「好きなことを仕事にできたらどれだけ幸せな人生が送れるだろう」とは誰もが思うこと。一方で「人生、そんなに甘くない」とストップをかける別の自分もいます。ここに登場するのは「熱中できる趣味を仕事にした」人々。趣味だった頃の夢、仕事にした今のやりがいと苦労やビジョンについて伺いました。
- スケートボード短期留学コーディネーター キョウコ・ヒックスさん
- ワインショップ「Monopole Wine」オーナー サリー・宮城さん
- ヨガウエアブランド「urbanretreat」ディレクター Makkieさん
- オーガニックビーガンレストラン「VegiLicious」 オーナー 中尾昭さん
スケートボード短期留学コーディネーター
キョウコ・ヒックスさん
関わった子どもの中にはオリンピック日本代表も
助けてくれたスケートボードに今は恩返しの日々
プロのスケートボーダーだった息子さんを長年支えてきたキョウコさん。今は自身も楽しみながら、日本からスケードボード留学で渡米してくる子どもたちのお世話に奔走しています。
ー 今、お仕事にされているスケートボードとの出会いについて教えてください。
きょうこ・ひっくす◉東京都出身。埼玉県川口市で子ども服店を経営していた18年前、カリフォルニアに子ども連れで出張した際、スケートパークを見学したことで、次男がスケートボードにのめり込み、プロのスケートボーダーに。その後、息子の練習や大会出場で日米を往復、次男が20歳になった2015年にアメリカに移住し、アメリカ人と再婚。1年前に自身もスケートボードを始めた。現在は本場アメリカでスケートボードの短期留学生を受け入れるコーディネーター業に携わる。ロサンゼルス近郊に夫のジャメールさん、猫のタイガーと暮らす。 ブログ
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2001年、私の次男の瑛生(杉本瑛生)が6歳の時にオレンジ・カウンティーのVans Skate Park, Orange(スケートパーク)に行き、スケートボードを見て、「やってみたい」と言ったことがきっかけです。
私は、2人の息子を持つシングルマザーで、埼玉県で子ども服店を経営していました。その仕事の買い付けで、定期的にアメリカに子どもたちも連れて来ていたのですが、何か楽しい思いをさせたいという気持ちで連れて行ったのです。
それがきっかけで瑛生はスケートボードを始めて、子どもながらプロのスケートボーダーになりました。日本には当時、スケートボーダーと言えば大人しかいなくて、アメリカと状況が大きく違いましたね。アメリカは小さい子どもでも活躍していましたから。日本で瑛生は注目されましたが、それはキッズプロが珍しかったということもあるかもしれません。
私は次男の瑛生が20歳になった段階で子育て卒業ということで、日本からアメリカに移住して来ました。そして、それまでは息子のスケートボードの練習や試合を見るだけだったのが、何か自分自身もエクササイズを始めようと思い立ち、それだったら瑛生と同じスケートボードに挑戦してみようかという気持ちになったんです。始めたのは2018年5月でしたから、48歳でした。
48歳でスケートボードを始めた。
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やるからには目標を定めました。目標は、ベニスビーチのスケートパークにある蛇行したコースをマスターすること。ベニスビーチは息子の練習でよく訪れていたし、その関係でスケートボード仲間の友達も多いんです。まだまだ、蛇行したコースをマスターする段階には到達していませんが、10年後なら達成できるのではないか、達成したいという気持ちで日々、練習に励んでいます。運動は若い頃は陸上やバスケットボールをやっていました。リレーの選手もやりましたけど、何十年も前の話です(笑)。でも、運動神経がいいから大丈夫だ、簡単だと過信すると、スケートボードでは怪我をしますからね。私はずっと瑛生がやっているところを18年間見てきましたから、そのことが分かります。自分自身は少しずつでも焦らずコツコツと練習していきたいと思っています。
ベニスビーチには女性だけのスケートボードの大会もあるんです。2020年5月の大会に、30歳以上の部門で出場する計画です。アメリカのスケードボードは層が厚くて、何十年とやっている人も大勢います。そういう人たちが、私のことを仲間に入れてくれて親切にしてくれることが、頑張れる理由でもありますね。
ー 今はお仕事もスケートボードに関係したことに携わっているのですね?
