始める。2003年、日間でバイクを組み立てる競技番組に登場してから一躍有名に。そのデザインはバイク業界や愛好家から、また全米のバイクショーで脚光を浴びている。「最高作はない」と言い切るミスター・チカのデザインは進化し続け、留まるところを知らない。

【近澤泰良さんのプロフィール】

ちかざわ・やすよし◎1966年大阪生まれ。高校卒業後、ホンダ自動車整備学校でメカニックを学ぶ。ホンダのディーラー、ハーレーのカスタムショップで整備の経験を積んだ後、27歳で独立。1995年に渡米し、自宅でハーレーのカスタムメイドの仕事をスタート。テレビや雑誌に取り上げられ、バイク愛好家の間で一躍注目される存在に。2005年は全米110カ所のバイクショーに参加、多忙な毎日を送っている。www.chicacustomcycles.com

 

がむしゃらに働いてはバイクの借金返済の日々

日本の伝統美をも取り入れた近澤さんのカスタムスタイルは、アメリカはもとより、近年ヨーロッパでも人気が高まってきている

高校時代はサッカーをやっていて、将来、有名選手になりたいと思っていました。その頃、ちょうどJリーグのはしりで、Jリーグに入ったチームメイトもいたけど、僕は誰も誘ってくれへんかったんです(笑)。それで、小学校時代のスーパーカーブームから乗り物への興味がずっとあったんで、ホンダの整備専門学校に入りました。
 
学校からは、4回くらい「辞めろ」って言われた。あんまり勉強しなかったんですね。授業の中でも、「こんなんやってどうするねん」っていうのは、一切勉強しなかった。好きなことには没頭するけど、その他は一切興味なし。そして、卒業してからディーラーの整備士になりました。
 
整備学校の時からバイクはずっと乗っていました。400㏄から始まり、ガラクタを片っ端から買って、いじって動くようにする。家でもやっていましたし、工場でもこっそり夜中に残って、自分の物を持ち込んでやってましたね。
 
バイクは多い時で8台持っていました。それを全部売ってハーレーを買った。残業してなんとか給料を13万円もらって、バイクのローンが12万円とか、そんな感じだったの。バイク買い過ぎて借金いっぱいあったから、滋賀のディーラーで5年頑張りました。売り上げでは全国の拠点の中で3カ月連続日本一になったし、サービスマンのコンテストでも優勝した。
 
ツーリングも好きで、いろんなところを旅したね。日本国内は下道で行けるところは全部。北海道が好きで、有休を取って何度も行ってた。だから嫌われてましたよ、会社では。ある時、会社で支給された工具が嫌で、自分の工具でやってたら、それを上司に咎められました。それから、「(ホンダのメカニックが)なんでハーレーに乗っているんだ」とも言われて。僕も負けず嫌いだから、支店の売り上げを全国で1番にして辞めてやったんです。

 

アメリカでの最初の営業は自分が作ったバイクに乗って

「最初はバイクと寝袋持ってあちこち回りました」という近澤さんは、ハーレー好きの中では『Chica』で知られるカリスマ的存在だ

それから京都のハーレーショップで働きました。1990年頃、ハーレーは部品だけで2万、3万したので、ハーレーショップに行ったら安く買えるだろうっていう安易な考えでした。ショップは社長と工場長と僕だけ。当時、京都にはカスタムショップが1軒しかなかったから、忙しかったですね。3年頑張ったけど、4回腰を悪くしたんです。3回目で立てなくなって入院して。お客さんが「店はもう辞めろ。自分でショップを持て」って入院している間に段取りしてくれて、退院したら工場があったって感じだった。27の時です。店は開けて半年くらいでお客さんも増え出して。借りたお金、スポーンと返せました。そのかわり、24時間営業とは言わないけど、20時間営業くらいやってたかな。
 
その2年後に、アメリカで作ったバイクを日本に輸出する人から「バイクを作らへん?」って誘われて、「行くに決まってるがな」って。で、行ったのはサウスエルモンテ。工場がすべて鉄格子に囲まれていて、そこには4カ月しかいなかった。僕の思い描いたアメリカはパームツリーのビーチだったんですよ。「このままいたら死んでしまうわ」って、辞めて再び独立。トーランスに家を借りて、ひっそり始めたの。
 
