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アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)

現地情報誌「ライトハウス」が長年に渡り連載してきた人気コラム「アメリカで働く」は、アメリカで働く日本人・日系人、100名以上の皆さんへのインタビュー集。業種も、職種も異なる100名以上の皆さんそれぞれにとっての「アメリカで働く」とは?アメリカでの"キャリア"や"仕事"が見えてきます。

ライトハウス編集部
ライトハウス編集部

Kevin's Entertainment President & CEO(その他専門職)

三石勇人さん

思いがけないチャンスが転がっている
それがハリウッドの面白いところ


カナダのトロントで生まれ育つも、人一倍日本人としての意識を強く持ち合わせた三石さん。高校時代はニューヨークで、大学から20代全般を日本で過ごす。英語ができるからと外資系企業を選ばず、日本企業に就職。そこでの経験とMBA取得を経て、現在は日米エンターテインメント界の架け橋になるべく邁進している。


【プロフィール】みついし・はやと
カナダ生まれ。日系小売商店経営の両親の下、16歳までトロントで暮らす。慶応義塾ニューヨーク学院(高等部)への進学と共にアメリカに移り、日本人学生の中で生活をスタート。19歳で、慶応義塾大学商学部進学のため、初めて本格的な日本生活を開始する。1999年、卒業を機に日本の商社に就職、環境ビジネスを担当。2005年の退職まで、ビジネス全般を学ぶ。同年UCLAのビジネススクールに入学し、07年にMBAを取得。翌08年、Kevin's Entertainmentを設立した。

独裁的な性格にハッと気付いた高校時代

メンバー全員で撮ったスナップ。
自分1人だけではなく、メンバーと共に
成長していきたいと、三石さんは語る

私は、カナダで日系小売商店を経営する両親の下で生まれ育ちました。父は教育にとても厳しい人。私が日本語を不自由なく使えるのも、父が厳しかったおかげです。家では日本語を話さないと叱られましたし、妹と話す時も徹底して日本語。その上父は、家では絶対的な存在でしたから、決して逆らえません。「自分がやると言ったことは、必ず実行する」という意識も、父から叩き込まれました。
 
当時の私は、日本人としての意識がとても強かった気がします。6歳から剣道を始めるなど、多民族国家のカナダで、「自分は日本を代表しているんだ」という意識を持って生活していました。
 
16歳の時、親元を離れて慶応義塾ニューヨーク学院(高等部)に進学。理由は、カナダ以外の場所で挑戦してみようと思ったからでした。初めての1人暮らしや日本人だけの学校生活で、特に困ったことはありませんでした。むしろ、親から離れられてうれしいくらい(笑)。まだ創立2年目の新設校でしたから、自分で剣道部を作っちゃいました。昔から、何でも自分が先頭でないと嫌なタイプ。時にはちょっと独裁的でした。自分が立ち上げた剣道部でも、「皆を引っ張って行くのは俺の仕事」と、体育会系のノリでしたね。

でもある時、「お前、その性格だと皆とやっていけないよ」って同級生に言われたんです。それで「ハッ」としました。それまで、そんな自分の性格には気付いていませんでしたから。それ以降は、周囲の状況に合わせるよう気を遣うようになり、逆にその方が、物事がスムーズに進むこともわかりました。


日本の中堅商社でビジネス全般を学ぶ

高校卒業後は、慶応義塾大学商学部に進学しました。大学では、剣道サークルに参加。代表をサポートする主務を務め、仲間とも深い絆が生まれました。また、商学部内のゼミで構成される「商学部ゼミナール委員会」の常任委員を務めると同時に、、各学部のゼミナール委員会を統括する「全塾ゼミナール委員会」にも、商学部代表として就きました。いわゆる慶應のエリート集団のような委員会でしたが、私は、頭が良くて選出されたというよりは、日本以外のバックグラウンドを持った、ユニークな人材として選ばれた口。委員会に新風を吹き込む「多様化要員」みたいな存在でしたね(笑)

大学卒業と共に、日本で就職活動を始めました。私は海外生活が長かったのですが、外資系企業ではなく日本企業に就職し、日本のビジネスのやり方や意思決定プロセスを勉強したいと思っていました。将来的にアメリカで就職する際、日本の企業で、日本のビジネスマンとして働いた経験の方が役に立つと思ったんです。いずれはアメリカでMBAを取ろうとも考えていました。

