ロサンゼルスの歴史

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過去を知れば、未来が見えてくる。私たちが暮らすロサンゼルスの歴史を辿ってみました。

※このページは2023年1月時点の情報で更新しています。

1.アメリカ領になる前のロサンゼルス(BC8000-1848)

La Brea Tar Pits and Museum

La Brea Tar Pits and Museum
今も湧き出し続けているアスファルトの池(タールピット)と、そこで見つかった化石などを展示する博物館。このタールピットから、約1万~9000年前に 死亡したと見られる女性の骨も見つかっています。
5801 Wilshire Blvd., Los Angeles|www.tarpits.org|毎日 9:30am-5:00pm|$15(大人)、$12(学生&シニア) 、$7(3~12歳)

あまり長い歴史がないように思われるロサンゼルスですが、ここに人類が暮らし始めたのは、有史以前、なんと約1万年前に遡ります。最初の住民は、ネイティブアメリカンのチュマッシュ族で、一説によると紀元前8000年頃から、ロサンゼルス盆地の海岸沿いに定住を開始。続いて、トングヴァ族、タタヴィアム族など複数部族が、現在のロサンゼルスやオレンジ・カウンティー各地に村を形成しました。
 
それを一変させたのは、コロンブスによる新大陸発見(1492年)とスペインによる南北米国大陸の植民地化の後、スペインのカリフォルニア統治政策の下に行われたカトリックの布教でした。1769年、サンディエゴとモントレーから始まった伝道所建設がサンゲーブリエルでも行われ、1771年、カリフォルニア4番目の伝道所となるMission San Gabriel Arcangel(現在のSan Gabriel Mission)が完成します。この頃から各地の伝道所を中心に、スペインがカリフォルニアを支配する時代が始まるのです。伝道所では、カトリックに改宗させられたネイティブアメリカンが農業やワイン造りなどさまざまな労働に従事させられました。

Wishtoyo's Chumash Village

Wishtoyo’s Chumash Village
かつてチュマッシュ族が住んでいたエリアに、家一つだけではなく、村をひとつまるごと再現。見学は予約制のツアーのみ。
33904 Pacific Coast Hwy., Malibu|www.wishtoyo.org|要予約
© The City Project

1781年には、スペイン系、アフリカ系、ネイティブアメリカンなど11家族44人が、カリフォルニアと同じくスペイン植民地であったメキシコから、現在のダウンタウン・ロサンゼルスに入植し、「El Pueblo de Nuestra Senora la Reina de Los Angeles de Porciuncula(天使の女王の町)」を形成。「ロサンゼルス」という街の名はここに由来するのです。
 
1810年にメキシコがスペインに対して独立戦争を開始し、21年に独立。カリフォルニアはメキシコの統治下に入ります。33年にはスペインによるカリフォルニア支配の拠点であった伝道所の大半が閉鎖され、伝道所所有の広大な土地はメキシコ人に払い下げられて、牧場(ランチョ)がロサンゼルス一帯に形成されました。

San Gabriel Mission

San Gabriel Mission(一時閉鎖中)
1771年に、スペインからの宣教師によりサンゲーブリエルに建てられた、カリフォルニア内4つめの伝道所。
428 S. Mission Dr., San Gabriel|www.sangabrielmissionchurch.org
月~土9:00am-4:30pm、日10:00am-4:00pm |$6(一般)、$5(62歳以上)、$3(6~17歳)
※2023年1月現在、一時閉鎖中(2023年春再開予定)
© Courtesy of The Huntington Library, Art Collections, and Botanical Gardens. Photo Archives

次なる変化は1845年に始まりました。カリフォルニアに港を持ちたいと考えたアメリカは、メキシコにカリフォルニアの購入を持ちかけたものの、交渉は空中分解。そして翌46年にテキサスの領土問題に端を発してアメリカ・メキシコ戦争が始まると、アメリカ軍はロサンゼルスをはじめとするカリフォルニア各地を占拠。47年にロサンゼルス近郊は実質的にアメリカの支配下に入ります。翌48年、アメリカ・メキシコ戦争が終結し、カリフォルニアとテキサスがメキシコから割譲され、ロサンゼルスは正式にアメリカの一部となったのです。

LAカウンティ―の人口(1781~1850)

(出典:U.S.Census Bureau)

2.ロサンゼルスにおけるゴールドラッシュと産業成長(1848-1899)

