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	<title>アメリカン・ドリーマーズ | 現地情報誌ライトハウス</title>
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	<description>アメリカの現地情報誌「ライトハウス」が運営する生活情報＆観光情報サイト。現地在住の日本人編集者による観光ガイドのほか、アメリカでの教育・子育て、ビザ、求人・仕事、レストランなどの生活情報、ライトハウスの最新号をご紹介します。</description>
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		<title>森本正治さん／「料理の鉄人」3代目和の鉄人</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 22:53:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>寿司ブームを自分の目で見たくて渡米 日米で注目されるセレブリティーシェフに 【森本正治さんのプロフィール】 もりもと・まさはる◎1955年広島県出身。崇徳高校野球部の主将。30歳で渡米。ニューヨークの「ソニークラブ」の総料理長を経て、1994年「NOBU」オープンとともに総料理長に就任。1998年よりフジテレビ「料理の鉄人」で3代目和の鉄人を襲名。2001年11月フィラデルフィアに「MORIMOTO」オープン。著書に『No.1（いちばん）』。趣味はゴルフ。 　 肩を壊して野球を断念。もう1つの夢 &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/masaharu-morimoto.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/masaharu-morimoto.html">森本正治さん／「料理の鉄人」3代目和の鉄人</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">寿司ブームを自分の目で見たくて渡米<br />
日米で注目されるセレブリティーシェフに</h2>
<div id="detail_data_block">
<h3>【森本正治さんのプロフィール】</h3>
<p>もりもと・まさはる◎1955年広島県出身。崇徳高校野球部の主将。30歳で渡米。ニューヨークの「ソニークラブ」の総料理長を経て、1994年「NOBU」オープンとともに総料理長に就任。1998年よりフジテレビ「料理の鉄人」で3代目和の鉄人を襲名。2001年11月フィラデルフィアに「MORIMOTO」オープン。著書に『No.1（いちばん）』。趣味はゴルフ。</p></div>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">肩を壊して野球を断念。もう1つの夢、寿司屋に</h2>
<p id="answer_text">小さい頃からなりたかったものが2つあったんです。野球少年だったので、1つは広島カープに入団すること。もう1つは寿司屋をやること。小学校の卒業文集に書いているんですよ。「寿司まさ」をやりたいって。名前まで決めてたんですね。広島の名門崇徳高校で主将を務めたのですが肩を壊して野球を断念し、もう1つの夢だった寿司職人の道に入りました。<br />
　<br />
子供の頃、父が酒乱でうちには温かい食卓というものがなかったんですが、給料日の次の日だけは決まって家族で寿司屋に行ったんです。うちはなぜか最初に喫茶店に行って、妹と私はパフェを、両親はコーヒーを飲んで、それから寿司屋に行くんですよ。その時の家族の思い出みたいなのがあって、寿司屋をやりたいと思ったんですね。でも寿司屋で働いているうちに隣りの芝生が青く見えてきて、1980年くらいに喫茶店を始めました。<br />
　<br />
著書『No.1（いちばん）』は自分のことを回想して書いたんですが、寿司屋も喫茶店も子供の頃に味わった家族の団欒に帰していたんだなと、書くことによって改めて気づきました。それと野球では1番になれなかった。だから寿司屋で1番になろうと思ったんだと。喫茶店を始めた後も、いろいろなことをしましたね。朝7時から夜8時まで喫茶店に出て、9時から朝2時まで寿司屋で修業。それ以外にも同時に火災保険の代理店やったり新聞配達やったり。本当になんでも一生懸命しました。<br />
　<br />
30になった時にやろうと思ったことが4つほどありました。ベンツを買うこと、家を買うこと、居酒屋をやること、アメリカを1年くらいかけて1周すること。それで、まずはアメリカに行こうと。本当は1984年のロサンゼルスオリンピックの時に来たかったんです。1970年代後半から1980年代前半はアメリカに寿司ブームが起きていたので、自分の目でどんなものか見てみたかった。<br />
　<br />
ところが店の売却に手間取って、結局1985年に渡米し、ニューヨークが最初のストップでした。半年くらい仕事するつもりはなかったんですが、日本にいる時に、こちらの日系の雑誌や新聞を取り寄せて調べたら、寿司職人は引く手あまただったので、渡米しても大丈夫だとは思っていました。それでいろいろなレストランで仕事しているうちに、たまたま紹介してくれる人がいて「NOBU」のオープニングから参加しました。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">フィラデルフィアは独立宣言、そしてNYで故郷に錦を飾る</h2>
<p id="answer_text">「料理の鉄人」に出演している時は大変でしたね。鉄人というのは世界に4人しかいないわけです。それだけ注目を浴びて勝った負けたとやるわけですから、ものすごいプレッシャーで食べられない、眠れないという状態が続き、やっている時は本当に苦しかったです。ストレスですごく太ったんですよ。撮影のために月に1度は東京に行かなければいけなかったし、1日に2本撮ったことも5回くらいありました。どの対決も一生懸命だったので、特に印象に残ったというのはありませんが、人と違うことをやりたかった。<br />
　<br />
「納豆対決」の時の「納豆のコーラ煮」は、甘納豆があるんだから、素材は違うけれども甘い納豆があってもいいんじゃないかと思って。納豆でデザートを作りたかったんです。<br />
　<br />
最初に鉄人の依頼があった時、本当は断ろうと思ったんです。でも当時、日本の料理界で「アメリカの和食」は軽く見られているところがあったんですね。駐在員はアメリカに来ればキャリアになりますが、アメリカの和食料理人は引け目を感じた時代だった。それでアメリカでがんばっている若い人のためにも、と思って引き受けました。番組を通じて創作和食の地位が確立され、今では逆輸入で日本でも評判を得ているのを見ると「やったな」って思いますね。<br />
　<br />
2001年11月に「MORIMOTO」をフィラデルフィアでオープンした時、皆になぜフィラデルフィアなのかと聞かれたんですけど、これは言ってみれば独立宣言なんです。いつまでも「NOBU」の森本、「NOBU」から出た鉄人だと言われたくなかった。「料理の鉄人」に出ていた頃は角刈りだったのをポニーテールにしたのもそのためです。今かけている眼鏡も伊達眼鏡なんですよ。2003年にはニューヨークにもオープンする予定です。フィラデルフィアで独立して次は何だと考えた時、ニューヨークで故郷に錦を飾るといいますか、旗揚げですね。<br />
　<br />
「料理の鉄人」は大変だったけど、その経験を活かしていきたいですね。出演してよかったのかどうか、結果はこれから出てくると思います。今、文化的なものが西洋から東洋に向いている時代になりました。料理も同様で、先日私が音頭を取り、日本人シェフ7人が集まって料理を披露する機会を設けたんですが、日本人のシェフの料理を食べるために200ドルも出して人が集まるなんて、ひと昔前では考えられなかった。これは私1人ではなくて、日本人シェフみんなががんばってきたから実現したのですが、その一端は担うことができたんじゃないかなと自負しています。<br />
　<br />
私の場合はラッキーだった。でもすべての人に運が向くかというとそうじゃない。やはりライトスポットにいなければいけない。料理でも何でも、自分のやっていることを好きでい続ける、そしてやり続けることが大切なんじゃないでしょうか。<br />
　<br />
（2003年1月1日号掲載）</p>
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		<item>
		<title>松居慶子さん／ミュージシャン</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 22:42:42 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>結婚記念で制作したアルバムで全米デビュー 日本人アーティスト初のビルボード1位に 【松居慶子さんのプロフィール】 まつい・けいこ◎東京生まれ。5歳でクラシックピアノを始める。1986年プロデューサーの松居和氏との結婚を機に渡米。1987年自主制作アルバム『ドロップス』が音楽誌、FM局で絶賛され、その後14枚のアルバムを発売。2001年に発売された『ディープブルー』はビルボードのコンテンポラリージャズチャートで日本人として初の1位を記録する。全米骨髄ドナープログラムへの協力などチャリティーコンサー &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/keiko-matsui.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/keiko-matsui.html">松居慶子さん／ミュージシャン</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">結婚記念で制作したアルバムで全米デビュー<br />
日本人アーティスト初のビルボード1位に</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/415/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【松居慶子さんのプロフィール】</h3>
<p>まつい・けいこ◎東京生まれ。5歳でクラシックピアノを始める。1986年プロデューサーの松居和氏との結婚を機に渡米。1987年自主制作アルバム『ドロップス』が音楽誌、FM局で絶賛され、その後14枚のアルバムを発売。2001年に発売された『ディープブルー』はビルボードのコンテンポラリージャズチャートで日本人として初の1位を記録する。全米骨髄ドナープログラムへの協力などチャリティーコンサートへの積極的な取り組みでも知られる。</p></div>
<div class="clearfix"></div>
<p></p>
<h2 class="tittle">「同じ日本人女性として励みになる」ファンの声に支えられた</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/415/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">ハンティントンビーチの自宅に停泊しているヨットに乗って、カタリナまで遊びに行くのが楽しみとか。夫の松居和氏と。</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">渡米のきっかけは結婚なんです。音楽プロデューサーの主人（松居和氏）と結婚して、彼の仕事をアメリカで手伝っていくんだろうなと思っていました。日本でもグループで活動をしていましたが、主人に「音楽を取るか、結婚を取るか」と迫られまして（笑）。私としては覚悟を決めて結婚を選んだつもりだったんです。<br />
　<br />
その時に新婚旅行に一緒にインドに行こうか、それともロサンゼルスでアルバムを結婚記念に作ってみようかという選択がありました。せっかくだからアルバムを制作してみたいと思って、自主制作のアルバムを作ったのが最初。すぐにレコード会社が決まって1987年に1枚目のアルバムが出ました。自分としては「これからアメリカでキャリアを積む」だとか、そんなことは全然考えていなかったんです。書きためていた曲をアメリカで出せていい記念になった、くらいの気持ちでした。主人のコネクションで『ジーザスクライスト・スーパースター』に主演したカール・アンダーソンもボーカルで協力してくれました。このアルバムをミュージカルにしようと皆で盛り上がったり。とても充実したレコーディングでしたね。<br />
　<br />
そして1987年7月4日、タワーレコードの独立記念日の推薦盤として私のアルバムが紹介されたんです。記念撮影に行ったことを思い出します。それを境にラジオでよく曲がかかるようになりました。初めてのコンサートはサンタモニカのアットマイプレイスというライブハウスでした。<br />
　<br />
1988年に上の娘が生まれましたが、彼女が日本の小学校に上がるまでは、基本的にずっとこちらに住んでいました。ロサンゼルスに住んで週末がコンサートというペースでしたね。面白いのはラジオで聴いているうちは、私が女性か男性かもわからない。ケイコなんてこちらの人はキーコなんて発音しますし、どこの国の人かもわからないみたいなんです。それで、コンサートで私が登場して初めて女性だとわかるんですね。<br />
　<br />
ファンのレスポンスですか？　最初の頃はＥメールもなかったから。でも、私の曲を聴くと元気が出ると言ってくださる方、それに同じ日本女性として励みになると言ってくださる方もいましたね。明日へのエネルギーが湧いてくるとも。そうそう、私自身が落ち込んでいた時に友達に冗談で「ケイコの音楽を聴けばいいんじゃないの」と言われたり。また、湾岸戦争の時には、出征した人が船の上の売店で私のアルバムを買って、辛い時期を私の曲を聴きながら乗り越えたということもありました。とてもうれしかったですね。<br />
　<br />
曲のインスピレーションは日常生活の中からふっと湧いてきたり、旅先で出会った大自然にインスパイアされて生まれたりします。「フォーエバー、フォーエバー」という曲は下の娘が2歳の時に「ママのことはいつまでもいつまでも大好き」と言ってくれた、そのことを残したいと思って作ったんです。その娘が生まれた時はコンサートの本数も抑えていました。7枚目の『サファイヤ』の時ですね。でも、その年、驚くほどアルバムの売り上げが伸びたんです。不思議だな、音楽の方が独り歩きを始めたんだなと思いました。<br />
　<br />
