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アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)

現地情報誌「ライトハウス」が長年に渡り連載してきた人気コラム「アメリカで働く」は、アメリカで働く日本人・日系人、100名以上の皆さんへのインタビュー集。業種も、職種も異なる100名以上の皆さんそれぞれにとっての「アメリカで働く」とは?アメリカでの"キャリア"や"仕事"が見えてきます。

ライトハウス編集部
ライトハウス編集部

調停人(その他専門職)

ロッキー森さん


アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は調停人のロッキー森さんを紹介。法廷で闘うのが弁護士なら、裁判せずに当事者を歩み寄らせて和解させるのが調停人。離婚などの家庭内問題や家主・テナント問題など、民事関連一切を扱う。


【プロフィール】ろっきー・もり■宮崎県出身。一家で渡米後、ロサンゼルス・コミュニティーカレッジを卒業し、経理、営業などを経験。1976年、宮崎県人会を発足。「アメリカ宮崎桜の会」を設立し、レーガン博物館などに300本の桜を植樹。2005年にカリフォルニア州公認の調停人資格を取得する。ベンチュラ調停人委員会メンバー、ベンチュラ郡上級裁判所調停人

日本人初のバンドメンバー
独特なことをしたい

父は戦前、サンタマリアでイチゴ園をやっており、太平洋戦争直前に帰国し、私と弟妹は宮崎県で生まれました。1960年に一家で渡米しました。私たちが落ち着いたのはニュージャージー州のシーブルック農園。この農園オーナーのシーブルックさんは戦時中、収容所の日系人数千人を支援した人で、農園界隈には仏教会やキリスト教会まである日系コミュニティーができていました。

当時、私は高校2年生で、英語は全然わかりませんでした。でも、日本で吹奏楽部に所属していて、英語は読めなくても楽譜は読めたので、現地の高校でも吹奏学部に入部しました。マーチングバンドで演奏していた頃、アメリカ人の友達ができて、英会話を習うと同時にバンドを結成、ギターとベースを担当していました。

64年にロサンゼルスに引っ越し、私はロサンゼルス・コミュニティーカレッジに入学して会計を勉強しました。卒業後は会計の仕事をしていましたが、日系TV局のセールスマネージャーをやらないかと誘われて転職しました。その頃、スポンサーとは日本式の付き合いで、毎日のように食べて、飲んで、ゴルフして、という生活でした。


野茂選手の入団スクープで
交渉の必要性を実感

桜の植樹に際して、シミバレー市長(右)と

その後15年近く、経営やマネージャーなどのレストラン業務を経て、留学生やホームステイ受け入れ会社を設立、留学生斡旋業をしながら日本では英語サマーキャンプなどを開催しました。そうした中、89年に知り合いの紹介で大手日系旅行会社の下請け業務を行う会社も作り、一般旅行者対象の観光案内業務も始めることにしました。朝早くから夜遅くまで拘束され、かなりきつい仕事でした。

しかし、今の仕事につながるきっかけが、この時に生まれました。95年にスポーツ新聞関係者と2週間の契約で、野茂選手の大リーグ入団のスクープを追いかけたのです。野茂選手がどこにいるのかもわからないし、色々な球団に電話したり、エージェントのダン野村氏を直撃しようと張り込んだりもしましたが、どうしてもドジャース入団という確証がつかめない。時間も残り少なくなった頃、ドジャース関係者の1人と親しくなっていたので、直接電話してカマをかけたんです。そうした「トリック」で何とか情報を得ました。

知りたい情報をどうやって聞き出すかなど、交渉の必要性を感じるようになったのはこの頃からです。


病気がきっかけ
人の役に立ちたい

99年に心臓発作を起こし、バイパス手術を受け、ツアー関係の仕事は体力的に続けられなくなり、2001年にたたみました。それを機に、これまでアメリカで生きてきた40年は何だったのか、何をしてきたのかなど、残された自分の人生を深く考えるようになりました。次世代に何かを残したい、そして、人のためになることをしながら人生を送りたいと思うようになりました。

それで05年に、ペパーダイン大学ロースクールのストラス研究所で、折衝と論争解決法を受講して、カリフォルニア州公認の調停人資格を取得しました。ベンチュラの調停人委員会のメンバーになり、ベンチュラ郡上級裁判所でスモールクレイムコートの調停人をしながら、日系社会の方々のトラブル解決を、調停を通してお手伝いをしています。

調停人というのは、どちらの肩も持たない第3者の立場で、利害の相対する両者の歩み寄りを引き出し双方が満足できる、つまり「ウィン・ウィン」で和解できるように導いていくのが、役割です。裁判では、どうしても負けた方に恨みが残りますし、裁判過程は公文書として記録に残ります。しかし、調停での過程は法律で守秘が約束され、仮にその後裁判となっても、調停で話し合われた事柄を法廷に持ち込むことはできません。

また、調停人はどちらが正しく、どちらが間違っているかを判断する立場ではありませんので、お互いにとって、何がベストなのかを探り出し、提案することが重要です。調停には教科書はありません。人生経験も必要なので、若い人には難しいかも知れません。現にペパーダイン大で受講していた人たちも、ほとんどが引退した裁判官や弁護士たちでした。

裁判所では、午前中の公判だけでも35、36件の訴訟を取り扱い、約3分の1が調停での解決に回されます。裁判所での調停は平均80%弱で和解が成立し、和解合意書をその場で書き上げるのですが、限られた時間内で和解まで持って行くのは並大抵ではありません。しかし、ぎりぎりまで話し合って合意に達することができ、原告と被告の両者が感激のあまりハグするのを見ると、人のためになって良かったと、調停人としての誇りと感動を覚えます。

最近、離婚問題を扱うことが増えてきました。このようなケースでは、お互いの感情が先走り、何が原因でもめていたのかを忘れて泥沼化することが多く、特に親権の問題については、いつも「もしこれが自分の身内だったら」と考えて冷静に、親身に対応しています。また、学生からアパートのデポジット問題の相談が多くなってきましたので、留学生向けのセミナーを実施できたらと考えています。

私は心臓発作を起こしてバイバスとペースメーカーの手術を受けましたので、先があまりないと痛感しました。何かを残したいという思いから、自分の第2の故郷、シミバレー市に桜の木を植えようと、アメリカ宮崎桜の会を設立しました。今では同市庁舎の周りや学校に100本、レーガンライブラリーに約200本、計300本の桜を植え、レーガンライブラリーでは桜祭りを催してきました。

妻には「日本にこだわり過ぎ」と言われますが、これまでずっと日本を代表するつもりで生活してきました。日本からニュージャージーに着いてすぐ、英語が話せないフラストレーションからアメリカ人生徒とケンカして、相手にケガをさせてしまいました。その時、叔父に「お前は日本人の恥」と言われたことが、今でも耳に残っています。ですから、日本からアメリカに来ている若い人たちも、日本人であることを忘れずに、自分の足跡を残せるアメリカ生活をしてほしいと思います。


(2009年4月1日号掲載)