Courtesy of The Huntington Library, Art Collections, and Botanical Gardens. Photo Archives

Courtesy of The Huntington Library, Art Collections, and Botanical Gardens. Photo Archives
ゴールドラッシュ期の典型的な金採掘者の写真。とりわけ1849年に金採掘者らがカリフォルニアに殺到したことから、こうした採掘者らは「フォーティナイナー(49er)」 と呼ばれていました。

カリフォルニアがアメリカに併合された1848年、サクラメント近くで金が発見されます。東海岸や国外にも大々的に金発見のニュースが報道されると、ゴールドラッシュが起き、移住者が急増。北カリフォルニアに先駆けて金が発見されたロサンゼルス近郊にも多くの人々が押し寄せ、より多くの食料が必要となると、食肉の需要が一気に高まり、畜産業が盛んになります。一方でこの急増した移住者らによって先住民のネイティブアメリカンは搾取、追放、殺害されるなどの憂き目にあいました。疫病の流行ともあいまって、ゴールドラッシュ後にはその人口は約10分の1まで減少したと言います。
 
1865年には南北戦争が終結。奴隷制を認めない自由州であったカリフォルニアには戦中から、南部のアフリカ系アメリカ人が逃亡し移住していましたが、南北戦争が終わるとさらにその数は増加し、ロサンゼルス・カウンティー内だけで60年の87人から、70年には134人になったとCensusに記録されています。この南北戦争終結の1865年は、サンフランシスコとサンディエゴを結ぶ鉄道を敷設するためサザンパシフィック鉄道が設立された年。60年代には大陸横断鉄道も建設され、その工事には黒人奴隷に代わる安価な労働力として、ゴールドラッシュと共にカリフォルニアに押し寄せていた中国移民が従事しました。60年には、ロサンゼルス・カウンティー内の中国系はたった11人が記録されているだけですが、70年には234人へと飛躍的に伸びています。

Photo by Strohmeyer & Wyman, Courtesy of The Huntington Library, Art Collections, and Botanical Gardens. Photo Archives

Photo by Strohmeyer & Wyman, Courtesy of The Huntington Library, Art Collections, and Botanical Gardens. Photo Archives
リバーサイドのオレンジ園でのネーブルオレンジ収穫風景。1898年に撮影。

こうしたゴールドラッシュから始まった人口の急激な増加は、数多くの失業者をも生み出すことになりました。カリフォルニアにやってきた金採掘者のうち成功した者は一握りだけ。南北戦争後には人口増加や景気停滞を受けて失業率がさらに高まり、その中で安価な賃金で労働を請け負う中国系移民に対する反感が蔓延します。そして、1871年、中国人男性が白人を殺害したことをきっかけに、500人近くがロサンゼルスのチャイナタウンになだれ込んで暴行を働き、17~20人の中国人を殺害する中国人大虐殺が発生。中国系に対するこうした反感、差別はやがて中国からの移民を禁止する「1882年中国人排斥法」へとつながってしまうのです。
 
一方でこの時代、ロサンゼルスでは以後の発展に欠かせない新たな産業が生まれていました。ゴールドラッシュに伴って押し寄せた採掘者のビタミン源として1840年代からオレンジ栽培がカリフォルニア全域で盛んになっていましたが、1873年にブラジルから、種がなく、他のオレンジよりも甘く、カリフォルニアの気候と土壌で良く育つネーブルオレンジの木がリバーサイドに持ち込まれると、柑橘農業は急成長。カリフォルニア州内の柑橘系樹木は75年の9万本から、85年には200万本、1901年には450万本になりました。収穫されたオレンジは大陸横断鉄道により東海岸にも輸送され、柑橘農業はカリフォルニア州の主要産業となっていくのです。現在でもカリフォルニア州は、フロリダ州に次いで全米2位の生産量を記録しています。

California Citrus State Historic Park

California Citrus State Historic Park
カリフォルニアを代表する産業、柑橘類栽培の歴史を体感できる公園。無料のガイドツアーでは柑橘園から実際にフルーツをもいで食べられます。
9400 Dufferin Ave., Riverside|www.parks.ca.gov|10~3月:毎日8:00am-5:00pm、4~9月:月~金 8:00am-5:00pm、土日8:00am-7:00pm(ツアーは金土日10:30am、12:00pm、2:00pm)無料