娘たちは普段は私の母が日本で一緒に住んでくれていて、私たち夫婦は日本とアメリカを行ったりきたりしています。年間に14往復くらいしていますね。もちろん娘たちといつも一緒にいたいと思います。でも、こんな言い方をすると偉そうだけれど、こうして聴いてくれる人がたくさんいるということは、音楽を続けていくのがお役目といった感じがするんです。ある時ツアーに出かける私に娘が「どうして行くの？」と言ったんですね。「ママのピアノを待ってくれる人がいるんだよ」と答えると、「そうか!!」と言っていました。コンサートのビデオを見て、彼女は「おうちにいる本当のママと、ママは２人いるんだね」とも言っていました。サイン会の時も横にいてうれしそうに手伝ってくれたりするんですよ。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p></p>
<h2 class="tittle">娘の教育のためなら日本へ。無欲？そうかもしれない</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/415/3.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption"></div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">去年はアルバムがビルボードの1位になりました。インストゥルメンタルだから国境を越えやすいという理由もあると思いますが、他の国からもお声を掛けていただいて、ここ数年はヨーロッパやアジアのツアーにも出掛けています。南アフリカでは1日中、30分毎にインタビューが入っていたり、コンサートでは曲の途中でもお客さんが盛り上がって歓声をあげるなど、とても印象的でした。モロッコ、ドミニカ、イスタンブール、シンガポールでも演奏しました。来年は韓国、ロシア、ヨーロッパにも行けそうです。<br />
　<br />
年間のコンサートがアメリカで60本、日本でも最近は10カ所でやっています。だから1番ほしいものは時間ですね。でも逆にコンサートをやっている時間にエネルギーをキープできるんです。お客さんに喜んでもらえたことが私の喜びとなり、それがまた新しいエネルギーにつながっていくと実感しています。コンサートは1つ1つがスペシャルな出来事で、この場所、この時間でしか会えない人と空間を共有するもの。だからこそ大事にしていきたいですね。<br />
　<br />
小泉首相が私の音楽を聴いてくださっていると声を掛けていただいた時は本当にびっくりしました。金屏風の前で握手させていただいた時に「いつもアルバム聴いているよ。『ディープブルー』！ライブもいいよね」と。私が首相とブッシュ大統領とご一緒した時のことについてはファンの方に「ケイコの音楽が世界にハーモニーをもたらす前触れではないか」と言われ、うれしく思いました。<br />
　<br />
ここまで来るのに壁はなかったか？　主人を始め、周囲の人にプロテクトされてここまで来られたのでとてもラッキーでした。恵まれていると思います。ビジネスの面では完全に主人に任せていますので。主人の中ではいろいろ大変だったもしれませんが。<br />
　<br />
無欲？　そうですね。娘を日本の小学校に上げる時も、そのためだったら完全に日本に引き揚げてもいいと思ってました。<br />
娘が音楽の道に進みたいと言ったら？もちろん私たち夫婦でできることは全面的に協力します。でも、これは私も主人もなんですけど、キャリアを積むより何よりまず人間的にいい人であってほしいと望んでいるんです。母もいろいろな方に「娘さんが成功されてさぞうれしいでしょう」と言われるようですが、母としてはどんなに私の仕事がうまくいくことよりも、娘に幸せでいてもらうことが1番なんですよね。<br />
　<br />
2003年は、またロサンゼルスと東京を往復する1年になります。日本とアメリカ以外にも、さらにいろんな国でのコンサートを重ねていきたいというのが新年の抱負です。そのためにもいつも元気でいなくちゃいけませんね。<br />
　<br />
（2003年1月1日号掲載）</p>
<div class="clearfix"></div><p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/keiko-matsui.html">松居慶子さん／ミュージシャン</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>横山智佐子さん／フィルムエディター</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 22:34:37 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>オスカー受賞のハリウッド映画に携わるイタリア人師匠が外国人の私にチャンスをくれた 【横山智佐子さんのプロフィール】 よこやま・ちさこ◎1963年生まれ。三重県出身。1987年渡米。UCサンタバーバラ校映画科卒業。『リトルブッダ』と『JFK』でアカデミー賞を受賞した実力派エディター、ピエトロ・スカリア氏のアシスタントとなる。代表作に『G.I. ジェーン』『グッドウィルハンティング』『グラディエーター』『ハンニバル』『ブラックホークダウン 』など。趣味は子供と遊ぶこと。 　 ロケ先のネパールに自費で &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/sachiko-yokoyama.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/sachiko-yokoyama.html">横山智佐子さん／フィルムエディター</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">オスカー受賞のハリウッド映画に携わるイタリア人師匠が外国人の私にチャンスをくれた</h2>
<div id="detail_data_block">
<h3>【横山智佐子さんのプロフィール】</h3>
<p>よこやま・ちさこ◎1963年生まれ。三重県出身。1987年渡米。UCサンタバーバラ校映画科卒業。『リトルブッダ』と『JFK』でアカデミー賞を受賞した実力派エディター、ピエトロ・スカリア氏のアシスタントとなる。代表作に『G.I. ジェーン』『グッドウィルハンティング』『グラディエーター』『ハンニバル』『ブラックホークダウン 』など。趣味は子供と遊ぶこと。</p></div>
</td>
</tr>
</table>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">ロケ先のネパールに自費で飛び「無給でも仕事したい」と直訴</h2>
<p id="answer_text">英語が好きで、短大の時に1カ月ロサンゼルスでホームステイしたんです。その時に、英語にも自信がつき、ロサンゼルスの大学には大好きな映画を学べる学科がたくさんあるのを知ったので、日本で3年間働いてお金を貯め、1987年に留学しました。<br />
　<br />
最初の2年間はサンタモニカカレッジに通ったんですが、その時から雑誌などで見つけたPA（プロダクションアシスタント）のボランティアをしていました。4年制に編入するつもりだったので映画のことはまだ全然勉強してなかったのですが、カタコトの英語で無謀にもあちこちに電話して、今考えると「よくやったな」って思います。それがその後の下地になりました。PAというのは要するに使い走りなんですが、英語の実力もついたし、多くの人と知り合えましたから。人と知り合うと、次に仕事がもらえるんです。グリップ（カメラの動きや影を作る）の仕事をしている主人と知り合ったのもこの時です。<br />
　<br />
UCサンタバーバラを出て1年ほど経った時、『地獄の黙示録』や『レッズ』でアカデミー賞を取った撮影監督、ビットリオ・ストラロ氏が、『ラストエンペラー』のベルナルド・ベルトリッチ監督の『リトル・ブッダ』の撮影でネパールでロケをしていることを知り、ストラロ氏の大ファンだった主人が自費で撮影に参加したんです。<br />
　<br />
すると『JFK』でアカデミー賞を受賞し、今ハリウッドで1番実力があると言われているピエトロ・スカリヤ氏が編集に雇われたが、アシスタントが1人しかいないと主人から連絡があり、私も自費で急きょネパールに飛びました。着くやいなや編集室へ直行し、「給料はいらないから仕事させてください」と直訴したんです。断られてもともと、と思っていたのですが、すんなりとOKが出て、ネパールで3カ月、シアトルで1カ月半一緒に仕事することができました。<br />
　<br />
その時に「よく働く」と気に入ってもらって、以来11年間一緒に仕事させてもらっています。実は35ミリの編集をするのはそれが初めてだったのですが、一緒に仕事している時はどんなにスローな時でも何もしていないところは見せなかったし、「帰りなさい」と言われるまでは決して帰りませんでした。<br />
　<br />
最初はインターンから始まり、『G.I.ジェーン』でセカンドアシスタント、『グッドウィルハンティング』からファーストアシスタントをしています。スカリヤ氏はイタリア人で、自分も外国人でハリウッドでがんばってきた人だから、同じ外国人である私にもチャンスを与えてくれたんだと思います。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">幸運、不運の別はない、トライすれば道は開ける</h2>
<p id="answer_text">今までスカリヤ氏と一緒に手掛けた作品の中で、クリエイティブな意味で勉強になったのは『グッドウィルハンティング』ですね。バンサント監督がオープンマインドの人で、編集は監督のポーランドの自宅で行ったのですが、毎週のように知り合いを集めてテスト試写をやり、ディスカッションを重ねてどんどん良くなっていったんです。<br />
　<br />
この映画を製作した時は、脚本を書き主演したマット・デイモンもベン・アフレックもまだ無名で、名の通った俳優といえばロビン・ウィリアムスくらい。まさかアカデミー賞まで取るとは予想していませんでした。<br />
　<br />
最初に観た段階ですでに「これはすごい」と思ったのは、『ブラックホークダウン』。撮影はモロッコの小さな町で行われたんですが、カメラが常時4台から11台くらい回っていました。また通常撮影中は台詞が聞こえなくなるので銃の音は出さないのですが、この時は撮影中から銃も音を出していましたし、使ったフィルムの量も80万フィートと今までで1番多かった。『グラディエーター』で60万フィートでしたから。150時間分を2時間半にまとめたんです。エディターという仕事は、切るのは基本的なこと。全体の構成をどうまとめるかが重要なのですが、脂が乗り切ったスカリヤ氏のまさしく実力作品で、この映画で彼は2度目のアカデミー賞を受賞しました。<br />
　<br />
今まではスカリヤ氏のアシスタントとして編集の仕事に関わっていましたが、これからは少しずつエディターとして一般の人にいい映画だと認めてもらえるような作品を手掛けていきたいですね。将来の夢は、スティーブン・ソダーバーグ監督（『エリン・ブロコヴィッチ』など）やコーエン・ブラザーズ（『赤ちゃん泥棒』など）と一緒に仕事をすることです。ネバーギブアップの精神で長い目で捉えてコツコツ努力していると、いつかは必ず道が開けてくると思っています。それはラッキーとかアンラッキーということではなく、トライしていると必ず運が向いてくるということだと思います。<br />
　<br />
（2003年1月1日号掲載）</p>
<div class="clearfix"></div><p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/sachiko-yokoyama.html">横山智佐子さん／フィルムエディター</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>吉田準輝さん／ヨシダグループ会長</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 22:28:01 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事。 僕の金儲けは、ぜんぶ恩返しなんや 全米で販売され、アメリカ人に愛用されている「ヨシダソース」。そのコマーシャルにはヨシダフーズ・インターナショナルの創立者・吉田準輝会長が自ら出演し、地元ポートランドで大人気を博しているという。その明るく愛嬌あふれるキャラクターの陰には、不法移民として入国、差別を受けながらも自分の信念を貫き通した、強靭な底力があった。 【吉田準輝さんのプロフィール】 よしだ・じゅんき◎1949年京都生まれ。1968年渡米。不法移 &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/junki-yoshida.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/junki-yoshida.html">吉田準輝さん／ヨシダグループ会長</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事。<br />
僕の金儲けは、ぜんぶ恩返しなんや</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/610/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">全米で販売され、アメリカ人に愛用されている「ヨシダソース」。そのコマーシャルにはヨシダフーズ・インターナショナルの創立者・吉田準輝会長が自ら出演し、地元ポートランドで大人気を博しているという。その明るく愛嬌あふれるキャラクターの陰には、不法移民として入国、差別を受けながらも自分の信念を貫き通した、強靭な底力があった。</p>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【吉田準輝さんのプロフィール】</h3>
<p>よしだ・じゅんき◎1949年京都生まれ。1968年渡米。不法移民として苦労を重ねながら、ワシントン州警察逮捕術師範を経て、1982年「ヨシダフーズ・インターナショナル」を設立。しょう油ベースのソースの製造販売を開始する。同社を筆頭にヨシダグループは19社の会社で構成され、その最高経営責任者兼会長としてアメリカのビジネス界で活躍。2001年、アメリカ合衆国政府より優秀中小企業家賞を受賞。2003年9月、ヨシダグループは、米国の中小企業局（Small Business Administration）が選ぶ全米24社のうちの一社として、FedExやインテル、アメリカオンラインなどと共に「殿堂入り」を果たした。</p></div>
