アメリカで働く
私自身が受けてうれしいと感じる
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日独語が活かせると
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ボーイング777(Flagship Suite)のお披露目
のために訪れたブエノスアイレスにて |
東京の短大で英文学を専攻し、卒業後、本格的に英会話を学んだ後、「Experiment in International Living」という団体が主催する2カ月間のキャンパスステイ・プログラムに参加し、アメリカでの生活を体験しました。帰国後、しばらく英会話講師として働きましたが、アメリカで生きた英語を学びたいという思いから、テネシー大学へ留学しました。しかし、英米文学専攻では、どんなに頑張ってもネイティブの学生を超えることは大変難しいと実感し、思い切って専攻をドイツ文学に変更しました。
その後、結婚・出産を経て、数年後にHonorsをいただいての大学卒業となりました。それは後々、目標を達成した充実感として私自身の心の支えとなり、アメリカン航空に入社する際にも、大変大きな助けとなったと確信しています。
ベルリッツという語学学校で、日本語のインストラクターとしてアメリカ人に日本語を教えたのが、アメリカでの最初の仕事でした。やりがいもあり、好きな仕事だったのですが、ある時「私は大学であんなに頑張ってドイツ語を勉強したのに、それをまったく活かしていない」ということに気がついたのです。
そんな思いを抱いていた時に、ある求人広告が私の目に飛び込んできました。それは、外国語を話せるフライトアテンダントの募集広告でした。私は当時アリゾナに住んでいたのですが、「日本語とドイツ語が活かせる職業に就けるかもしれない!」と、迷わず応募しました。
明日は世界の
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成田でステイしたホテルにて。クルーのため
にお茶会が催された |
書類審査後、アメリカン航空本社のあるダラスへ面接を受けに行きました。そこではまずグループ面接があり、それに合格すると個人面接が行われ、フライトアテンダントとしての資質を問われる質問などがなされました。
個人面接、身体検査をクリアし、合格通知が届くとすぐに約6週間のトレーニングに入りました。連日カリキュラムがびっしりと組まれていて、頻繁に行われたテストも90点が合格ライン。厳しい規律の中での緊張感は、精神的にもかなりキツイものでした。クラスではガムをかむことが禁じられていたのですが、うっかりかんでいた訓練生がいて、教官からポンと肩を叩かれたかと思うと、「今すぐ荷物をまとめてここを去るように」と、その場で訓練から外されるなど、6週間後には何人もの訓練生が脱落していました。
厳しい訓練が終わり、1988年に正式にアメリカン航空に入社となりましたが、入社後3年間は、1カ月おきに「リザーブ」という勤務シフトで、お休みの日だけは知らされるものの、それ以外はいつ、どこに飛ぶことになるのか見当もつきません。自分が明日は世界のどこにいるのかわからないという状態です。
私の最初のベースはダラスでしたが、まもなくシカゴでドイツ語を話せるフライトアテンダントを必要としていると知り、シカゴに移りました。当時は、住まいのあるカリフォルニアからフライトの都度、4時間かけてシカゴに飛び、そこから乗務したものです。現在は、ロサンゼルスがベースで、基本的には月に4回、成田への往復便を担当しています。
緊張感が漂った
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