1870年代末からそれ以前の畜産業に代わって、こうした柑橘類をはじめ野菜、穀物などの農業が、ロサンゼルスの主要産業となりました。人口が増え、学校や新聞社などもでき、少しずつ都市として発展をしていたとは言え、当時のロサンゼルスはいまだのどかな田園地帯だったのです。
 
もう一つ、ロサンゼルスの重要な産業である石油産業は、1890年、ダウンタウンLAの南にロサンゼルス市油田が発見されたことから始まりました。以後、ロサンゼルス、オレンジ・カウンティー各地で油田の発見が相次ぎ、一大産業に成長。1929年の石油価格の暴落と30年代の大恐慌とテキサスでの油田の発見まで、南カリフォルニアはアメリカの石油消費の大部分を支え続けたのです。

Travel Town Museum

Travel Town Museum
グリフィスパークにある鉄道博物館。19世紀、20世紀に活躍した鉄道車両が展示されているほか、ミニチュア車両乗車体験(一般$2.75、65歳以上 $2.25)も実施。
5200 Zoo Dr., Los Angeles|www.traveltown.org|月〜金 10:00am-5:00pm|無料

ロサンゼルスが大都市になった背景には、こうした農業、石油産業の発展と同時に、1880年代に開通したロサンゼルスと東部、中西部を結ぶ鉄道もありました。同じ頃、東海岸では食糧難のヨーロッパからの移民が急増しており、86年に中西部とロサンゼルス間の1ドルの乗車券が発売されると、ロサンゼルスへも移住者が爆発的に増加します。また、東部からの移民に加えて、80年代から日系移民の数も少しずつ増えていきました。ロサンゼルス・カウンティーの総人口は、1890年には、その10年前の3万3381人から、約3倍の10万1454人を記録したのです。

3.ハリウッドの誕生、インフラ整備(1900-1940)

Courtesy of The Huntington Library, Art Collections, and Botanical Gardens. Photo Archives

Courtesy of The Huntington Library, Art Collections, and Botanical Gardens. Photo Archives
ハリウッドサインとハリウッドヒルズの風景。1940年代撮影。当時、「H」の文字が壊れており、写真の上にHが描き足されています。

急激な人口増加と不動産ブームに湧くロサンゼルスでは、各地で不動産開発が行われ、水道や公共交通網などインフラ整備が急務となっていました。とりわけ水道に関しては、それまではロサンゼルス川を水源としていたものの、人口増加や農業の発展、干ばつの影響で新たな水源を要し、ロサンゼルスの北東にあるオウエンズ谷から取水し、ロサンゼルスへと運ぶ導水路(オウエンズ谷上水路)の建設が1905年から始まりました。これは13年に完成しましたが、人口と水需要の増加は留まるところを知らず、1930年から40年にかけて、オウエンズ渓谷よりさらに北、モノ湖まで導水路延長工事を実施。大都市ロサンゼルスの発展の陰で、過剰な採水によって、オウエンズ谷とモノ湖の生態系、農業は壊滅的な打撃を受けることになりました。
 
また1920年代には、1897年にロサンゼルスに初登場した自動車の販売価格が下がり、購買数が増加。交通渋滞が社会問題となりました。それを受けて、1930年代にはロサンゼルス全土にフリーウェイシステムの建設が計画され、35年にRamona Boulevard Freeway(現在のフリーウェイ10号線)、40年にロサンゼルス=パサデナ間にArroyo Seco Parkwayが完成。人口増加と自動車の普及と共に、ロサンゼルスの街はトーランスやロングビーチ、バーバンクなど郊外へと広がっていきました。自家用車増加と反比例するようにして、1874年に導入されたロサンゼルス域内を結ぶ路面電車の利用者数は1910~20年頃に大幅に減少し、やがて62年に運行を停止してしまうことになります。

Hollywood Museum

Hollywood Museum
ハリウッド映画やテレビで使 われた衣装や大道具小道具、 ポスターなどが山ほど展示された、ハリウッドの歴史がそっくり残されたミュージアム。
1660 N. Highland Ave., Hollywood |http://thehollywoodmuseum.com|水~日 10:00am-5:00pm、 月火休|$15(一般)、 $12(シニア&学生)、 $5(5歳以下)