</td>
</tr>
</table>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">東京五輪で知った”強いアメリカ”に憧れて</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/610/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">妻のリンダさんとは学生時代にひと目ぼれで結婚。共にボランティア活動をしている</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">小学校の時から番長してました。グレてたからなぁ。家がレストランやってましたしね。レストランというのは大変で寂しかったんやろね。で、身体が大きい方やったし、喧嘩に明け暮れて。3歳の時に片目を失ってるんですよ。で、みんなに「片目」とか言われて、カーッとなって手をかけてたんだよね。<br />
　<br />
小学生の時に、中学生に野球のバットでメチャメチャにやられたんですけど、そんな時にお袋が怒った、僕のこと。泣いて帰って来たから。「もっとやり返して来い！」って。そういう性格だったからお袋は。いつも「こんちきしょー。見とれ」って。自分でね、何千回、何万回ね。アメリカでもその言葉を自分に言い聞かせてきた。<br />
　<br />
中学の時に、東京オリンピックがあったんやけど、勝つ人間ってアメリカ人ばっかしでね。テレビで流れてくる曲も、アメリカ国歌ばっかりやったから。それを観た時に子供心にジーンときたんだよね。その時から、自分はアメリカに「Belong」っていう気持ちが確かにあった。で、その時、立命館大学の空手、柔道っていうのはものすごく有名やったから、空手部に入りたくて受けたんやけど、すべって。因果かな、すべったのも英語が原因。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">血が出るほど舌を噛んだ。貧乏では恩返しができない</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/610/3.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption"></div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">最初はシアトルで空手を教えてたんやけど、縁があって後にオレゴンに来ることに。1974年にはオレゴン州の警察学校からの招請で逮捕術を教えることになってね。来た当時なんて、成功するとか金儲けするとか考えてへんかったね。憧れやったんです、単純に。でも、うちの長女・クリスティーナが病気で死にかけて、お医者さんが娘を助けてくれてね。その時、生まれて初めて神様にお祈りをして、「自分の命を交換してくれ」と自分の命を捨てることが理解できた。<br />
　<br />
日頃は飲みに行ったり、ポーカーしたりね。親としての役割はしてなかったですよ。貧乏人だったから保険もなかったしね。病院出る時に看護婦さんがくれた請求書がたったの250ドル。その時に、もう血が出るほど舌を噛みしめたんですよ。「こんちきしょー、絶対この恩返しをする」って。それがオレの力です。貧乏では恩返しはできひんしね。だから僕の金儲けっていうのは、はっきりしてる。恩返しなんや。<br />
　<br />
今やってるのは、病院の理事に、子供ガン協会のトラスティーでしょ、ロナルド・マクドナルドハウス（貧しい親が子供を病院に連れてくるための宿泊施設を作る組織）の理事。それから&#8221;Kids on the Block&#8221;の理事を10年間やってね、これ、ぜんぶスポンサーです。<br />
　<br />
ウォルマートやコダックからお金を集めるんです。そのお金でボランティアの先生方が小学校に行って、マペットを使って、子供に教えるんですよ。肌の違いとかね、文化の違いとかね。「そんなこと言うたら駄目だよ」とかね。<br />
　<br />
これもオレの一種のリベンジですよ。「くそー、今に見てろよ。37年前シアトルに来た時、どんなに人種差別されたか」。日本の差別よりも、こっちの方がきつかったですよ。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">アメリカまで来て日本人にだけ売りたくない</h2>
<p id="answer_text">商売らしい商売をしようと手がけた最初の会社が、オレゴン・トレーディング・ポスト。1980年、日本に干し肉を送ろうとしてね。でも、干し肉は日本には入れられへんかったね。日本は肉にうるさかったから。それで発明したのがターキージャーキー。ブラウンターキーを燻したやつに、うちのソースをまぜてジャーキーみたいにした。日本にコネもなかったし、商売も下手やったから成功しいひんかったけど、今はもう「ターキージャーキー」って、アメリカでは誰でも食べてますよ。<br />
　<br />
そこからソースになって、いろんな経験を積みながら、成長していったんかな。がむしゃらに1日1日。その日、その日の勝負ですよ。だから、うちの会社なんて、5年計画、3年計画なんてないよ。その日、自分の持っているすべてを使って一生懸命集中したらね、明日は絶対にいいんですよ。残業してでもその日の仕事はその日に終わらせる。次の日に持っていったらダメ。<br />
　<br />
何で「よしだ」っていう日本の名前で、日本の味がバーベキューソースの横に並んで売られてるのか、わかりますか？　普通、オリエンタルセクションに並ぶから、食品界の七不思議なんですよ。オレゴンではね、当時（大手グロサリーストアの）セーフウェイが1番力を持ってた。で、バイヤーさんがね、何度か交渉してくれて、やっとの思いでセーフウェイに置くことができるようになった。でも、気が付いたらオリエンタルセクションに入れられてたんですよ。<br />
　<br />
そこで、僕、何したと思う？　天下のセーフウェイへの出荷を止めたんですよ。もともとオリエンタルセクションに入れないという約束やったから、僕は、ものすごく怒って、「日本人だけに売るくらいなら、今までアメリカで何回も破産しかけてまでやってきた甲斐がない」って徹底的に戦った。そしたらね、バーベキューセクションに戻してくれたんです。そこまで信念を通さなきゃダメ。<br />
　<br />
アメリカに来たんだから、やっぱりアメリカ人の世界に入らないと。だから学校行っても、日本人だけで集まってるんじゃね。うちのソースだってアメリカ人対象に売りたかったんや。日本人だけに売るつもりなかった。<br />
　<br />
今、レストランのプロジェクトが進んでまして、2006年の4月にオープンするんです。普通のステーキハウス。それから、やっぱりいろんな人にビジネスのことでアドバイスしてあげたいね。いろんな会社の役員をしてるけれども、お金は取りませんよ。お金もらってもしゃあないもん。自分の経験したことを分け与えるのに、なんでお金取るんだよ。たまたま自分がうまくいっただけ。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">神様が絶対助けてくれる、守ってくれると確信</h2>
<p id="answer_text">みんな成功したいんやと思うよ。成功したくないって人、いないですよ。ところが99.99％うまくいかない。で、知らないうちに自分の夢が何やったかなって忘れてしまってるんだよね。<br />
　<br />
「もうちょっとで、できたのに」とか「あいつのせいで失敗した」とかね、「もうちょっとお金があったら」って、そんな言い訳言ってもしょうがない。少しの失敗も、現実的には100％の失敗なんやから。<br />
　<br />
オレなんか4回破産しかけてるからね。でも、夜も寝られへんなんてないですよ。「明日、どうにかなる」、神様が絶対助けてくれるっていう自信があった。オレの家は3代クリスチャンやからね。自分は守られてるって信じてる。それがまた目に見えない原動力になってるんやろね。<br />
　<br />
「こんちきしょー。今に見とれ」っていう哲学は大事やね。やっぱりムカッとするということは大事やと思うなあ。頭に来るというのは、いいことなんですよ。それを良い方に持って行くのか、悪い方に持って行って、人を恨んだり、落ち込んだりするのか。僕も落ち込むことはあるけど、1晩寝たら考えへんね、次の日は。<br />
　<br />
人生というのは将棋のようなもんですよ。自分が1手動いたら、周りは二十何手の動きが出てくるわけですよ。1手打つっちゅうのはそれだけのことを考えなね。プロは十何手先まで考えてるらしいね。でも、そこまでいかんでもいいと思うな。最低でも2手3手先まで考えたらいいんじゃない。夢というのも大事だけど、おっきな夢を描き過ぎたら、小さな夢も達成できなくなるし、そういうもんなんやと思う。<br />
　<br />
（2006年1月1日号掲載）</p>
<div class="clearfix"></div><p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/junki-yoshida.html">吉田準輝さん／ヨシダグループ会長</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>高橋典子さん／シルク・ド・ソレイユ『ＫĀ』・パフォーマー</title>
		<link>https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/noriko-takahashi.html</link>
					<comments>https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/noriko-takahashi.html#respond</comments>
		
		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 22:16:23 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.us-lighthouse.com/?p=14446</guid>

					<description><![CDATA[<p>どんなことが起きようとそれを受け入れ、学んで自分を磨いていきたい 世界選手権に通算回出場し、7個の金メダルを獲得、世界に名を知られたバトントワラーの高橋典子さん。2003年、1通の勧誘Eメールを頼りにシルク・ド・ソレイユに入団。高度な芸術性とパフォーマンス技術を誇る同劇団最新のショー『Ｋ&#256;』で、ソロパートを務めるが、「演技については未だに正解がわかりません」と笑う。その舞台裏には、プレッシャーと格闘し、日々たゆまぬ努力を続ける高橋さんの姿があった。 【高橋典子さんのプロフィール】 たか &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/noriko-takahashi.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/noriko-takahashi.html">高橋典子さん／シルク・ド・ソレイユ『ＫĀ』・パフォーマー</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">どんなことが起きようとそれを受け入れ、学んで自分を磨いていきたい</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/616/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">世界選手権に通算回出場し、7個の金メダルを獲得、世界に名を知られたバトントワラーの高橋典子さん。2003年、1通の勧誘Eメールを頼りにシルク・ド・ソレイユに入団。高度な芸術性とパフォーマンス技術を誇る同劇団最新のショー『Ｋ&#256;』で、ソロパートを務めるが、「演技については未だに正解がわかりません」と笑う。その舞台裏には、プレッシャーと格闘し、日々たゆまぬ努力を続ける高橋さんの姿があった。</p>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【高橋典子さんのプロフィール】</h3>
<p>たかはし・のりこ◎1970年、横浜に生まれる。6歳の時にバトンを始め、小学校3年で全日本バトントワリング選手権に初出場、5位入賞。以後、2004年度の大会まで25回連続出場。個人種目では17回のグランドチャンピオンに輝く。海外でも、6年生で世界バトントワリング選手権大会日本代表選手に選ばれ、1991年に個人シニア部門で金メダルを獲得。世界選手権には通算15回出場し、7個の金メダル。2004年シルク・ド・ソレイユに入団。『K&#256;』ではソロパートでバトンの演技を見せる。</p></div>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">内容も役も知らされずメール1通でショーに参加</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/616/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">ショーは緊張の連続。終わった後は1番ホッとしますね（笑）</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">バトンを始めたのは6歳の時。そのうちに世界大会にも出るようになって、1991年に日本人として初めて、世界大会で金メダルをいただいたんです。それから何回か優勝することがあって、もっと芸術的な部分を含めて、何かをしていきたいなと思っていました。その時に、ちょうどシルク・ド・ソレイユから、バトントワラーが欲しいという話がありまして。各国から選ばれた人が、演技のビデオと履歴書を送ったんです。でも、結局、その話はなくなってしまいました。<br />
　<br />
ショーのことも半ば忘れかけていたある時、1通のＥメールが届きました。差出人が知らない人だったので、「怪しい」と思って、そのまま開けずに放っておいたんですね。夜中にアドレスを見たら、「～～@cirquedusoleil.com」だったんです。で、「新しいショーがあるのですが、興味があったら出ませんか？」みたいな感じで、2行くらい。詳しいことはまったく書いてありません。でも、何か新しいことをしたかったので、ぜひぜひというメールを書いて。それが『Ｋ&#256;』との出会いです。後から知ったんですが、本当は最初のクリエーションの時点から、「この人を使おう」と決めてたみたい。<br />
