アメリカで働く
自信を持って一生懸命にやっていれば、
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人生を変えたバイト
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場所柄アメリカ人の客も多く訪れる。
イートインも可能でコーヒーも好評 |
高校1年の時、洋食屋さんでアルバイトを始めたのですが、初日に人生を変える出来事がありました。まかないの夕食が出たのです。「お金も稼げて、美味しいご飯も食べられるなんて、こんなうれしいことはない」と感動したのです。最初は皿洗いだけでしたが、1年で包丁を握らせてもらえるように。以来、料理の道で生きようと決めていましたが、周りには言っていませんでした。高校卒業後に一旦、地元の企業に就職しましたが、レストランに移りました。
フランス料理を極めるためには東京に行くしかないと思いましたが、身寄りはないため、本に紹介されていたレストラン30軒に手紙を書きました。返事が来たのは1軒のみ。しかも「最初は給仕からだが、それでもよければ」というもの。しかし、1年後には調理場に入り、4年目には火元を任されるソーシエにまでなりました。
4年間お世話になった店を離れることになった理由は、シェフにパリ行きをすすめられたからです。パリなんて夢のまた夢でしたが、シェフは留学資金用にと、私の給料のうち3万円をこっそり積み立ててくれていた上に、往復の飛行機代も出してくれました。
パリでは300年もの歴史を持つ三ツ星レストラン「グラン・ヴェフール」の屋根裏部屋に住み、修業を積みました。毎日、朝の5時半からマルシェ(市場)で買い出し。マルシェに並ぶたくさんの食材を眺めて、それがどんな料理になるか考えるのが楽しくてたまらなかったのです。勤務は夜の12時まで。店が休みとなる夏の2カ月間は、自分で探したニースやプロバンスのレストランで働きました。
4年後、日本に帰国し、銀座のレカンで勤務。パリ帰りということでいいポジションをもらえましたが、「六本木のスパゴが、カリフォルニアで働く日本人シェフを探している」と聞いて、真っ先に手を挙げました。
運命の出会いから
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初めてオーナーシェフとなってシルバーレイク
で開いた店の前で |
ロサンゼルスに来たのは1984年。最初は「スパゴ」で働き始め、ラインシェフを任されました。7カ月後に「シノワ・オン・メイン」へ。「30前には自分の店を持ちたい」という夢を実現するため、3年ほど働いて独立に踏み切りました。実際には30歳を過ぎていましたが、貯金もでき、いい場所が見つかったなど、好条件が揃ったからです。
店の名前は最初から「カフェ・ブラン」です。白いカフェという意味のこの言葉には、たとえ予約帳が真っ白でもやっていこう、色の基本である白を自分色に染めようと2つの意味を込めています。
シルバーレイクに開店したのですが、肝心のお客さんはさっぱり。ある日の午後、店の扉をノックするアメリカ人女性がいました。ランチ終了後だったので、あるもので作って出しました。満足して代金を払おうとする彼女に「ランチメニューではないから」と断りました。後日、彼女は夫と友人の4人でディナーを食べに来てくれました。
ある日の11時頃、外で大勢の人が騒いでいます。「何だろう」と思っていると、店の開店時間の11時半になるや否や、その群集が店内になだれこんできました。30席しかない店内はあっという間にいっぱいになり、全員をさばき切ったのは午後4時半でした。その日のロサンゼルス・タイムズ紙とヘラルド・エグザミナー紙のレストランコラムで、店が紹介されていたらしいのです。新聞の紹介記事の執筆者は、ディナーに来てくれたあの彼女のご主人と友人の1人でした。
それ以来、客足が途絶えることのなかったお店ですが、残念ながらリース更新ができず、店を閉めざるを得ませんでした。次にビバリーヒルズに開いた店は「ヌーボーカフェブラン」。後に「カフェ・ブラン」という名前に戻して、その地で11年営業しましたが、こちらもリース更新ができず、閉店しました。
フランス料理の基本
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