雨が少ないロサンゼルスは水不足問題を抱える一方で、多量の光が必要な映画撮影にはうってつけの地。映画発明者、トーマス・エジソンの特許使用の厳格な規則を逃れる狙いもあって、1900年代、東海岸から数多くの映画製作者がロサンゼルスへと移住。11年にはハリウッド初の映画製作会社が設立されます。15年、D・W・グリフィスの映画『The Birth of a Nation』が成功を収め、ハリウッドは東海岸をしのぐ映画の都に。20年には世界中で製作された映画の約80%がカリフォルニアで製作されるまでになり、30年までにはほぼ全ての映画製作会社が西海岸へとその拠点を移します。こうして映画はロサンゼルスの最も重要な産業の一つへと成長を遂げるのです。

~第一次世界大戦~

Peterson Automobile Museum

Peterson Automobile Museum
2015年にリニューアルオープン。自動車産業黎 明期のビンテージカーやスポーツカーなど多様な車が並ぶほか、かつてのダイナーやガソリンスタンドなど南カリフォルニアの車文化をそっくり再現した等身大のジオラマもあります。
6060 Wilshire Blvd., Los Angeles|www.petersen.org|毎日 10:00am-5:00pm|$19.95(大人)、$17.95(62歳以上)、$12.95(12-17歳)、$10.95(4-11歳)、無料(3歳以下)

20世紀前半は二つの世界大戦が、世界を席巻した時代でもあります。1914~18年にヨーロッパで起きた第一次世界大戦(アメリカは17年に参戦)では、アメリカが戦場になったわけではありませんが、政治的、経済的、心情的に少なからぬ影響がありました。中でもカリフォルニア・ロサンゼルスは、ヨーロッパの連合国に輸出する農作物、石油の産地として好景気を謳歌します。大戦後は、疲弊し切ったヨーロッパ諸国に代わり、アメリカは世界随一の大国に躍進。国民の生活は向上し、自動車や映画、プロ野球などが一般に広く普及します。
 
しかし一方で、戦争景気の中で拡大した農業は、急激な増産体制による負債と大戦の終焉による需要の減少により、30年代の世界恐慌より一足早く景気後退期に入りました。南部や中西部、北・中央カリフォルニアの農村地帯から、アフリカ系やアジア系、東欧移民などが、仕事を求めてロサンゼルス都市圏へと流入。カリフォルニア・ロサンゼルス5郡(ロサンゼルス、オレンジ、リバーサイド、ベンチュラ、サンバナディーノの5カウンティー)の人口は、大戦後の1920年に約115万人であったのが、10年後の30年には約260万人と倍以上に増加します。都市圏の規模としても、全米第11位から5位の規模へと成長するのです。

Los Angeles Maritime Museum

Los Angeles Maritime Museum
サンペドロにある海事博物館。ロサンゼルスの港の歴史を学べる博物館自体が、かつて使われていた埠頭を改造したもので趣きたっぷり。館内には各国の船舶の模型や、中には実物の船舶も展示されています。
84 E. 6th St., San Pedro|www.lamaritimemuseum.org|水~日 12:00pm-5:00pm、月火休|寄付(大人$5、シニア$3推奨)

1929年、暗黒の金曜日の株価大暴落をきっかけに、アメリカをはじめとする世界各国は世界恐慌へと突入。無論、ロサンゼルスも不況とは無縁ではありませんでした。主要生産物の農作物も石油も価格が大暴落。カリフォルニア州の農家の収入は32年には29年の約半分にまで落ち込み、カリフォルニア州の失業率は28%に達したのです。こうした経済不況を背景に、移民が仕事を奪っているとして、マジョリティーであったWASP(アングロサクソン系でプロテスタントの白人)と、東欧系、アジア系、メキシコ系移民、アフリカ系との摩擦が悪化します。
 
この未曾有の不況の中でも、ロサンゼルスでは世界恐慌以前から計画、建築が進んでいたプロジェクトがいくつも完成を迎えました。30年開港のロサンゼルス国際空港、35年完成のグリフィス天文台、39年完成のユニオンステーション…そして何より大きな出来事は、32年のロサンゼルス・オリンピックでした。世界恐慌により経済が停滞する中、開催返上の声も上がりましたが、ロサンゼルスは新たなコロシアムとオリンピック史上初となるオリンピック村を用意して第10回夏季オリンピックを開催。参加国は前回大会から2割減となったものの、37カ国から1332人の選手が参加しました。