　<br />
それから1年以上経った2004年2月に、やっとトレーニングセンターのあるモントリオールに行くことに。それまでは、具体的にどういうことをやるか全然教えてくれないんですよ。自分がソロということも、ショー自体がどういうものかも。「秘密だから」っていうので、両親にも言えなかったんです。それに、この話自体がウソだったら困ると思って（笑）。<br />
　<br />
他のメンバーは2003年の10月か11月にトレーニングに入っていましたので、私を見て「あっ！この人なのー！？」みたいな話をしてるんです。振り付けの人もいて、「あなたはソロでバトンをやる人だよね？」って言われて、「えっ？そうなんですか？」って。キャラクターであるということは、契約書の中に入っていたんですけれども、バトンをするとはなかったですし、ストーリーのあるショーの中での”役”があるとは、知らなかったんです。<br />
　<br />
モントリオールでは、自分のパートの振り付けと、高い所から落ちる練習をしました。安全ネットがいつも敷いてあるんですけれども、そこにきれいに落ちないと怪我をするので。だから10メートル上から落ちる練習とかをよくしました。振り付けとか、自分以外のメンバーのシーンがあるので、学ぶことはたくさんあって。<br />
　<br />
『Ｋ&#256;』は、舞台装置がすごいので、なかなかでき上がらなかった。やっと舞台ができて、最初に通し稽古をしたら、8時間以上かかったんです。<br />
　<br />
例えば、空中に浮いているような舞台装置があるのですが、それを使うあるシーンの練習。私の出番は初めのほんの一瞬、舞台側面の中だったんですが、舞台上のクリエーションがなかなか終わらず、ずっと中で待たされて。トイレに行きたい共演の友人もいて、「私たち、何時間待ってると思う？」って。結局、舞台が下に降りて、外に出たら、２時間半も狭い中にいたことがわかりました。その夜も同じ練習があって、また入って、その後１時間半。そういう感じ。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">不測の事態に対応するため緊張の連続の舞台</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/616/3.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">&#169;Tomas Muscionico<br />
Costumes by Marie-Chantale Vaillancourt.<br />
Cirque du Soleil Inc.</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">大会に出て演技するのと、ショーでするのとでは基本的には同じ。だけど、ショーはストーリーを語らなければならない。だから、表現する部分が多いですね。台詞がないので、感情を表現するという演技の部分が大きいかも。演技とかは、これまでしてこなかったので、「これでいいんだろうか？」って、常に気を遣うというか、どういう風にするのが正解かっていうのが、未だにわからない。自分でショーのビデオを見て、「何してるかわからないじゃん」って思ったら、変えていったり。自分ができることを精一杯、毎日やるしかない。日々学びながらやるしかないんですね。<br />
　<br />
ショーをやっている中で1番難しいことは、ライブなので何が起きるかわからないこと。そこにいかに普通に対応していくかってことですかね。常に感覚を研ぎ澄ましておかないと、不測の事態に反応できない。だからそういう意味では楽しいし、緊迫感がありますよね。自分のキャラクターをもちろん持ちつつ、何が起きても対応できるように心構えをしている状態です。<br />
　<br />
今はショーに出る毎日、毎日が本番という生活なので、「毎日、なんで自分はこんなに緊張して生活しなきゃいけないんだろう」って思うことはよくあります。自分が舞台に立っていて、何かが起きた時っていうのは、本当にドキドキしますね。だから、1番ホッとするのは、ショーが終わった後なんです（笑）。いつまでもこのホッとしたのが続くといいなって。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">日々ベストを尽くせば新しいものが見えてくる</h2>
<p id="answer_text">今までトラブルは、たくさんありました。バトンを落としてしまったこともあるんですよ。それに対して振り付けの方が「それは失敗ではない。それに対してどういうリアクションができるかが大事」って言ってくれた。他のアーティストは毎日私を観てるじゃないですか。だから、何かあった時の方が、彼らにしてみれば、お客さんは別として楽しい訳です。「ノリコは今日、どういう風にカバーするのか」っていうのが。うまく行った時には、みんなもすごく喜んでくれて。最近はうまくリアクションできた時は、失敗してもあんまり落ち込まない。「あっ、こういう風にできるんだ」って学べるから。でも、「どうしたらいいのかな、これ」って時もあるんですよ。精一杯のことはするんですけど、うまく行かなかった時には、やはりすごく落ち込みます。でも、逆にそういうことも、大変ですが面白いことでもあるかな。<br />
　<br />
チャレンジとか、プレッシャーを楽しめるタイプではないですから、できるだけ楽しもうと努力しています。プレッシャーとかをマイナスにとらえたら、楽しくないですし、発展もないですから。それはそれと受け止めて、それに対して自分がどうするか、考えていくのが楽しみ。ポジティブに建設的にやっていこうっていうのを、日々、心がけるっていうか、自然にそうなるっていうか。ただでさえ毎日緊張しているので、そうしないとやっていけないっていうのもあります。<br />
　<br />
現在は『Ｋ&#256;』のショーで、同じことを毎日、一生懸命に繰り返していますが、日々自分ができる限りのことをしていれば、きっと何か新しいものが見えてくるかなと思っています。どんなことが起きようとも、それがいいことでも、悪いことでも、自分が育っていく過程のひとつだと思うので、それを受け入れ、学んで、自分を磨いていきたいと思いますね。<br />
　<br />
（2006年1月1日号掲載）</p>
<div class="clearfix"></div><p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/noriko-takahashi.html">高橋典子さん／シルク・ド・ソレイユ『ＫĀ』・パフォーマー</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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			</item>
		<item>
		<title>近澤泰良さん／カスタム・ハーレービルダー</title>
		<link>https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/yasuyoshi-chikazawa.html</link>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 22:07:49 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
		<guid isPermaLink="false">http://www.us-lighthouse.com/?p=14442</guid>

					<description><![CDATA[<p>みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの？ 現状に満足しないで、ジャンジャン行かなあかんね。 バイク好きが高じて渡米。自作のバイクに乗って全米各地のショーを回るうち、その独特のデザインが評価され始める。2003年、日間でバイクを組み立てる競技番組に登場してから一躍有名に。そのデザインはバイク業界や愛好家から、また全米のバイクショーで脚光を浴びている。「最高作はない」と言い切るミスター・チカのデザインは進化し続け、留まるところを知らない。 【近澤泰良さんのプロフィール】 ちかざわ・やすよし◎1966 &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/yasuyoshi-chikazawa.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/yasuyoshi-chikazawa.html">近澤泰良さん／カスタム・ハーレービルダー</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの？<br />
現状に満足しないで、ジャンジャン行かなあかんね。</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/613/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">バイク好きが高じて渡米。自作のバイクに乗って全米各地のショーを回るうち、その独特のデザインが評価され始める。2003年、日間でバイクを組み立てる競技番組に登場してから一躍有名に。そのデザインはバイク業界や愛好家から、また全米のバイクショーで脚光を浴びている。「最高作はない」と言い切るミスター・チカのデザインは進化し続け、留まるところを知らない。</p>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【近澤泰良さんのプロフィール】</h3>
<p>ちかざわ・やすよし◎1966年大阪生まれ。高校卒業後、ホンダ自動車整備学校でメカニックを学ぶ。ホンダのディーラー、ハーレーのカスタムショップで整備の経験を積んだ後、27歳で独立。1995年に渡米し、自宅でハーレーのカスタムメイドの仕事をスタート。テレビや雑誌に取り上げられ、バイク愛好家の間で一躍注目される存在に。2005年は全米110カ所のバイクショーに参加、多忙な毎日を送っている。www.chicacustomcycles.com</p></div>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">がむしゃらに働いてはバイクの借金返済の日々</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/613/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">日本の伝統美をも取り入れた近澤さんのカスタムスタイルは、アメリカはもとより、近年ヨーロッパでも人気が高まってきている</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">高校時代はサッカーをやっていて、将来、有名選手になりたいと思っていました。その頃、ちょうどJリーグのはしりで、Jリーグに入ったチームメイトもいたけど、僕は誰も誘ってくれへんかったんです（笑）。それで、小学校時代のスーパーカーブームから乗り物への興味がずっとあったんで、ホンダの整備専門学校に入りました。<br />
　<br />
学校からは、4回くらい「辞めろ」って言われた。あんまり勉強しなかったんですね。授業の中でも、「こんなんやってどうするねん」っていうのは、一切勉強しなかった。好きなことには没頭するけど、その他は一切興味なし。そして、卒業してからディーラーの整備士になりました。<br />
　<br />
整備学校の時からバイクはずっと乗っていました。400㏄から始まり、ガラクタを片っ端から買って、いじって動くようにする。家でもやっていましたし、工場でもこっそり夜中に残って、自分の物を持ち込んでやってましたね。<br />
　<br />
バイクは多い時で8台持っていました。それを全部売ってハーレーを買った。残業してなんとか給料を13万円もらって、バイクのローンが12万円とか、そんな感じだったの。バイク買い過ぎて借金いっぱいあったから、滋賀のディーラーで5年頑張りました。売り上げでは全国の拠点の中で3カ月連続日本一になったし、サービスマンのコンテストでも優勝した。<br />
　<br />
ツーリングも好きで、いろんなところを旅したね。日本国内は下道で行けるところは全部。北海道が好きで、有休を取って何度も行ってた。だから嫌われてましたよ、会社では。ある時、会社で支給された工具が嫌で、自分の工具でやってたら、それを上司に咎められました。それから、「（ホンダのメカニックが）なんでハーレーに乗っているんだ」とも言われて。僕も負けず嫌いだから、支店の売り上げを全国で1番にして辞めてやったんです。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">アメリカでの最初の営業は自分が作ったバイクに乗って</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/613/3.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">「最初はバイクと寝袋持ってあちこち回りました」という近澤さんは、ハーレー好きの中では『Chica』で知られるカリスマ的存在だ</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">それから京都のハーレーショップで働きました。1990年頃、ハーレーは部品だけで2万、3万したので、ハーレーショップに行ったら安く買えるだろうっていう安易な考えでした。ショップは社長と工場長と僕だけ。当時、京都にはカスタムショップが1軒しかなかったから、忙しかったですね。3年頑張ったけど、4回腰を悪くしたんです。3回目で立てなくなって入院して。お客さんが「店はもう辞めろ。自分でショップを持て」って入院している間に段取りしてくれて、退院したら工場があったって感じだった。27の時です。店は開けて半年くらいでお客さんも増え出して。借りたお金、スポーンと返せました。そのかわり、24時間営業とは言わないけど、20時間営業くらいやってたかな。<br />
　<br />
その2年後に、アメリカで作ったバイクを日本に輸出する人から「バイクを作らへん？」って誘われて、「行くに決まってるがな」って。で、行ったのはサウスエルモンテ。工場がすべて鉄格子に囲まれていて、そこには4カ月しかいなかった。僕の思い描いたアメリカはパームツリーのビーチだったんですよ。「このままいたら死んでしまうわ」って、辞めて再び独立。トーランスに家を借りて、ひっそり始めたの。<br />