また、息子の話に戻るのですが、瑛生はスケートボードの日本国内の大会で勝ち続けていたので、さらに上を目指すため、小学校5年生の時にアメリカ進出を決めました。それから中学校3年までは練習の拠点をアメリカに移していました。その時にいろいろなスケートパークに練習に連れて行き、多くの大会に出場しました。スケートボードのコミュニティーにも参加し、人々とのネットワークも広がりました。
息子の時は、彼がスケートボードを続けるためには、親の私が一緒に(アメリカに)来て世話をするしか他に方法がありませんでした。でも、こういう子どもをアメリカにいる人が受け入れてくれて、スケートパークに連れて行ってくれたりしたらどんなに助かっただろうと思いました。だったら、アメリカに移住した自分が、今度は日本の子どもたちのためにやってあげられないかな、と思うようになったのです。
2020年の東京オリンピックの正式種目に選ばれたこともあり、スケートボードには日本でもさらに注目が集まっています。オリンピックへの出場を目指している子どもはもちろん、練習するには本場、アメリカの環境が一番理想的です。しかし、親御さんがお子さんを連れて来るのは、スケートボードの事情を調べることも含めて簡単なことではありません。どうしていいか分からない、という声も聞きました。そこで今、私は、日本からスケートボードの短期留学に来る子どもたちのコーディネートに携わっています。私自身も瑛生もスケートボードの世界に助けられたという感謝の思いがあるので、その恩を返す時だと思って、日々やりがいを感じてお迎えしてお世話をしています。
ー コーディネーターのお仕事について教えてください。
スケートボード短期留学の子どもたちと。
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まず、こっちに来たいというお子さんのスケートボードのレベルや希望などをしっかりと確認した上で、滞在期間中にどのスケートパークで練習するか計画を立てます。ずっと同じパークで練習するのではなくて、せっかくこちらにはいろんな場所に練習場があるので、1日に2、3カ所を回ることも珍しくありません。そして練習している様子のビデオを撮影します。そうすることで日本にいる親御さんにも安心していただけるようにです。
練習するからには目標も決めます。いる間に板をクルクル回せるようになろうね、といった無理のない目標を決めて、その達成に向けて指導もします。ですからコーディネーターであると同時にコーチの役割も担っています。そして私がこれまで、瑛生と自分のスケートボードの世界で培ってきた知識とネットワークを惜しみなく活用しています。
滞在中、子どもたちの朝と夜の食事は私が調理しています。その待ち時間にジャメール(再婚したアメリカ人のご主人)が子どもたちに英会話を教えています。せっかくアメリカに来ているのでアメリカの日常生活を味わえるような経験を楽しんでもらいたいのです。
宣伝は私のブログと口コミだけです。仕事とは言っても半分ボランティア的な部分もあるので、子どもとスケートボードが大好きでないとできないことだと思います。実際に関わらせていただいて、スケートボードの世界最高峰の大会、ストリートリーグで優勝したお子さんもいます。他にもオリンピックのスケートボードの日本代表に選ばれたお子さんもいます。アメリカでの練習が日本での代表選考会での成果につながったと信じています。でも、そうやってついつい子どもたちに入れ込んでしまい、オーバーワークしてしまうことが今の悩みです(笑)。
ー キョウコさんにとってスケートボードとはどんな存在ですか?