こちらに来る時、日本から1番初めに買って改造したバイクを持ってきてたんですよ。英語はしゃべれなかったけど、バイクのショーやスワップミートでバイクを見せているうち、「これ、お前が作ったのか?」って話しかけてくる。そのうちバイクのメーカーやパーツ屋さんから「写真を使わせてくれ」と頼まれるようになって。で、1999年頃、アメリカの企業から「来年のモデルを作ってくれ」とか「カタログの表紙のバイクを作ってくれ」っていうオファーが来るようになった。

 

見たことのない物を作ってやろう

雑誌にどんどん出るようになって、今度はテレビから声がかかった。ディスカバリーチャンネルの『グレート・バイカー・ビルド・オフ』っていう番組では、9日間で1台のバイクを作ったんですよ。ユニコーンのイメージで。アメリカ人と飲んでいる時にユニコーンの話を聞いて、ピーンと来て、「ユニコーンは、みんな形は知っているけど、見たことがない。これや」って。今までにないスタイル、あり得ないスタイルってことで一気に取り上げられ、その番組は何度も放映されました。
 
そこから、注文が一気に増えました。バイクショーの招待もどんどん来るようになった。ハワイのバイクショーに招待された時、日系人たちが神様のように扱ってくれたんです。「有色人種の日本人が、バイク雑誌に出ることは、すごくうれしい」って。白人以外のカスタムビルダーは、それまでバイク雑誌に出たことがなかったんですよ。
 
カスタムメイドは僕が全部、一からやります。スーツと一緒で袖が長かったらダサイし、丈が長くてもダサイし、ピチピチ過ぎでもダサイ。だから、全部お客さんのイメージとスタイルに合わせます。好みからライフスタイルまで全部聞く。僕の色に染めてもしょうがないからね。僕のスタイルが好きだっていうお客さんがまず来て、そこからその人に合わせて作る。

 

想い出のバイクなんてない。常に進化しているから

僕は日本人だから、日本人タッチとアメリカ人タッチとミックスしてる。他の人には絶対にできないトータルバランスを考えてますね。日本人タッチには日本の伝統文化も入っている。バイクを作り出してから、仏像さんとか建物とか、神様のキャラクターとかに興味を持つようになった。昔はこれ、どうやって作ったんだろうって。今は、機械でプログラムしてサッと終わるけど、昔はどんな機械があったかとか、昔の人はどうやって溶接してたかとか。
 
昔の人ってすごいよね。例えばワイパー。ゴムの材質が良くなるとか多少は進化しましたけど、雨が降ったらワイパーしかない。最初からあのデザインで、何も変わっていない。変わらないもの、デザイン的にも誰が見てもホッとするもの。僕はそういうのが好きで、取り入れています。
 
仕事で口癖にしているのは、「better than nothing」「better than before」。ショーの時にお金をつっこんで、100ドルとか200ドルしか儲からなかったとしても、まあ、「何もないよりはいいやん」っていうこと。それとバイク作る時は、絶対いつもチャレンジ。昔作ったバイクは嫌なところを知ってるから、写真に撮られたくない。これまで作った中で想い出のバイクとかは基本的にないんですよ。常に進化してるから。
 
僕は負けず嫌いだからね。「くそー、絶対に負けたくない」という相手が常にいる。自分を信じるなら、とことん信じてほしい。僕はもともと体育会系なんで、ここアメリカは全国大会だと思ってる。世界中から「自分こそは」って思ってるヤツがたくさん集まって来てる。
 
「アメリカは自由だから、どうにかうまいこといくんやないか」って思ってるんだったら、止めた方がいい。自分で一旗揚げようと思うなら、みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの?現状には満足はしない方がいいよね。ジャンジャン行かなあかんね。ビジネスで成功しているアメリカ人なんか、みんなそうやからね。
 
(2006年1月1日号掲載)

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