　<br />
こちらに来る時、日本から1番初めに買って改造したバイクを持ってきてたんですよ。英語はしゃべれなかったけど、バイクのショーやスワップミートでバイクを見せているうち、「これ、お前が作ったのか？」って話しかけてくる。そのうちバイクのメーカーやパーツ屋さんから「写真を使わせてくれ」と頼まれるようになって。で、1999年頃、アメリカの企業から「来年のモデルを作ってくれ」とか「カタログの表紙のバイクを作ってくれ」っていうオファーが来るようになった。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">見たことのない物を作ってやろう</h2>
<p id="answer_text">雑誌にどんどん出るようになって、今度はテレビから声がかかった。ディスカバリーチャンネルの『グレート・バイカー・ビルド・オフ』っていう番組では、9日間で1台のバイクを作ったんですよ。ユニコーンのイメージで。アメリカ人と飲んでいる時にユニコーンの話を聞いて、ピーンと来て、「ユニコーンは、みんな形は知っているけど、見たことがない。これや」って。今までにないスタイル、あり得ないスタイルってことで一気に取り上げられ、その番組は何度も放映されました。<br />
　<br />
そこから、注文が一気に増えました。バイクショーの招待もどんどん来るようになった。ハワイのバイクショーに招待された時、日系人たちが神様のように扱ってくれたんです。「有色人種の日本人が、バイク雑誌に出ることは、すごくうれしい」って。白人以外のカスタムビルダーは、それまでバイク雑誌に出たことがなかったんですよ。<br />
　<br />
カスタムメイドは僕が全部、一からやります。スーツと一緒で袖が長かったらダサイし、丈が長くてもダサイし、ピチピチ過ぎでもダサイ。だから、全部お客さんのイメージとスタイルに合わせます。好みからライフスタイルまで全部聞く。僕の色に染めてもしょうがないからね。僕のスタイルが好きだっていうお客さんがまず来て、そこからその人に合わせて作る。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">想い出のバイクなんてない。常に進化しているから</h2>
<p id="answer_text">僕は日本人だから、日本人タッチとアメリカ人タッチとミックスしてる。他の人には絶対にできないトータルバランスを考えてますね。日本人タッチには日本の伝統文化も入っている。バイクを作り出してから、仏像さんとか建物とか、神様のキャラクターとかに興味を持つようになった。昔はこれ、どうやって作ったんだろうって。今は、機械でプログラムしてサッと終わるけど、昔はどんな機械があったかとか、昔の人はどうやって溶接してたかとか。<br />
　<br />
昔の人ってすごいよね。例えばワイパー。ゴムの材質が良くなるとか多少は進化しましたけど、雨が降ったらワイパーしかない。最初からあのデザインで、何も変わっていない。変わらないもの、デザイン的にも誰が見てもホッとするもの。僕はそういうのが好きで、取り入れています。<br />
　<br />
仕事で口癖にしているのは、「better than nothing」「better than before」。ショーの時にお金をつっこんで、100ドルとか200ドルしか儲からなかったとしても、まあ、「何もないよりはいいやん」っていうこと。それとバイク作る時は、絶対いつもチャレンジ。昔作ったバイクは嫌なところを知ってるから、写真に撮られたくない。これまで作った中で想い出のバイクとかは基本的にないんですよ。常に進化してるから。<br />
　<br />
僕は負けず嫌いだからね。「くそー、絶対に負けたくない」という相手が常にいる。自分を信じるなら、とことん信じてほしい。僕はもともと体育会系なんで、ここアメリカは全国大会だと思ってる。世界中から「自分こそは」って思ってるヤツがたくさん集まって来てる。<br />
　<br />
「アメリカは自由だから、どうにかうまいこといくんやないか」って思ってるんだったら、止めた方がいい。自分で一旗揚げようと思うなら、みんなが寝てる時にも働くべきじゃないの？現状には満足はしない方がいいよね。ジャンジャン行かなあかんね。ビジネスで成功しているアメリカ人なんか、みんなそうやからね。<br />
　<br />
（2006年1月1日号掲載）</p>
<div class="clearfix"></div><p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/yasuyoshi-chikazawa.html">近澤泰良さん／カスタム・ハーレービルダー</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>松久信幸さん／「NOBU」「MATSUHISA」オーナー</title>
		<link>https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/nobuyuki-matsuhisa.html</link>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 21:43:59 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>成功とは1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならない 1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにオープンした「MATSUHISA」は、3年目にはザガットで日本食トップの地位に。アメリカにおける日本食レストランの草分けとして常に注目を浴びてきた。現在、全世界に「NOBU」は15店、1500人のスタッフを抱え、「まだ自分は成功していない」と謙虚に笑う。その陰には何度も転んで何度も立ち上がった、苦労と努力の長い年月があった。 【松久信幸さんのプロフィール】 まつひ &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/nobuyuki-matsuhisa.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
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										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">成功とは1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならない</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/572/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにオープンした「MATSUHISA」は、3年目にはザガットで日本食トップの地位に。アメリカにおける日本食レストランの草分けとして常に注目を浴びてきた。現在、全世界に「NOBU」は15店、1500人のスタッフを抱え、「まだ自分は成功していない」と謙虚に笑う。その陰には何度も転んで何度も立ち上がった、苦労と努力の長い年月があった。</p>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【松久信幸さんのプロフィール】</h3>
<p>まつひさ・のぶゆき◎1949年、埼玉県で木材輸入を営む家の3男として生まれる。小学1年生の時に父親を交通事故で亡くす。高校卒業後、東京の寿司屋・松栄で7年間修業をした後、24歳でペルーに渡り、パートナーで寿司屋を経営する。その後、ブエノスアイレス、アラスカを経て、1987年にロサンゼルスに「MATSUHISA」を開店する。1994年にはニューヨークに「NOBU」を開け、以来、ロンドン、ミラノ、ギリシャなど9店舗、展開し、2005年には、さらにダラス、バハマなど4カ所にオープンした。</p></div>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">「ここ、いいな」一瞬で寿司屋の虜に</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/572/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">ビジネスパートナーであり、友人でもあるロバート・デ・ニーロと</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">父親は材木の仕事をしていましたが、小学校に入って2カ月目に交通事故で亡くしたので、父親に対する憧れが強かったですね。パラオで撮った父の写真が家にあって、寂しくなるといつもその写真を見ていた。小さい時からずっと、父親みたいになりたい、外国に行きたいという憧れがありました。<br />
　<br />
6年生の時に、ひと回り上の兄に寿司屋に連れて行ってもらって、「いらっしゃい！」というかけ声、寿司屋独特の匂い、カウンターで食べるというスタイルに一瞬のうちに虜になったんですね。「ここ、いいな」。その時、僕も寿司屋になろうと決めたんです。高校を卒業して、東京の「松栄」という寿司屋に就職しました。<br />
　<br />
ペルー在住の日系人のお客さんが、よくペルーの話をしてくれました。リマの港は世界一の漁獲量ということで、非常に興味を持った。一緒にペルーで店をやらないかと誘われて、休みを取ってペルーに行ったんですよ。ちょうど結婚した時期で、お袋は明治の人間ですからひどく反対した。当時、ペルー移民は行ったら帰って来れないというイメージでしたから。<br />
　<br />
でも、僕はふたつ返事でした。「行きたい」。いったん日本に帰って女房と結婚式を挙げてペルーに戻りました。店はうまく行っていましたが、3年過ぎて、パートナーと衝突してしまったんです。というのも、僕がフードコストを考えていなかったから。いい物を食べさせたいと思うと、どうしてもいい物を仕入れてしまう。でも、出資者は、コストを下げて利益を出したいわけです。その後、何をするという予定もなく辞めてしまったのですが、ちょうど知り合いからアルゼンチンのブエノスアイレスに仕事の口があるというので、引っ越しました。その店には日本からの職人は自分だけで重宝されましたが、アルゼンチンは物価が安く給料も安い。1年間やって、このままでいいのだろうかという不安を抱き、帰国を決めました。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">開店して50日目で全焼。アラスカでの辛い体験</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/572/3.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption"></div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">4年ぶりの日本はオイルショックで景気が悪く、負けて帰った私には居場所がありませんでした。「もう2度、海外に出たい」という思いにかられました。そんなある日、アラスカで日本食レストランをやらないかと声をかけられました。<br />
　<br />
そこでは念願の自分の店を持つことになっていました。工事も手伝いました。そして、オープンから50日目のこと。パートナーから電話がかかってきたんです。「店が火事になっている」と。駆けつけてみると、本当に燃えている。全焼でした。<br />
　<br />
呆然と立ち尽くしましたね。保険にも入っていなかったんです。一銭もなくなったどころか、帰る飛行機代もない。しかし、そういう時にも助けてくれる人がいた。ある人が現金で飛行機代を出してくれました。<br />
　<br />
倉敷の実家に家族をあずけ、ロサンゼルスに単身、逃げるようにしてやってきました。1977年のことでした。最初、ウエストロサンゼルスのミツワというレストランで働きました。そこで借金を返しながら、日本の家族に仕送りをしました。妻と子供２人には、すぐにビザが下りなかったんです。<br />
　<br />
でも、悪いことは重なるもので、やっと買った車が盗まれ、仕方がないので自転車に乗っていると、その自転車まで盗まれてしまいました。でも、もう焦りがなくなっていましたね。アラスカでの経験で開き直っていました。仕事ができて、家族がいて、健康であれば、それでいい。そう思っていました。<br />
　<br />
2年経って永住権が取れると、ミツワのオヤジさんが「もっと自由にやりなさい」と追い出してくれた。その後、王将という店で働き、1987年、ビバリーヒルズのラシエネガ・ブルバードにMATSUHISAをオープンさせたんです。アラスカ時代のことがありましたから、店を持つことにはトラウマがありましたが、うれしかった。何より自分の好きなようにできるのですから。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">最初は名前も知らなかったデ・ニーロとの信頼関係</h2>
<p id="answer_text">ザガットに載ったのはオープン3年目のことですが、最初からザガットを強く意識したことはなかったです。結果的にそういう人たちが来るようになっただけ。ロバート・デ・ニーロとの出会いも、そんな感じでした。最初、誰だか全然知らなかった（笑）。でも、デ・ニーロは気に入ってくれて、しょっちゅう店に来てくれたんです。<br />
　<br />
1年くらい経って、彼から「ニューヨークで店をやらないか」と誘われたんです。「1度ニューヨークに来い」と飛行機もホテルも用意してくれ、彼の家に招待されていろんな話をしました。デ・ニーロはトライベッカという倉庫街のビルを買ったところで、「これがお前の場所だから」と案内してくれました。<br />
　<br />
彼とは4日間ずっと一緒にいましたが、4日目にお断りしたんです。チャンスをくれたことに感謝の気持ちはありましたが、当時、ロサンゼルスの店も3年目で、朝から晩まで働いて、スタッフも7、8人。これでニューヨークにも出すなんて無理。みんながサポートしてくれているロサンゼルスの店をつぶしたくない。アラスカ時代に戻りたくないという恐れがありました。<br />
　<br />