ガーデナのスケートパークで。
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私を常に助けてくれる存在です。今、私は英会話を習うためにアダルトスクールに通っています。クラスメイトと話すと、彼らにはアメリカ人の友達はほとんどいないと言うのですが、私はスケートボードのコミュニティーを通じてたくさんの友達に恵まれ、助けてもらっています。
スケートボードに助けられたのは息子も同じです。我が家のように母子家庭でも、息子がスケートボードを続けることができてプロになれたのは、200〜300ドルあれば板を買うことができるからなのです。スノーボードだったら、最初からお金がかかって、とても続けることなどできませんでした。
今後もアメリカでスケートボードを練習したいという方がいらしたら、精一杯お世話をさせていただきたいと思っています。
ワインショップ「Monopole Wine」オーナー
サリー・宮城さん
開眼して20年、パサデナでワインバー併設のショップ経営
ワインのおいしさや楽しさ知ってほしい
最初は週末の楽しみだったワイナリー巡り。その後、大学でワイン造りを学び、ワイナリーでのボランティアに精を出し、ワインショップで研修。現在はワインショップの経営者に転身したサリーさんに話を聞きました。
ー 今、お仕事にされているワインとの出会いについて教えてください。
さりー・みやぎ◉東京都出身。日本での就職を経て、1988年に留学を目的に渡米。卒業後、ロサンゼルスの旅行会社に就職。その後、ワシントン州カークランドに移り、航空会社での営業やゲーム会社で事務職に携わる。週末のワイナリー通いがきっかけでワインクラブに加入し、ワインに目覚めると、カリフォルニア大学デービス校のオンラインコースでワインメイキング・プログラムを修了。2014年にロサンゼルスに転居し、近郊の街パサデナの中心にあるワインショップ、Monopole Wineでインターンとして働き始める。2018年11月には同店の経営権を買い取りオーナーとなる。ロサンゼルス近郊在住。Facebook
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20年近く前のことになります。ワシントン州シアトル近郊のカークランドというところに住んでいた時に、近くにChateau Ste. Michelleという大きなワイナリーがあったのです。そこに、日本から遊びに来た友人や家族を連れて行ったりしていました。そのうち、Chateau Ste. Michelleのワインクラブのメンバーになって、初心者向けワインクラスやイベントに参加するようになったんですね。
でも、当時の私にはワインの知識がなかったし、それほどワインも飲んでいなかったので、正直、10ドルくらいのスーパーで買うワインの方がおいしいって思っていたんです。ワインクラブでは高いワインのテイスティングもできたのですが、高いのになんでこんなにおいしくないんだろうって(笑)。
ー その後、本格的にワインに引き込まれたきっかけとなったのは?
ワインクラブで開催されたワインとチーズのペアリングのイベントに参加したことですね。ワインの印象が、チーズや食べ物によって全然変わってしまうこと、ワインが時を経て熟成するところに興味を持ちました。
そのうち、私がワインクラブに入会した頃は、Chateau Ste. MichelleとColumbia Wineryくらいしかなかった周辺のワイナリーの数が、ワインブームでどんどん増えていきました。そこで私もあちらこちらのワイナリーやテイスティングルームに足を延ばすようになりました。ワシントン州の東部やコロンビアバレーまでワインテイスティングに行ったりするようにもなりました。
そうやっているうちに、ワイナリーの雰囲気、発酵の匂い、ブドウ畑のきれいな景色、ワインと一緒に楽しむ食事など、どんどんワインに惹かれていくようになったのです。そこで、今から考えるととんでもないことですが、自分でワイナリーを経営できるようになったらいいなという将来設計図を描くようにまでなっていました。
ー 当時はどんなお仕事を?
ゲーム会社で事務の仕事をしていました。ですから、ワインは週末と夜だけの楽しみだったのです。
ー 趣味からワイナリー経営へと行動を起こしたのですね?
まず、カリフォルニア大学デービス校で、ワインメーキングプログラムを2年間学びました。オンラインのクラスですけど、クラスメイトとのやりとりもできて、彼らはすでにワイナリーを経営している人などワインのプロフェッショナルばかりでした。経験がない私は、クラスで知識を習得しようとしても実際に分からないことが多く大変でした。
そこで、時間がある時にワイナリーにボランティアに行くようになって、少し実地で経験し、クラスで勉強している内容が意味を伴ってピンとくるようになりました。ボランティアとしては、収穫したブドウがベルトコンベアの上で運ばれてくる工場で、ゴミや枝、虫を拾ったりする作業を担当しました。ソーティングと呼ばれる段階ですね。ボトリングの作業も経験しました。
当時の目標はワイナリー経営でしたから、家でブドウを栽培し、ワインを造ったこともあります。ブドウを潰して酵母を入れて発酵させればワインは造れるのですが、おいしいワインを造るための要素はほかにもいろいろあって、自分で、市場で売られているワインよりも優れたワインを造るのは至難の技、と思うようになりました。結局、クラスで学んだり、ボランティアしたりしたくらいではワイナリーの経営なんて無理、と挫折しました。ですが不思議なもので、ワインって勉強しだすと、もっともっと深く知りたくなるものなんですよ。やればやるほど奥深さに気付かされました。
ー ワインショップを経営するようになったきっかけは?