4.第二次世界大戦とロサンゼルス(1941-1945)

Museum of Flying

Museum of Flying
サンタモニカ空港の南端にある航空博物館。博物館創立者であるDouglas Aircraft Companyの飛行機をはじめ、ライト兄弟の飛行機のレプリカなどさまざまな飛行機や、航空史に関する展示が行われています。
3100 Airport Ave., Santa Monica|www.museumofflying.org|木~日10:00am-4:00pm、月~木休|$10(大人)、$8(シニア&学生)、 $6(3~12歳)、無料(2歳以下)

農業、石油産業、映画産業に加えて、航空宇宙産業もロサンゼルスを語る上で欠かせないものの一つ。アメリカの大手航空宇宙機器メーカー25社のうち15社がロサンゼルスに拠点を構えていた冷戦時ほどの隆盛ではありませんが、今もロサンゼルスにはBoeingやNorthrop Grumman、Raytheon Space & Airborneなど名だたる大メーカーに加えて、NASAジェット推進研究所やLos Angeles Air Force Base、そしてSpaceXがあり、アメリカ全体の航空宇宙産業の雇用のうち、約10%をロサンゼルス・カウンティーが担っています。
 
ロサンゼルスにおける航空宇宙産業の歴史は1910年、カーソンのドミンゲス・フィールドで開かれたアメリカ初の航空ショーから始まりました。テスト飛行および製造に適した年中温暖な気候、高等教育を受けた労働者と大学・研究機関の潤沢さ、比較的安価で広大な土地などを背景に、10年代から続々と航空機メーカーが設立され、28年までには20社以上に増加。急成長した航空宇宙産業はロサンゼルスの経済に貢献したばかりではなく、高い技術力を要する高賃金の仕事を多数生み出したことから、暮らしの質の向上を求める消費者も生み出し、エンターテインメント産業やサービス産業、教育産業の発展にも寄与することにもなりました。

Lyon Air Museum

Lyon Air Museum
第二次世界大戦中の軍用機や旅客機を中心に、飛行機のみならず、レアな車などを収集・展示。アメリカの航空史の変遷が浮かび上がります。John Wayne Airportの西側に位置。
19300 Ike Jones Rd., Santa Ana|www.lyonairmuseum.org|毎日 10:00am-4:00pm|$13(大人)、$10(シニア)、$6(5~17歳)、無料(5歳以下)

1941年、日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まると、ロサンゼルスを含む南カリフォルニアはアメリカの軍用機の一大製造拠点となり、二次大戦中には約1万機以上を製造。大戦後も、朝鮮戦争(50~53年)、ベトナム戦争(55~75年)と需要は高く、ソ連との苛烈な宇宙開発競争を展開した冷戦(47~91年)中には、さらに飛躍的な発展を遂げました。しかし冷戦が終わると、防衛予算は激減。90年代に、多くの航空機メーカーは統合、閉鎖の運命を辿ります。ロサンゼルスで最多の雇用を生み出していた航空宇宙産業は、その座をエンターテインメント産業に明け渡すことになるのです。
 
第二次世界大戦中の南カリフォルニアは、太平洋を挟んで敵国日本とにらみ合う重要な軍事拠点として、多数の米軍兵士らが訓練を受け、駐留する都市となります。また軍用品生産、ロジスティクスの要として数多くの雇用を生み出し、戦争特需にロサンゼルスの経済は活況を呈します。好景気を享受するロサンゼルスには、全米各地から仕事を求めて移住する人が後を絶ちませんでした。特にアフリカ系アメリカ人の流入が多く、ロサンゼルス・カウンティー内だけで40年の7万5209人から、50年には21万7881人と飛躍的に増加します。
 
一方で日系人・日本人らは、開戦の翌年に西海岸からの強制立ち退きを命じられ、全米各地の強制収容所に抑留されます。収容者の数は約12万人にも上りました。日本人がいなくなったリトルトーキョーには、仕事を求めて移住してきたアフリカ系アメリカ人が代わって暮らし、リトルトーキョーは戦中、「ブロンズヴィル」と呼ばれる黒人街に変貌したのです。

5.公害と人種差別(1945-1969)

A

The African American Firefighter Museum
1955年まで差別により白人とは別個の消防署を持つほかなかったアフリカ系。24~55年にアフリカ系消防署として使われていた建物が博物館になっています。
1401 S. Central Ave., Los Angeles|www.aaffmuseum.org|日1:00pm-4:00pm|無料