デ・ニーロは「わかった」と言って、その後も店に来てくれ、4年後、また「もういいだろう？」と電話をくれたんです。実は、これまでの経験から「パートナーシップはだめだ」という気持ちもあったのですが、4年間、自分を待ってくれたということで、彼を信用できたんですね。MATSUHISAも7年目で、ある程度回るようになっていたので、1994年、NOBU NEW YORKを出すことに決めました。その後、ロンドン、ミラノと9店舗を開けて、2005年にはニューヨーク、ロンドン、ダラス、バハマと4店増やしました。15店舗のほか、「セレ二ティー」というクルーズ船でも料理を出しています。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">大切なのは誠心誠意で一生懸命続けていくこと</h2>
<p id="answer_text">僕のビジネスは、あくまでも職人としての見方から始まっています。お店って出すのは簡単なんです。場所とお金さえあれば。ただ、そこにスタッフが育っていかないと難しいですね。スタッフには料理に「心を入れる」ということを繰り返し教えています。<br />
　<br />
ロンドンの店には「ノブさん教科書」というのがあるそうです。どこで修業をして、どんな気持ちで店を開けたか、ノブのフィロソフィーとして、マネジメントチームがトレーニングのために作ったんだそうです。知らないところで、そういう物ができているというのは驚きですが、そういう所で仕事ができることが自分でもうれしい。<br />
　<br />
スタッフは世界で1500人くらい。いろんな所に行って、マネージャーやシェフのみんなと話すことも僕の仕事。みんなを元気づけることもあるし、怒る時もある。誠心誠意、接していこうと努力しています。<br />
　<br />
人生で大切なのは、夢を持つことと、1つのことを続けること。「継続は力なり」という言葉が好きですが、1つのことを「続け切る」こと。一生懸命続けていれば、悪いようにはならないんですよ。自分がその仕事について、人生について、商売に対して一生懸命、誠心誠意を尽くしていればそれでいい。仕事をしている時は、お客様にどうしたら喜んでいただけるか考えることが原点です。<br />
　<br />
(2006年1月1日号掲載)</p>
<div class="clearfix"></div><p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/nobuyuki-matsuhisa.html">松久信幸さん／「NOBU」「MATSUHISA」オーナー</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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			</item>
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		<title>河辺美穂さん・美佳さん／シルク・ド・ソレイユ『O』出演者</title>
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		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 21:21:40 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>辛いことを前向きに捉えれば、何でも気楽に頑張れるはず（美穂） 辛い時を越えれば、必ず良いことが待っています（美佳） 世界中の一流アスリートで構成されるサーカス集団、シルク・ド・ソレイユ。その最高峰で演技を披露する、日本人の双子、河辺姉妹が、それぞれの過去、現在、未来を語った。 【河辺美穂さん・美佳さんのプロフィール】 かわべ　みほ／みか◎1974年生まれの双子姉妹。美穂が姉。共に5歳から競泳をスタートする。中学生の頃にシンクロナイズドスイミングに魅せられ転向し、それ以降2人共頭角を現す。美穂は、 &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/kawabe-miho-and-mika.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/kawabe-miho-and-mika.html">河辺美穂さん・美佳さん／シルク・ド・ソレイユ『O』出演者</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">辛いことを前向きに捉えれば、何でも気楽に頑張れるはず（美穂）<br />
辛い時を越えれば、必ず良いことが待っています（美佳）</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11259/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">世界中の一流アスリートで構成されるサーカス集団、シルク・ド・ソレイユ。その最高峰で演技を披露する、日本人の双子、河辺姉妹が、それぞれの過去、現在、未来を語った。</p>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【河辺美穂さん・美佳さんのプロフィール】</h3>
<p>かわべ　みほ／みか◎1974年生まれの双子姉妹。美穂が姉。共に5歳から競泳をスタートする。中学生の頃にシンクロナイズドスイミングに魅せられ転向し、それ以降2人共頭角を現す。美穂は、1996年アトランタオリンピック・シンクロ団体で銅メダルを獲得。美佳は、1999年ワールドカップ団体で銀メダルを獲得。姉妹では、1997年日本選手権デュエット2位。2001年、ラスベガスでシルク・ド・ソレイユが行うショー『O（オー）』出演のため、美穂が渡米するが、美佳は事故により断念。その後美佳は、日本で水中パフォーマンスチーム、トゥリトネスのメンバーとして、シンクロをモチーフにしたショーの振り付けから出演まで幅広く活躍。2008年、美佳は再度シルク・ド・ソレイユに挑戦。現在2人で、同ショーに出演している。</p></div>
</td>
</tr>
</table>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">シドニー五輪の選考で競技シンクロを断念</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11259/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">これまでずっと一緒だった2人が共に演じられる幸福を噛み締め演技をする河辺姉妹。</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text"><b>美穂：</b>妹と一緒に5歳から競泳を始めました。5人姉妹で、姉が競泳をやっていたため、その影響で親が自然と習わせたんです。ある日、シンクロの大会を見て、美佳と2人で「シンクロやりたいね」って。ちょうど競泳には飽きていたし（笑）。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>シンクロをしようと決心してから、クラブに通い始めたのが半年後。クラブは東京にあって、自宅の茨城から片道2時間。最初は親が許してくれなかったので、始められるまでに時間がかかりましたね。でもその分、やりたい気持が強まり、最初の3年くらい（中学生の間）は特に面白かった。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>私たちには競泳の経験がありましたから、シンクロへの転向は特に難しくなかったです。中学の時に、私たち2人のデュエットで全国大会に出場しました。競泳の経験とコーチの良い振り付けのおかげで、運良く行けたという感じ。双子だから息が合いやすいし、点数も出やすかった。足の形もよく似てるんで、それだけでも見た目がきれいなんです。その後、私は1996年のアトランタオリンピックに出場しましたが、まぐれもいいとこ（笑）。10人選考されて、うち8人が出場するんですが、私は9番目の補欠。でも決勝の時、私に出番が回ってきて、ほかの選手に付いて行くので必死。すべての記憶がなくなっちゃうくらい、本当に大変でした。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>レギュラーの選手は皆、半年間一緒に練習していますが、姉は、横で見ながらの練習。だから、本番直前での出場は、本当に大変だったと思います。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>オリンピックの後は燃え尽きちゃって。シンクロから遠ざかりたいとさえ思いました。今になってようやく、オリンピックの良さとか、あの時に自分を追いつめた経験がすごく貴重だってことがわかるようになりました。アトランタが終わってからは、2人共2000年のシドニーを目指しましたが、選考から脱落。そんな頃、アメリカに留学しているシンクロ仲間から、シルク・ド・ソレイユのことを聞いたんです。その時、「ダメもとでいいから挑戦したい！」って思いましたね。オリンピック選考会からも外れてしまったので、怖いもの知らずになっていたんでしょう。「恥をかいてもいいからトライしよう！」って。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>私は、シルク・ド・ソレイユなんて名前すら知らなかったんです（笑）。選考に外れてから2週間後、2人でラスベガスにシルクの『0』を観に行きました。「こんなシンクロもあるんだ」って思った瞬間、「やりたいっ！」と。でも、皆スタイルが良くて、もし私たちが入団しても浮いちゃうんだろうなって（笑）。ですから、合格なんてまず無理と思いましたよ。実際、オリンピック選手もたくさんいました。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>そして、2人揃って2000年3月にオーディションを受けたんです。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>結果は「採用するかもしれません」という、曖昧なお知らせでした。オーディションが終わってからは、合宿メンバーを選抜するんです。当時シルクは、次期メンバー候補向けの合宿をして、その年に何人補充するかを決めていたんです。その予備軍を集めて4カ月間特訓するんですね。要するに、アスリートからアーティストになるための訓練。それには姉が選ばれて。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>オーディションの出来は、妹の方が良かったので、どちらかが選ばれるなら…。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>私かなって。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>でも私が選ばれた。この時は、2人共ショックで悲しくて。「何だ、結局はオリンピック出場っていう名前なんだ…」って、現実を突き付けられた感じでした。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>私は、その時初めて、オリンピックに出れなかったことを悔やみましたね。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">姉はシルク入団、妹は大ケガで断念</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11259/3.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption"></div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text"><b>美穂：</b>シルクでの合宿経験は、衝撃的で、観るもの聞くものすべてが新しい世界。学ぶことが楽しくて仕方ありませんでした。最初私は、アーティスト的なものは何も持っていませんでしたが、それを引き出せるんだという思いにさせてくれました。そんな機会を与えられたのだから頑張りました。しかし、合宿が終わったからといって、役が来るわけではありません。役の空きがないと、何年も待つことになります。「もしかすると、呼ばれないかも」と不安でしたよ。その間日本で、『水の道化師』というシンクロのコメディーショーに出演していました。10カ月ほど待ち、ようやくシルクから声がかかったんです。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>私は、姉の合宿の翌年に合宿メンバーに選ばれました。でも、参加の2週間前にプールで滑って、膝を脱臼骨折。全治6カ月で、生まれて初めて人生、目の前が”真っ白”になりました。ほんとに真っ白になるんですよ。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>ショックと痛みでね。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>ショックの方が、断然大きかった。目標が、全部台無しですから。オリンピック、シルクの合宿、そして今回と、3度にわたって私だけ行けなかったという思いもありました。それからの6年間、姉はアメリカ、私は日本と、ずっと一緒だった2人が、別の世界で歩み始めました。私は姉から紹介されたシンクロのコメディーショーに参加・出演し、全国を回りました。そこでは出演はもちろん、振り付けや企画、演技指導などもこなし、自ら進んで色々と創り上げていきました。それまで私は、何かと姉に頼りっきりの性格だったんですが、姉と離れたことで、精神的にかなり自立できたと思います。しかしやはり夢が諦めきれず、最後のチャンスとばかりに、2007年にシルクのオーディションを受け合格したんです。ありがたいことに、その頃の日本の仲間たちからは引き止められましたが、諦められなかったんです。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p></p>
<h2 class="tittle">辛い時を越えれば先には良い時がある</h2>