パサデナの中心街に位置するお店の前で。
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ワイナリー経営の夢は消えましたが、ワインに関する仕事は何かやりたいという気持ちを抱えたまま、ロサンゼルスに引っ越してきました。そこで新しい仕事を探していたら、今の店がインターンを募集していたんです。経験がないからダメ元で応募したところ、幸運なことに受け入れてくれました。それが私にとっての大きな転機でしたね。
それで、昼間は別の仕事で会社勤めをしながら、夜と週末にここでお手伝いを始めました。2人のオーナーは、本当にワインの知識が豊富で、ソムリエの資格も持ち、スタッフもワインオタクのような人ばかりで、彼らからワインについていろいろ学びました。イタリアやフランスなど世界各地のワインやカルトワインについても詳しかったですね。
ますます興味が湧いて学んでいった結果、2年ほど前にサーティファイド・スペシャリスト・オブ・ワインという資格を取得しました。その資格を取った後、前のオーナーが店を売りに出すことになり…。私はこの店が大好きだし、もしなくなってしまったら嫌だ、そういう気持ちに後押しされたことで、思い切って店を買うことにしたんです。酒屋になるつもりはなかったのですが(笑)、これは自分にとって二度と来ないチャンスかもしれないという気持ちもありました。
ー ワインショップのオーナーとしてやっていく上でのやりがい、そしてご苦労とは?
楽しいですね。儲けるのは本当に大変で、リテイルは儲からない商売だと思います(笑)。今は競争が激しく、スーパーやネットでもいろいろなワインが手に入りますから。
それに苦労しているのは仕入れです。ここのワインは私とスタッフが試飲した上で買っているのですが、商品選びをしていく上で、自分たちが気に入るだけでなく、より多くの方に気に入ってもらえるものを選び、さらにそれを納得の値段で提供しなければなりません。
クオリティーが高くても値段が高いものばかり置いていては、お客さんに「ここの店は高いものばかり」と思われてしまうし、値段が手頃で飲みやすいワインばかり置いていても「ここの店にはつまらないワインしかない」と思われてしまいます。
ワイン通の方からワインを今まであまり飲んだことがない方、美食家やビーガンの方にまで楽しんでいただけるような、できるだけ幅広い品揃えに気を配っています。
苦労は毎日ですね。なんでこれをやることになっちゃったんだろうと思ったりもします。高いワインを目の前で盗まれたこともあります。時間も会社勤めのように決まっていませんから、アポなしで業者さんが来たり、お客さんももちろん来るし、それぞれに対応しなければならなくて、決断しなければならないことやスケジュールの調整、店の家賃、スタッフの給料、業者への支払いで、頭の中がゴチャゴチャしてしまい、優先順位が付けられず、初めの頃はストレスだらけでした。最近はそのストレスをだんだん乗り越えられるようになりました。それもまた、助けてくれるお店のスタッフのおかげです。
ー お仕事にしてしまうと、リラックスしてワインを楽しめないのでは?
まだワインを仕事にする前の2010年、ドイツでアップルワインを楽しむ。
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プライベートでワインを飲むときも、このワインはどう表現したらいいだろう、どういう料理に合いそうか、いくらくらいだったら買うかな、とか考えてしまいます。でもそれもまた、楽しいですね。
ー 今後のお仕事の展開について教えてください。
幅広い層の方がおいしいワインを楽しめる店として、気軽に立ち寄れる空間を提供できたらと思っています。ワインショップだけでなくワインバーも併設しています。フライトのメニューは毎週変わりますし、ブドウの種類を当てるブラインドテイスティングも毎週金曜日に開催しています。さらに、毎月1回ワインとチーズペアリング、ジャズの生演奏など趣向を凝らしているので、ぜひ多くの方に来ていただきたいです。スタッフは皆ワインが大好きで、フレンドリーで美食家、世界を旅している人が揃っていますので、話題も豊富ですし、お探しのワインに関する相談にも応じます。
まるで宣伝のようになってしまいましたけど(笑)、お客様に、ここであっと目覚めるようなワインに出会ってもらえたら、ワイン好きが高じてワインショップを経営するまでになった私としては言うことないですね。
ヨガウエアブランド「urbanretreat」ディレクター
Makkieさん
「ありのままでいい」と教えてくれたヨガ
経験生かして「自分らしい」ウエアをデザイン
熾烈な競争が繰り広げられるファッション業界の中で、疲れたMakkieさんの心身を癒してくれたヨガ。ヨガウエアのデザインとプロデュースに専念することになった経緯を伺いました。
ー 現在、ヨガウエアのブランドurbanretreatを世界に向けて展開されているMakkieさんとヨガとの出会いとは?