1945年、第二次世界大戦が終結。大戦中の移住者に加えて、カリフォルニア・ロサンゼルスで退役を迎えた軍人の多くが終戦後もロサンゼルスに留まり、かつ46年頃からベビーブームが発生して、人口はさらに増加。住宅、水道・電気、交通網、教育への需要がいよいよ高まりました。新たな住宅地を求めて、郊外へと不動産開発が進む動きは50年代に爆発的に加速し、60年代初頭までその勢いは続きます。しかしながら、こうした都市の繁栄と共にさまざまな問題も顕在化することになります。
 
問題の一つは、自家用車普及と工業の発展によって発生した大気汚染でした。40年代から大気汚染が深刻化し、終戦直後から州でも市でも調査機関を設置するなどして対応に乗り出します。47年にはロサンゼルス・カウンティーで初めて、有害物質を含む煙や廃棄物などを垂れ流していた工場や製油所への規制が成立。家庭のゴミ焼却炉にも規制が布かれました。
 
一定の効果を上げたものの、50~60年代に大気汚染はますます悪化。カリフォルニア工科大学の研究機関は、原因の一つは自動車にあると発表しますが、自動車業界は反発し消費者も半信半疑のままでした。63年、最初の「Clean Air Act」が連邦議会で制定され、大気汚染が国全体の問題として認識された後、69年に司法省が自動車メーカーを相手どって訴訟を開始します。ようやく70年に、アメリカの大気汚染規制の骨格となる「Clean Air Act of 1970」が成立し、75年、連邦政府によって、全ての新車に排気ガス中の有害成分を低減する触媒コンバーターの設置が義務付けられるのです。環境意識が高いと言われるカリフォルニア州ですが、その背景は、より良い環境を求める贅沢さというよりも、最も大気汚染(光化学オゾン汚染)が進む州としての切迫した意識があるのです。

S. S. Lane Victory

S. S. Lane Victory
現在博物館となっている貨物船S.S. Lane Victoryは第二次世界大戦、朝鮮戦争、 ベトナム戦争で使われたもの。この時代のアメリカの戦争を雄弁に物語る博物館です。
3600 Miner St., San Pedro|www.lanevictory.org|水土日10:00am-4:00pm|$15(大人)、$10(シニア)、$5(5~12歳)、無料(4歳以下)

もう一つ、この時代に顕在化した大きな問題は人種差別でした。人種差別はアフリカ系、メキシコ系、中国系、日系の移民が増加しはじめた19世紀からすでに存在していた問題であり、中国系に対しては1882年の移民の禁止、日系に対しては第二次世界大戦中の強制収容、メキシコ系に対しては1930年代の世界恐慌中に、カリフォルニア・ロサンゼルスだけで数千人にもおよぶ強制送還などという形で現れていました。また、アフリカ系、メキシコ系に対しては、人種を理由にした土地や物品の販売の拒否や就職上、教育上の差別が行われており、彼らは特定の地域のみにしか住むことができなかったのです(なお日本人に対しては、1913年成立の州の外国人土地法により52年まで土地の購入が禁じられていました)。そうした差別は、64年に公民権法ができ、法の上での差別が禁止されてもなお根強く続いていました。そのため、アフリカ系住民の大半は、当時居住が許されるごく一部のエリアであったサウスセントラルとワッツに集まって暮らしていました。
 
ロサンゼルス・カウンティーのアフリカ系の人口が1940年の約7万5000人から、50年には約22万人へ、60年には約46万人へと増えるにつれて、こうしたエリアはスラム化し、以前からの住人である白人との暴力沙汰が多発。差別と貧困にさらされ続けていたアフリカ系の間の我慢の糸が切れたのが1965年のワッツ暴動でした。8月、白人のハイウェイパトロールがアフリカ系家族を逮捕したことから暴動が発生し、群衆が警察官を暴行したほか市街地を略奪。6日後に鎮圧された時には、34人の死者と1000人以上の負傷者、4000人以上の逮捕者が出る惨事となったのです。この時期には、同じように貧困にあえいでいたアフリカ系の住民が、全米各地で同様の暴動を起こしました。
 