<p id="answer_text"><b>美穂：</b>シルクのメンバーは皆、自分たちが楽しんで演技をやっています。私たちの場合は特に、2人がこの場で再会して一緒にやれていることが、とてもラッキーなこと。こんなチャンスをいただいて、こうして一緒に泳げることが、とても幸せです。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>私たちが出ている『O』のキャストは、全員で75人ほど。世界20カ国ほどから精鋭が集まっています。そんな中で一番大変なのは、常にモチベーションを高くキープすること。私たちは、週5日、1日2回の同じステージを繰り返します。でも人間だから、気分に波があるじゃないですか。でも、ショーの前には高めなければならない。それはすごく大変ですね。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>どんなスポーツでも仕事でも、それは同じことだと思いますが、私たちの場合、お客様はその時のショーしか観られない。だから、すべての瞬間をきちんと演技しなければならない。その分、余計にプレッシャーを感じるのかもしれません。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>次の目標としては、将来的には、日本に戻って一般の人に楽しいシンクロを教えたいと思っています。そのためにも、シルクで色々吸収して、日本にいた頃には学べなかったことを勉強し、それを教える面で活かしたいと思っています。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>私の人生は、ずっと水泳やシンクロ一色だったから、将来は別の世界に行きたいと思っています。その時のために現在大学に通い、次のステップに向けての準備をしています。実は、9月に子供を出産しました。『O』には子持ちのメンバーも多くいますから、シンクロも勉強も子育ても、一生懸命やらなきゃ(笑)。大変だけどすごく恵まれていると実感しています。これまでの人生を振り返ると、一番挫折しそうな時期が、勉強できた時だったと思いますね。辛い時期こそがとても良い経験だって気付けば、何でも気楽に頑張れるはず。不可能ってことはありませんから、ダメもとで挑戦することは、きっと良い経験になります。特に若い方は、どんどん挑戦してほしいですね。<br />
　<br />
<b>美佳：</b>私も姉とよく似ていて、辛い時を越えれば必ず良いことが待っていると思って頑張っています。自分の人生を振り返っても、辛い時の後には必ず良い時が来ていますから。<br />
　<br />
<b>美穂：</b>アメリカって色々大変だけど、自由に挑戦できる国。だから、頑張るというより、楽しんじゃうつもりで時間を過ごした方が良いかもしれませんね。<br />
　<br />
(2010年1月1日号掲載)</p>
<div class="clearfix"></div><p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/kawabe-miho-and-mika.html">河辺美穂さん・美佳さん／シルク・ド・ソレイユ『O』出演者</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></content:encoded>
					
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		<title>雲田康夫さん／Frec Food代表</title>
		<link>https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/yasuo-kumoda.html</link>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 20:53:24 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>自分を切羽詰まった状況に追い込んだから上手くいった。少なくとも、失敗したら日本に戻ればいいという気持はなかったね。 「Mr. Tofu」と呼ばれる雲田さんは、日米食文化の狭間で、全米に「TOFU」を浸透させた功労者。25年にわたる、その熱い思いをうかがった。 【雲田康夫さんのプロフィール】 くもだ　やすお◎1966年、青山学院大学法学部卒業、森永乳業株式会社入社。1970年代初頭のスーパーマーケット台頭により、同社の牛乳販売は不振に。そこで、健康ブームに沸くアメリカをターゲットに販路を拡大。19 &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/yasuo-kumoda.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/yasuo-kumoda.html">雲田康夫さん／Frec Food代表</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">自分を切羽詰まった状況に追い込んだから上手くいった。少なくとも、失敗したら日本に戻ればいいという気持はなかったね。</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11258/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">「Mr. Tofu」と呼ばれる雲田さんは、日米食文化の狭間で、全米に「TOFU」を浸透させた功労者。25年にわたる、その熱い思いをうかがった。</p>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【雲田康夫さんのプロフィール】</h3>
<p>くもだ　やすお◎1966年、青山学院大学法学部卒業、森永乳業株式会社入社。1970年代初頭のスーパーマーケット台頭により、同社の牛乳販売は不振に。そこで、健康ブームに沸くアメリカをターゲットに販路を拡大。1985年に単身渡米し、現地法人を設立した。以後幾多の失敗を繰り返し、1993年、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が豆腐の話をしたのをきっかけに注文が殺到。それ以降、アメリカの豆腐市場の形成に尽力し、「ミスター豆腐」と呼ばれる。2008年、第3回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産大臣賞を受賞。Morinaga Nutritional Foods, Inc.前社長、中京大学国際英語学部客員教授、日本食文化振興協会理事長。著書に、『豆腐バカ 世界に挑む』『売れないモノは俺に任せろ！』（共に光文社）</p></div>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">強烈なスーパーの追い上げにアメリカに豆腐市場を求めた</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11258/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">第2回日本食海外普及功労者表彰事業農林水産大臣賞の授賞式。当時の小泉純一郎首相と並んで。</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">1966年、大学を出て森永乳業に就職しました。1970年代初頭にスーパーマーケットの勢力が台頭し、主婦の買い物パターンが激変。宅配で価格が守られていた牛乳が、スーパーの「今日の特売品」で売りさばかれるようになった。そうなると、誰も宅配牛乳を買わなくなるでしょ。そこで、牛乳の配達網を活かして、ほかの商品も販売できないか全社で考えた。参入しやすく、しかも市場が大きい商品。それが、豆腐だったんだ。<br />
　<br />
そこで森永は、5年かけて、常温で長期保存できる滅菌処理した豆腐を開発。東京に大規模豆腐製造設備を用意した。しかし運悪く、1979年に中小企業を保護する法案が成立し、豆腐の販売には全国豆腐商業共同組合の許可が必要になったんだ。当然、豆腐組合は大企業の豆腐販売を許可しないよ。そこで、海外の日本人駐在員や、健康食の代名詞となった日本食の普及に便乗し、アメリカ市場の開拓を決定。それを機に、1985年の現地法人設立で渡米しました。40歳の頃だったね。<br />
　<br />
豆腐のコンセプトは、「低カロリーでコレステロールゼロの植物性高タンパク食品」。だから、アメリカ人には魅力的なはずなんだよ。でも実際食べさせると、「気持ち悪い」「味がない」「TOFUの発音が、TOE(つま先)に似ていてイヤ」と散々。しかも、原料の大豆は、当時のアメリカ人には家畜のエサ。<br />
　<br />
立ち上げから4年経った1988年のある日、追い討ちをかけるように全米紙『USA Today』が、「アメリカ人が最も嫌う食品は豆腐」と掲載しちゃって。その上、本社から撤退命令が出るし。一瞬、「こりゃダメだ」と弱気になったね。<br />
　<br />
そこで、豆腐にブランドネームを付けようと考えた。思い付いたのが、鉄板焼きの「BENIHANA」。「BENIHANA」ブランドなら、スーパーも買ってくれると思ったんだ。そこで、ニューヨークにいる創業者の故ロッキー青木さんにお願いに行ったら、ダメだって。そりゃそうだよね。でも、私も必死さ。「では、うちの豆腐を使って料理を出してください」とお願いした。すると、「『低カロリーでコレステロールゼロの健康食品です』と豆腐を説明したら、ステーキはどうなる？悪者になっちゃうじゃないか」って。で、どうしたらいいか相談したら、「自分が広告塔になりなさい」と、ご自身の経験を踏まえて、丁寧に教えてくださった。<br />
　<br />
ロサンゼルスに戻って、自分に何ができるか考えた。そして思い付いたのが、車のナンバープレートを「TOFU NO1」にすること。するとアメリカ人コンサルタントが、「『豆腐はノー！』って読めるよ」って。「うむ、なるほど…」。結局「TOFU A」にしたけど、走ってると、周りのドライバーが窓から親指を下に向けて「ブー！」って(笑)。<br />
　<br />
次にロサンゼルスマラソンで、豆腐の着ぐるみを着て走った。運悪く転んだけど、そこにTV局のスポーツレポーターがいて、着ぐるみを指して「それは何だ」と。痛いのを我慢して、TVカメラの前で「ノーコレステロール、ヘルシーフード！」と、あれこれ説明したよ。<br />
　<br />
その時、ロッキーさんが言ったことがやっと理解できた。ある文化に異質の食べ物を浸透させるというのは、優れた栄養面にフォーカスするだけではなく、自分が広告塔になってチャンスを逃がすなってことだったんだね。<br />
　<br />
それからも色々挑戦したよ。でも、スーパーで冷奴のデモをやったら、カツオ節にしょう油をかけるとクネクネ動き出してアメリカ人はひるむし、味噌汁を出すと、一気に飲んだおばあちゃんがヤケドして、止めろと言われるし。スーパーの店長に「そこを何とか」とお願いして、今度は麻婆豆腐のデモを始めた。すると人気は上々!「よしっ！」と思ったけど、客は口を揃えて「麻婆ソースをくれ」って。「ソースは他社製品だから…、豆腐を買って」と言うと、「じゃあ要らない」だって。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p></p>
<h2 class="tittle">桃栗3年、柿8年。豆腐は10年かかるね</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11258/3.gif" border="0" /></p>
<div class="caption">「TOFU A」のプレートを付けた車に腰掛ける雲田氏（上）と、ロサンゼルスマラソンで豆腐の着ぐるみで走る様子</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">年貢の納め時かって思いながら、ある米系スーパーの豆腐売り場に立ち寄った。すると、潰れた豆腐を買っているおばあさんがいたんだ。ビックリして「どうするの？」って聞いたら、「果物を入れてシェイクにするの」って。驚いたね。私の発想になかったから。早速会社に帰って、栄養士とフードスタイリストと社員を呼んで、果物入り豆腐シェイクを作ったら、これが美味い！そこで、「革命的な健康朝食『豆腐シェイク』」というふれこみでデモを開始。すると大盛況。結局ね、アメリカ人に豆腐を売るんだから、白くて四角い「日本」の豆腐を売る必要はなく、ぐちゃぐちゃの豆腐でいいんだよ。渡米6年目にして、それがやっとわかった。<br />
　<br />
とは言え、まだ軌道に乗らなかったし、相変わらず本社は撤退しろと言う。そんなある日ラジオを聞いていたら、当時のクリントン大統領の妻ヒラリー夫人が、「私は、夫のビルに健康食品の豆腐料理をすすめるんだけど…」と話していた。当時豆腐は「soy bean cake」「soy bean curd」と呼ばれていたのに、彼女は「TOFU」と発音した。すぐにホワイトハウスに豆腐1ケースと、『豆腐マジック』と名付けた自作レシピを送ったんだ。そしたら、ヒラリー夫人から礼状が来て。それで「アメリカで頑張ろう！」って決心したよ。<br />
　<br />
それ以降、「家畜のエサで作った健康食品」という意外性も手伝って、色んなメディアが豆腐を取り上げた。すると、全米から注文が殺到。自信が付いたもんだから、本社に「もう少しやらせてくれ」と言ったら、「自分で資金調達するならOK」とつれない返答。だから独立し、借金して1日10万丁生産できる拠点をオレゴンに建設したんだ。結局、順調に売れ始めたのは、10年ほどしてからだったね。桃栗3年、柿8年。豆腐は10年だよ（笑）。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">経験を後世に伝える。それが私の使命</h2>
<p id="answer_text">売れるかどうかわからない物を売る時は、莫大な時間がかかるのは当たり前。だけど、時間をかければ良いってもんでもない。要は本人が、本気でどうにかするという熱意を持っているかどうかだね。これまで、精神的な重圧から10円ハゲができたり、胃潰瘍になったり、血尿が出たり。周りからは「バカじゃないの」っていつも言われた。でもね、人から「バカ」って思われるレベルに達して、やっと事業が成功に向き始めるんだよ。<br />
　<br />
ある程度まで頑張ったら、次は発想の転換。固定観念に縛られず、柔軟な発想で物事を考えることが肝要だね。「他人のせいにせずどこまで頑張ったか、そして、どれだけ大胆に発想を転換したか。それを自問自答してください」って、いつも講演で話してますよ。<br />
　<br />
今は、多くの方から「最初は大変でしたね」と言われますが、、当時、英語ができない40男には、アメリカで豆腐を売り込む以外に、生きる道がなかっただけ（笑）。でもね、いつも自分を切羽詰まった状況に追い込んでいたから、うまくいったんだと思うし、失敗したら日本に戻ればいいという気持ちもなかった。でないと、人間は簡単な道に逃げちゃう。最近、『売れないモノは俺に任せろ！』という本を出しました。サブタイトルが「成功法則58」だけど、裏を返せば58話の失敗談。それを反面教師にして読んでもらいたいね。<br />
