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ライトハウス編集部
ライトハウス編集部

1)モノだけではなく、経験も売る万年筆屋さん
【経験価値で売る!】

マーケティング講座

みなさん、こんにちは! 阪本啓一です。
今回からは、日常生活や社会で起こった出来事をマーケティングの視点で見るとどうなるか、
というマーケティング・エッセイでお届けします。
お楽しみに。


ただのモノを売っているのではなく

 東京・南青山の書斎館
 骨董通りというメインの通りから少し横道に逸れたところに建つビル1階に店を構えています。何屋さんですか? と問われると、「万年筆屋さんです」と答えるしかないのですが、ここは単なる万年筆という「モノ」だけを売っているのではなく、「万年筆とともに過ごす知的生活」を提案しているのです。そして、店頭での万年筆選びから、購入に至るプロセス、さらには買ったあとの「万年筆ライフのメンテナンス」をひとつの総合的な経験として顧客に提供しています。


博物館のような店内

 およそ「文具店」らしからぬ、がっしりゴツゴツしたコンクリート階段を4段上がり、狭い通路を通り抜けると、ようやく店内に到達します。「小売店は顧客が入りやすく」などという小ざかしい「鉄則」は無視されています。

 まるで博物館のようなフロア設計。万年筆はガラスケースに収まっており、手で触ることはできません。1本ごとに丁寧な解説の書かれたカードが付されています。そう、そんなところも博物館です。顧客はここでショーケースを見ながら、万年筆が金属、樹脂、木などで構成されたただのモノではなく、人間の知的営みを演出する重要な道具なのだと認識します。じっくり見て回るうち、どうしても実際にこの手に取り、書き味を試したくなってきます。そこで、だれかスタッフの人のアシストがほしいな、と思います。その気持ちの動きをスタッフは的確にキャッチします。そして「すみません…ノ」と顧客が言うと即座に、接客用の机に席を用意します。


顧客を舞台に上げる

 顧客が腰かけるや、目の前にコーヒー。うやうやしく革の下敷きが拡げられ、試し書きの舞台の準備開始です。これで顧客は「万年筆経験」という名のショーの舞台に上がります。

 「どの万年筆をご用意いたしましょうか」と言いながら、スタッフは手に白手袋を「すぃ」、とはめます。その、背筋の伸びた誇り高い姿勢に、顧客のプライドもくすぐられます。

 「あれとあれを」、と言うと、ショーケースから出してきてくれます。あるいは、「色は黒で、あまり太くないものを」程度のアバウトなリクエストでも、丁寧に選んできてくれます。そして、万年筆1本ずつにまつわる物語を語り始めます。

 私はイタリア製のデルタというメーカーのものを選びました。商品通番号がついていて、私のペンは「#1516」。「世界でたったひとつの、私だけのもの」という思いが高まります。


1万円札とモノの等価交換ではない経験価値

 私がした体験は、表示金額に等しい1万円札数枚と、万年筆との等価交換ではありません。貨幣経済の原則で言うなら、7万円の購買活動は1万円札7枚とモノとの交換です。しかし、書斎館での買い物経験は、それにとどまるものではなく、プラス・アルファの経験価値も一緒に私は手にしているのです。

 万年筆は、言ってみればどこでも売っています。ネットで買うことも可能でしょう。しかし、それだと、単なるモノと貨幣との交換になってしまいます。いま私の手元にある万年筆には、書斎館でのスタッフとのやりとりやコンサルティング、そして、今後この万年筆を使い続ける限り、スペアのインクカートリッジを買う場合を始めとして、ペン先のクリーニングなど、何かあったらすべて、この店に相談しつづけるだろう「店のドア」もくっついているのです。

 数カ月後、インクカートリッジが切れてしまった時、あらかじめ前日に在庫のあることを確認した上で、店を訪れました。祝日ということもあって、店内は混みあっています。接客用の椅子は満席で、スタッフは私の相手をする余裕がありません。ショーケースを眺めていると、あるスタッフが、「長くお待たせしてしまい、申し訳ございません」と寄ってきました。接客中の顧客のペンをケースから出すついでに声をかけてくれたのです。そして「昨日お電話いただいたお客様ですね?」。いつも舌を巻く接客で驚きの経験をくれる店です。この「うれしいびっくり」も私が書斎館を愛する理由です。


(2004年12月1日号掲載)

【文・阪本 啓一