ワッツ暴動と同じ65年、アメリカはベトナム戦争に本格的に介入し、北爆を実施。このベトナム戦争は、初めて黒人と白人の兵士を差別せずに隊を組んだ戦争となりました。このベトナム戦争に反対する運動は公民権運動とも結びついて、広い意味での反人種差別、公民権の意識を広げました。しかし同時にアフリカ系に対する差別から目をそらすことともなり、その後も、程度の差はあれ、現在に至るまでアフリカ系に対する差別が残っていくことになります。

6.ロサンゼルスは新たな局面へ(1970-)

1970~80年代、全体としてのロサンゼルスの人口成長はやや緩やかになりますが、65年の移民法改正を受け、総人口に占める移民の割合が増加。それまで移民が制限されていた日本、中国、韓国、ベトナム、カンボジア、フィリピンに加えて、メキシコからの移住者が増え、90年にはヒスパニック系は335万人とロサンゼルス・カウンティーの約38%を占めるまでに。アジア系も約92・5万人、全体の10%超と存在感を増していきました。ロサンゼルスは、さらに多様なエスニックが暮らす都市へと変化していくのです。
 
産業も大きな変革の時を迎えます。70~80年代、グローバル市場が成熟し国際競争が盛んになると、重工業は安価な労働力を求めて国外に移転。また90年代には防衛費削減により、航空宇宙産業は合併、解消、移転などの道を選び、ロサンゼルス内の工場を閉鎖しました。代わってロサンゼルスでは、食品加工や衣類の製造などの軽工業、半導体産業などのハイテク産業が盛んになります。しかしながら、ハイテク産業は教育レベルの高い人材を採用し、軽工業はアフリカ系よりも安価な労働力であったヒスパニック系を雇用したことから、それまで製造業に従事することの多かったアフリカ系住民の失業率が上昇。一方で職を見つけたヒスパニック系も、低所得層から抜け出せない状態が固定化してしまうのです。
 
新たな貧困層を生み出した一方で、70~80年代のロサンゼルスは経済成長を謳歌していました。国外からの投資が増加し、75~90年にかけて、ダウンタウンLAには40棟もの高層建築が建つ建築ラッシュ。オレンジ・カウンティーでも、計画都市アーバインのさらなる大規模開発が71年から始まり、ラグーナニゲル、アリソビエホなど、オレンジ・カウンティー南部の開発が続きました。ロサンゼルス都市圏全体で不動産価格も高騰し、90年まで不動産価格は右肩上がりに伸び続けます。

2010年のロサンゼルスカウンティ―とオレンジカウンティ―の人口

(出典:U.S. Census Bureau)

しかし、そうした経済成長の裏では、所得格差の拡大、貧困の蔓延、ギャング同士の抗争の過激化、クラックブーム(1984~90年、全米でクラック・コカイン使用が拡大)、職や住居をめぐるヒスパニック系や韓国系など新たな移民とアフリカ系との衝突などといった問題が渦巻いていました。
92年、その張りつめた人種間の緊張、積もり積もった貧困と差別への怒りなどが、ロサンゼルス暴動という形で噴出します。91年のロドニー・キング事件に対する白人警官への無罪評決、また韓国系女性によるアフリカ系少女の射殺事件などが引き金になり、アフリカ系を中心に、ヒスパニック系などが暴徒化。暴動は6日後に収束しますが、53人もの死者と約2000人の負傷者、約1万人もの逮捕者を出す結末となりました。
 
そして94年にはノースリッジ地震が発生(モーメントマグニチュード6.7)。57人の死者と、200億ドルとも言われる甚大な経済的被害を出しました。また、同年にはオレンジ・カウンティーがデリバティブ運用の失敗により巨額の損失を出し、連邦倒産法第9章を申請して破産申請を行いました。
 
ですが、90年代後半に入ると景気回復、建設ラッシュに支えられ、ロサンゼルスは迅速に復興を遂げるのです。オレンジ・カウンティーは、96年には破産状態から回復。都市の郊外化が進んで空洞化し、荒廃していたダウンタウンLAも、99年にSTAPLESCenterがオープンし、またロサンゼルス市議会が空きビル等のアパート等住居への開発を推進する条例を施行して、再開発が本格化します。Walt Disney Concert HallやL.A.Liveなどの新たな施設ができ、今や全米で最もクールなエリアと呼ばれるまでになっています。
 