当時、私の会社選びは、「中規模で全体が見渡せる会社」が基準でした。結果的に内定したのが、松田産業という中堅商社。1999年のことでした。その会社は、貴金属、環境、食品の3部門で構成されており、私は環境部門に魅かれて入社。当時は、「どうせお金を稼ぐなら、良いことをして稼ごう」って、社会正義に燃えていました(笑)。

運良く会長にも気に入られ、新入社員にも関わらず色んな経験をさせてもらいました。入社当初は環境部門ではなく、本社の経理や経営企画室を歴任しましたが、2001年1月には、ドイツとの環境合弁会社「ゼロ・ジャパン」に念願の出向。そこは小さな会社だったため、営業、経理、総務、法務など、ビジネス全般を任され、色々勉強できました。
 
04年にゼロ・ジャパンの社長にMBA受験と退職を相談したら、「やりたいことをやれ」って応援してくれたんです。推薦状まで書いてくれ、辞める私に、今度は松田産業本社の社長が功労金までくださった。金額よりも、その気持ちがとてもうれしかったですね。


爛ールでユニーク"これをキーワードに渡米

学校は、UCLAのビジネススクール(UCLAアンダーソン:以下アンダーソン)に入学しました。そこで、エンターテインメントビジネスを専攻。元々好きなエンタメの世界とビジネスが一緒になったその分野こそ、自分のやりたいことだったからです。
 
当時私は30歳。日本人のステレオタイプを壊すべく、学校では「”クール&ユニーク”な日本人」を意識して行動していました。ある日、学校で「Anderson's Next Top Model」という大会がありました。これは、『America's Next Top Model』というTV番組を模した企画で、投票で学校のトップモデルが選ばれるんです。そこで、見事私が優勝(笑)。金髪で背が高く、もっとかっこいい男性がいっぱいいたなかでの優勝に、大きな自信が付きました。「日本人でもいけるんだ!」って。

アンダーソンには、世界中のエリートが集まります。彼らと勉強をし、遊び、けんかしたりして一緒に過ごすことで度胸と自信が付きますし、難しいことを話されても、相手と同じレベルで会話ができ、どんな場面でも圧倒されなくなりました。
 
07年6月にアンダーソンを卒業し、就職活動をはじめました。在学中から色んなエンタメ企業でインターンをやっていましたが、やはりこの業界に入るのは難しい。2カ月ほどは無職でした。ある日友人から、「20世紀フォックスで日本語が話せてファイナンスができて、エンタメに精通している人材を探している」と電話があり、面接を受けると運良く契約社員として合格。その間、正社員になるための就職活動を続けるものの、脚本家の大規模なストライキが発生し、ハリウッドは大混乱に。フォックスも正社員の雇用を凍結。このままではまずい。どうすべきかさんざん考えた結果、「起業」することを思い付きました。そして、日本のエンタメとハリウッドをつなげる架け橋となるべく、08年の3月に「Kevin's Entertainment」を設立しました。


日本の存在感をハリウッドで高めたい

現在は、「タレントマネージメント」「コンサルティング」「映画やテレビのプロデュース」などを主要業務としており、タレントは3人抱えています。エージェントは仕事を取って来るのが仕事ですが、マネージメントは、タレントと共にキャリアを築くのが仕事。オーディション情報の取得や応募方法の伝授、タレントのプロモーション、レジメの書き方、エージェント探し、エージェントや制作会社との交渉、そして心のケアまで幅広く行っています。とは言え、ようやくスタートラインに立てた感じ。これからは、ハリウッドで活躍しているプロデューサーやディレクターなど、猖槓のハリウッド人脈〞を構築する必要性を感じています。
 
ハリウッドって、実際住んでいると普通にチャンスが転がっているものなんです。逆に、日本よりも挑戦しやすい環境で、やればやるほど自分に返って来るし、予想していないチャンスが舞い込んで来る。それがハリウッドの面白いところ。
 
現在日本のエンターテインメント業界は、凄い勢いで変化しています。収益の柱がテレビスポンサー一辺倒だったのが、良質の作品を作ることによって、消費者から直接収益を得ようというハリウッドスタイルに変わりつつあります。そして、日本の制作側も国内だけではなく、世界に受ける作品を作ろうとしています。そういう時に私が日米の間に立ち、日本の存在をハリウッドで高めたいと思っています。「ハリウッドでビジネスするなら、Kevin's Entertainment」と言ってもらえるように、日米のエンタメ業界をつなぐ橋渡し的な存在になる。それが私の夢ですね。


(2009年12月1日号掲載)