まっきー◉静岡県出身。高校時代のアメリカ留学を経て、静岡雙葉学園を卒業後に、ロサンゼルスのファッションカレッジFIDM(Fashion Instituteof Design and Merchandising)へ留学。卒業後、アシスタントデザイナー、ショップのバイヤーを経て、2007年にハリウッドにセレクトショップをオープン。2008年にはオリジナルブランドの「HOLLYWOOD MADE」をローンチ。さらにフォトTシャツの「CAPUTURE」などのブランドを立ち上げた後、ヨガの講師資格を2014年に取得。2016年にはヨガウエアの新ブランド「urbanretreat」のディレクターに就任。Webサイト
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初めてヨガに出会ったのは20歳くらいの時です。以降ずっとフィットネス感覚で通っていましたが、30代前半で、岩盤浴ヨガを始めてからは、メンタルヘルスとヨガのつながりを強く感じるようになりました。もっと深くヨガに関わりたいと興味が出てきたのです。ヨガを通じて「無理せず、ありのままの自分を受け入れていいのだ」と思えるようになりました。
それで、2014年にセドナでの3週間のヨガ合宿にも参加し、全米ヨガアライアンスが認定するヨガのインストラクターのライセンスも取得しました。
ー それまではどのようなお仕事をされていたのですか?
ロサンゼルスのカレッジのファッションデザイン科を卒業してから29歳で会社を立ち上げるまでは、アパレル会社のアシスタントデザイナーを経て、人気ビンテージショップ「Popkiller」のバイヤーとして働いていました。
その間に結婚して、離婚したタイミングで独立を果たしました。ハリウッドに「LALLURE」というセレクショップを経営していたのですが、場所柄からか、スタイリストさんがよく足を運んでくれるお店になって、マーケティングに特に力を入れなくても口コミで評判が広がりました。ケイティー・ペリーやケリー・ヒルソンに衣装を提供したのをはじめ、セレブが多数来店するようになりました。
その後、2008年にはオリジナルブランドの「HOLLYWOOD MADE」、数年後にフォトTシャツの「CAPTURE」を立ち上げました。どの業界もそうだとは思いますが、特にアパレルの業界にいると、流行り廃りがすごい速さで繰り返されます。自分より後に始めたブランドの方が売れたり、自分が自信を持って作ったデザインが全く評価されなかったり、また競争が激しいだけ、人間関係のゴタゴタも多く、精神的に落ち込むこともしばしばありました。
「自分のなりたい人間像はヨガの中にある」
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でも、どんなに大変な時期でも、頑張らなくちゃ、しっかりしなくちゃ、前に進まなくちゃ、ファッションのお仕事だから自分もきれいでいなくちゃという強迫観念に追われ、それがだんだん辛くなっていた時に岩盤浴ヨガと出会いました。ヨガに取り組みながら、「ありのままを受け入れましょう」という言葉を聞いて、肩の力が抜けていき、穏やかな気持ちになれたのです。
そして、ファッションで外見だけを着飾るのではなく、中身の深い部分も磨きたいと思うようになりました。自分のなりたい人間像はヨガの中にある、と感じました。
ー ヨガウエアのプロデュースをお仕事にしようと思ったきっかけは?
ヨガのインストラクターの資格を取った後の2015年、別件で日本の会社の方とミーティング中に「ヨガのインストラクターもしているんです」と話したところ、実はその会社がアスレチックウエアにも力を入れているということが分かり、ヨガウエアのブランドを手がけませんか?とお誘いを受けたました。早速企画書を作成したところ、それが通り、2016年に「urban retreat」を立ち上げました。
ー 今のお仕事のやりがいやご苦労についてお聞かせください。
urbanretreatの撮影で©️IBUKI
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とにかく楽しいです。苦労は特にないですが、強いて言うなら、感覚がアパレル寄りになっていて、デザインとしてはかわいいけど、ヨガウエアには向かないものを思い付いてしまった時に残念だって思うことくらいでしょうか。
ー 今後のビジョンをお聞かせください。
流れに身を任せて、流れる方向に進むだけ、という感じです。以前とは違い、今はヨガを通じて自分と向き合うことで自然と正しい方向に進めるようになったので、焦りもなくなりましたね。ヨガは私にとっての人生の方向指示器のような存在です。
オーガニックビーガンレストラン「VegiLicious」オーナー
中尾昭さん
レスリング選手としての体調管理で出会った菜食
ビーガンになったことは人生最高の決断だった
遠方からも常連客を呼び寄せるオーガニックビーガンのレストラン。オーナー兼シェフの中尾さんは、人々を幸せで健康にしたいという気持ちから店を開けた今、毎日が喜びの連続だと話してくれました。
ー 中尾さんとビーガンとの出会いとは?