とはいえ、2000年代に入ってからも、ロサンゼルスの歴史は平穏なものではなく、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロによる観光業への大打撃、2008年のリーマンショック後の経済の停滞など、上へ下へと揺れ動いてきました。先の見通しを裏切るような、さまざまな力が外からも中からも加わり、大海原を進む船のように時に不安定で、時にドラマチックなロサンゼルスの歴史…。それは、地理的にも経済的にも、また移民や文化の面からも世界に対して開かれ、かつ世界と密接につながっている大都市だからこその宿命であるのかもしれません。

年表で振り返るロサンゼルスの歴史

BC8000頃
ネイティブアメリカンのチュマッシュ族がロサンゼルス盆地に定住を開始
1769-1821
スペイン植民地時代
1771
スペインからのカトリック宣教師らが、サンゲーブリエルにミッションを建設
1781
スペイン統治下のメキシコから44人がロサンゼルスに入植
1804
スペイン領カリフォルニア州が、アルタ・カリフォルニアとバハ・カリフォルニアに分割
1805
アメリカから初の貿易船がサンペドロに入港
1821
メキシコがスペインから独立
1821-1846
メキシコ統治時代
1842
北カリフォルニアのゴールドラッシュに先駆け、ロサンゼルス近郊のPlacerita Canyonで金が発見され、採掘者が殺到
1846
米墨戦争勃発。アメリカ軍がロサンゼルスを占拠
1848
米墨戦争終結。カリフォルニアとテキサスがメキシコから割譲され、アメリカに
1848-1855
ゴールドラッシュ
1850
ロサンゼルス・カウンティ―成立
1853
サンバナディーノ・カウンティ―成立
1865
南北戦争終結
1872
ベンチュラ・カウンティ―成立
1873
リバーサイドに、ネーブルオレンジが導入される。柑橘農業が一躍、ロサンゼルスの主要産業に
1874
ロサンゼルスで路面馬車鉄道が運行開始
1881
The Southern Pacific Railroadのロサンゼルスと東海岸をつなぐ鉄道が開通
「Los Angeles Daily Times」(現在のロサンゼルスタイムズ)創刊
1887
東部、中西部、南部をつなぐThe Santa Fe Railroadがロサンゼルスに乗り入れる
ロサンゼルスに路面電車が運行開始
1889
オレンジ・カウンティ―成立
1890
ロサンゼルス市油田の発見を皮切りに、各地で油田が発見される
1893
リバーサイド・カウンティ―成立
1901
ダウンタウンロサンゼルス・バンカーヒルにAngels Flight開通
1905
タバコで財をなしたアボット・キニーが、現在のベニスあたりの湿地帯を埋め立て、運河を作り、イタリアのベニスを模したリゾートタウンを建設
1907
19世紀半ばからロサンゼルスの貿易の窓口となっていたサンペドロハーバーが、ロサンゼルス港として正式に開港
1910
米国発の航空ショー「The Los Angeles International Air Meet」がドミンゲス・フィールドで開催。11日間で約254,000人の観衆を集めた
1910
ロサンゼルスタイムズ社と労働組合の抗争から爆破事件が発生。本社と社長自宅が爆破され、21人が死亡
1911
ハリウッド初の映画製作スタジオ設立
1911
ロングビーチ港が開港
1913
第一次ロサンゼルス上水路(オウエン谷上水路)が完成
カリフォルニア州で外国人土地法が成立
1914-1918
第一次世界大戦
1917
Grand Central Marketがオープン
1923
新たな住宅地の屋外広告として、ハリウッドサイン(建設当初はHOLLYWOODLANDの文字が並んでいたが、49年にLANDの文字は撤去)が建てられる
1926
ロサンゼルスとシカゴを結ぶ2451マイルにわたる道が「ルート66(U.S. Highway 66)」に指定される
1928
ミッキーマウス誕生
1929-1941
世界恐慌
1930
ロサンゼルス空港が開港(1949年にロサンゼルス国際空港に改称)
1933
ロングビーチ地震(マグニチュード6.4)が発生。死者115~120人
1939
西部最大のハブ駅となる、ユニオンステーションが完成
1940
Arroyo Seco Parkway開通

(※このページは「2016年10月1日号ライトハウス・ロサンゼルス版」掲載の情報を基に作成し、2023年1月時点の情報で更新しています。最新の情報と異なる場合があります。あらかじめご了承ください。

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