　<br />
最後にね、私の使命は自分の経験を後世に伝えることだと思ってる。最近の日本には、私の年代で元気のない方がたくさんいらっしゃるようだけど、彼らには、人生や社会人生活の中で蓄積した豊富な経験と深遠な知識があるはず。あれだけ苦しい時代を乗り越え、日本の成長の原動力となった世代なんだから。そしてそれは、日本の国にとって貴重な財産だと思うね。だから沈黙を守らず、「俺たちには、知識と経験を若者に伝える使命がある」って思っていただきたい。そうすれば、自ずと元気が出てくるはずです。<br />
　<br />
こんな私も、今になってわかったことはたくさんあります。だけど、若い世代にこれまでの私を惜しみなく伝え、彼らがその次の世代にまた伝えてくれれば、最高にうれしい。そう思って、毎日頑張ってますよ。<br />
　<br />
（2010年1月1日号掲載）</p>
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		<title>松井紀潔さん／松井ナーサリー・インク社長</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Lighthouse1260]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 05 Oct 2017 20:39:21 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アメリカン・ドリーマーズ]]></category>
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					<description><![CDATA[<p>稼いだお金は、自分の懐に入れるべきものではありません。それをすべて、地域貢献に使うのが正しいと信じています 1万円を握りしめ、太平洋を渡った松井さん。アメリカでの農業に大志を抱いた25歳は、世界一の蘭生産者に。これまでの道のりと、今後の生き方を聞いた。 【松井紀潔さんのプロフィール】 まつい　としきよ◎1935年、奈良県生まれ。1961年に、農業団体研修プログラムに参加し、カリフォルニアに1年滞在する。その後帰国するが、アメリカ体験が忘れられず再度渡米し、菊農園で働く。当時の所持金は1万円。その &#8230; <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/toshikiyo-matsui.html">Continue reading <span class="meta-nav">&#8594;</span></a></p>
<p>The post <a href="https://www.us-lighthouse.com/work/american-dreamers/toshikiyo-matsui.html">松井紀潔さん／松井ナーサリー・インク社長</a> first appeared on <a href="https://www.us-lighthouse.com">現地情報誌ライトハウス</a>.</p>]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<br />
<h2 class="tittle">稼いだお金は、自分の懐に入れるべきものではありません。それをすべて、地域貢献に使うのが正しいと信じています</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11257/1.jpg" border="0" width="200"/>
                  </td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">1万円を握りしめ、太平洋を渡った松井さん。アメリカでの農業に大志を抱いた25歳は、世界一の蘭生産者に。これまでの道のりと、今後の生き方を聞いた。</p>
<div class="clearfix"></div>
<div id="detail_data_block">
<h3>【松井紀潔さんのプロフィール】</h3>
<p>まつい　としきよ◎1935年、奈良県生まれ。1961年に、農業団体研修プログラムに参加し、カリフォルニアに1年滞在する。その後帰国するが、アメリカ体験が忘れられず再度渡米し、菊農園で働く。当時の所持金は1万円。その後、妻と娘を呼び寄せ、永住権を取得。独立して、本格的に菊栽培を始める。その後幾多の試練を経て、バラ栽培、蘭栽培へと転向した。現在は、資産100億円を超える世界一の蘭生産者。農園の従業員数190人、年商22億8500万円、純利益1億7600万円、蘭栽培の温室総面積は東京ドームの約6倍。蘭栽培としては世界一の規模で、全米の25％、カリフォルニア州の50％のシェアを握る。地域活動にも熱心に取り組み、2006年の農業リーダーシップ表彰受賞を始め、市長賞、郡会議賞などを多数受賞。</p></div>
</td>
</tr>
</table>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">日本の農業ではダメ。大志を抱き、単身渡米</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img02">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11257/2.jpg" border="0" /></p>
<div class="caption">巨大な敷地に並ぶ蘭の温室。全敷地面積は、東京ドームの約6倍</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">私は奈良出身で、実家は農業を営んでいました。23歳で結婚。長女も生まれました。しかし、「今の日本の農業では夢が実現できない。満足できず終わってしまう」と、心の中では思っていました。<br />
　<br />
1961年、25歳の時に1年間の農業団体研修プログラムに応募し、カリフォルニアに派遣されることになりました。妻と娘を奈良に残して行かなければなりませんでしたし、長男で家を出ることの後ろめたさや世間の目も気になりました。母は、「出て行くのはいいが、戻って来れないよ」と言いました。厳しい言葉ですが、それは母のはなむけの言葉でもあったんです。「出た以上は頑張れ」と。その言葉は、アメリカ生活で私をずっと支えてくれました。<br />
　<br />
1年が過ぎ、日本に帰国。しかし、アメリカのことが忘れられませんから、帰国して1年ほどで、すぐにアメリカに戻ることにしました。ビザの問題で妻と娘を置いて行かざるを得なかったため、また私1人での渡米。その時の所持金は1万円。しかし、自分には渡米しかないという情熱がありました。<br />
　<br />
2年後、永住権申請を始め、妻と娘を呼び寄せました。そして、1966年に永住権を取得し、1967年に独立。貯めた5千ドルを資本に小さな農園を借りて、菊栽培を始めました。妻も農園に出て働いてくれました。幼い娘は、あるアメリカ人の方が無料で面倒をみてくださったんです。今でもその理由がわからないのですが、後に生まれた3人の子供の面倒も見てくれて。その方の温かい気持ちのおかげで、今の私と家族があるわけですから、とても感謝しています。<br />
　<br />
私が栽培を始めたのは大輪菊。綿密なデータに基づいた経営計画と10年先を見越したプランを立て、運営しました。私が実行したことは、高品質の大輪菊を周年供給することでした。そして、委託販売を一切せず、1都市1店舗のみで販売。おかげさまで順調に業績が伸び、全米シェアの15％を占めました。<br />
　<br />
しかし、1970年代のオイルショックで、収益に陰りが出始め、バラ栽培に転向しました。アメリカでは、バレンタインと母の日にバラの消費が増えるのですが、私は、時代のキーワードは「カジュアル」だと睨んでいましたから、バラも年中気軽に利用されると踏んだのです。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p>　</p>
<h2 class="tittle">従業員への愛が足りない。それに気付いて大改革</h2>
<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="sub_img">
<tr>
<td>
                      <img decoding="async" src="/dreamers/11257/3.gif" border="0" /></p>
<div class="caption">蘭と名の付く品種の実に90％を栽培する松井ナーサリー</div>
</td>
</tr>
</table>
<p id="answer_text">カリフォルニアの海岸沿いを隈なく調査し、バラ栽培に適した場所を探しました。見つけたのが、今農園を営むサリナスだったのです。基本的にバラは、夏に育てるのが難しい花。しかし、サリナスの気候は夏でも涼しく、それを利用して新品種のベガというバラを栽培しました。誰もが欲しくても手に入らない「夏のバラ」を栽培し始めたのです。これも大当たりしました。どんどん夢が実現していくのを実感しましたね。<br />
　<br />
しかし、1984年の秋、メキシコ系の農業従事労働者の組合結成に火が着き、私の農園にも飛び火しました。私は従業員に、平均賃金の3割高で支払っていましたから、影響がないと高をくくっていたんです。しかし、組合は容赦なく賃金アップを要求。その後2年ほどは連続赤字でした。従業員のことを考えて運営してきたのに、なぜこうなったのか悩みました。<br />
　<br />
そんな時、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏著『心を高める、経営を伸ばす』という本に出会いました。その本を読んで、自分の経営には、従業員に対する「愛」が足りないと気付いたのです。<br />
　<br />
そこで早速、組織改革に取りかかりました。マネージャーと12人の課長職を全員メキシコ人にし、「コモスタール！(元気か)」「アディオース！(さようなら)」と、私からスペイン語で元気に話しかけるようにしました。また、作業効率の上昇を目指し、マネージャーの負担軽減のためグループ制を採用。出来高払い制にしました。すると、時間給制より20％ほど作業効率が上昇。給料が増えたため、社員にも活気が出ました。その結果、皮肉にも社長の私の給与は、社内で8番目に下がりました(笑)。<br />
　<br />
しかし、ここでも順調にいかないものです。南米産の安いバラが、市場を荒らし始めたのです。その状況は日増しにひどくなり、1991年頃には、周りの農園がどんどん廃業していきました。<br />
　<br />
そこで、私は蘭栽培に注目しました。当時のアメリカには蘭の周年栽培はなく、栽培技術は、愛好家の趣味の領域を超えていませんでした。しかし、大規模栽培を可能にすれば、高価な蘭が家庭の主婦でも手が届く花として普及し、廉価で市場に流せると私は考えたのです。「アメリカの台所に蘭を飾る文化を作ろう」。それが、私の命題でした。私は62歳、最後の挑戦だと思いました。<br />
　<br />
それから世界中を周り、蘭栽培を研究。商品選択の幅を広げ、誰でも買えるようにと、大・中・小のサイズを用意し、豊富な種類を栽培しました。その甲斐あって、ほぼゼロだった蘭の消費量が、8年で鉢植え花の第2位となるほど一般的になりました。手前味噌ですが、私がやってなかったら今でも蘭は高価で、一部の人しか楽しめなかっただろうと思いますね。<br />
　<br />
おかげさまで、現在は40エクタールほどの農園で、1千万鉢を栽培しています。胡蝶蘭を中心に、蘭と名の付く花の90％を生産。規模的には世界最大の生産場となり、蘭の鉢花作りとしては、全米25％のシェアを占めています。</p>
<div class="clearfix"></div>
<p></p>
<h2 class="tittle">最後は1万円だけ残れば良い</h2>
<p id="answer_text">私は、アメリカに来たからには移民同士でまとまるのではなく、現地の人の中で頑張ろうと決めていました。ですから、友人にも恵まれ、すてきな出会いを経験しました。やはり、日本を飛び出した以上、まずはその地域の人たちと上手く交わらないとダメです。アメリカで腰を据えるつもりならなおさら。日本を引きずって暮らすのではなく、アメリカの規則に従って生きなければなりません。もちろん言葉のハンデはありますが、気持ちの伝わり方に違いはありません。<br />
　<br />
私は、2004年に松井奨学基金を設立しました。そして、地元の恵まれない子弟の学業支援や奨学金に私財を使うことを遺書に残し、公表しました。なぜなら、地域の人々のおかげでここまで来られたという、感謝の気持ちがあるからです。私が与えてもらった機会を、ほかの人にも与える。これが私の使命だと思っています。<br />
　<br />
また、4人の子供が全員ハーバードを卒業し、もう教育費が要らなくなったことも基金創設の理由です。この先、稼いだお金を使う所がありませんからね。<br />
　<br />
サリナスは農業の街で、移民も多い。家計が苦しく、大学に行けない人もたくさんいます。そういった人たちに教育の機会を与え、人間育成を促す。そうしないと、社会が良くなりません。今は収益の10％を還元していますが、いずれは土地も全部売って、そのお金を地域貢献に使おうと思っています。おそらく、売れば100億円くらいにはなるでしょうから、今後25年間に2～3千人くらいは大学に送れるはずです。そしてその人たちが、20年、30年後に社会に還元してくれたら、こんなにうれしいことはありません。それが一番正しいお金の使い方だと信じています。<br />
　<br />
私の子供は跡を継がないでしょうし、押し付けるつもりもありません。ですから子供たちは、私の財産を1セントたりとも期待していません。もちろん、私も残しません。その代わり、自分が人を助けられるようになった時に、人のために尽くすことが人間としていかに尊いかという「利他の考え」を財産として残すつもりです。元を辿れば、私は1万円でやって来た男です。その分だけ手元に残ればいいんですよ。<br />
　<br />
私は死ぬまで農民です。汗を流して土地から作物を生み出し、そしてそれをまた土地に返す。今でも、農園で一番の働き者は私。100歳までこの調子でいくつもりです。<br />
　<br />
(2010年1月1日号掲載)</p>
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