なかおあきら◉大阪府出身。日本で二度、社会人レスリングの全国大会優勝を経験。2006年渡米し、ロサンゼルス近郊の焼肉店のマネージャーを務めた。自身もビーガンになったことから、2013年にオレンジ・カウンティーのハンティントンビーチに「VegiLicious」を開店。自らがキッチンに立ち、妻の亜津子さんがサーバーを担当。丼、カレー、ラーメン、コンビネーションミールなどオーガニック食材を使った日本食ビーガンレストランとして人気を集めている。Webサイト
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もともと日本で社会人レスリングの選手だったんですが、自分の体調を整える目的で、20代後半のある時期にまず添加物の摂取をやめたんです。そうしたら、それまで病気がちだったのが風邪も一切ひかなくなったんですね。また、牛肉よりも豚肉、豚肉より鶏肉、さらに魚よりも豆腐や納豆といった大豆食品を食生活の中心に据えることで、疲れの回復が早く、体調が良くなっていくことを実感したのです。その後、30代後半になって、自分の健康のために、食生活についてさらに真剣に考えるようになりました。詳しく調べた結果、日本人に多いがん、心筋梗塞、脳疾患は肉食に関係があるということが分かりました。それで肉を断ちました。また、私がビーガンになる決断をしたのには、健康以外にも理由がありました。まず、畜産は環境に優しくないこと、次に食物を家畜に与えているために世界の食糧事情を悪化させていること、さらに食用となる動物がかわいそうだということです。
ー ビーガンのお店まで出してしまったのはなぜですか?
実は前職もその前も焼肉店の店長をしていたんです。自分はどんどんビーガンに傾倒しているし、肉ではなく豆腐や納豆を食べているのに、お客様に肉を提供するという矛盾や、周囲のスタッフにビーガンを勧めることができないことに長い間悩みました。葛藤の中で、このままの生活を5年、10年と続けるわけにはいかないという境地に達して、自分がおいしいと思えるビーガンの店を出そうと決意したのです。もともと料理を作るのは、料理上手な母の影響で得意でした。同じビーガンでも砂糖や油で味をごまかしたジャンクなビーガンを出す店も少なくありません。やるからには、味と素材にこだわった本物のビーガンを提供したいという熱いがふつふつと湧いてきました。おかげさまでレストラン経営のノウハウは焼肉店勤務で習得していましたので、行動あるのみでした。
ー ビーガンのレストランを経営する上でのご苦労は?
キッチンは中尾さん一人で担当。
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うちの店はハンティントンビーチでも、引退者が多い住宅地近くのショッピングモールの中にあるので、新規開店のロケーションとしては不利でした。年齢が上の方々は、慣れ親しんだトラディショナルな食習慣を変えることをなかなかしませんから。彼らにとってビーガンは新しいコンセプトなんですよね。軌道に乗せるまでの最初の3年は大変でした。そんな中で、果たして、こんな苦労を背負ってまで店を出す必要があったのかと自問自答したこともありました。
そんな中、徐々にyelpで高い評価をいただくようになり、それが口コミでどんどん広がっていきました。今はほとんどのレビューが5つ星です。最初は不利なロケーションだと思っていましたが、ロサンゼルスの中心部やサンディエゴから来店していただけるようになりました。やりがいとしては、お客様から「ここの料理がきっかけでビーガンになった、肉を減らすようになった」「こんなにおいしくて健康的なビーガンの店を作ってくれてありがとう」というお声をいただくことですね。少しでも多くの人に健康で幸せになってほしいという気持ちでビーガンの店を始めたので、お客様のそういった声がやりがいに直結しています。今は毎日が喜びの連続です。
ー 中尾さんの今後のビジョンは?
菜食でレスリング王者時代の体を維持。
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菜食がいかに素晴らしいかということを、より多くの人に伝え続けたいという気持ちです。菜食は味気ないものというイメージがあるかもしれません。でも、そうではなく、おいしいビーガンを味わっていただきたいと思います。菜食は自分も健康になるし、環境も良くするし、動物も助けます。そのことを人々に広めたいというのが私の目標です。ビーガンになったことは、人生において最高で最大の素晴らしい決断だったと思います。


