飲食・サービス YATAI Asian Tapas Bar・オーナー(サービス・サポート系):園部正和さん

ライトハウス電子版アプリ、始めました

やるからにはトップを目指すという
ハングリーな気持ちを持ってほしい

専門学校を卒業して就職という人生の既定路線 を外れ、海外でのチャレンジを選択した園部正和 さん。やりたいことがレストラン経営だと自覚 し、数々のレストランで修業を積んだ。2006 年に念願の自店を共同でオープン。 08 年に経営 を引き継いで自ら舵を取り、人気レストランへと 成長させた園部さんに話を聞いた。

【プロフィール】そのべ・まさかず◉神奈川県厚木市出身。専門学校を卒業後、21歳でロサンゼルスに渡る。留学 中滞在費を稼ぐために、レストランでウェイターとして働く。その後、酒店で2年間働き貿易会 社に転職。日本支社での勤務を経た後、ロサンゼルスの人気レストランHama Restaurantに入 店。永住権を取得し、上地勝也氏の日本食レストランKatsuyaのエンシノ店でマネージャーとし て采配を振るう。2006年、ウエストハリウッドにYATAI Asian Tapas Barを共同でオープン。08年 に経営を引き継ぎ、ハリウッドセレブ御用達の人気店に成長させた。Web: www.yatai-bar.com

そもそもアメリカで働くには?

レストラン経営の夢を アメリカで実現

昨年、ウエストハリウッドのSunset Blvd.をシェリフの協
力で全面封鎖して、結婚式を決行。一生の思い出に

僕は神奈川県厚木の出身で、専門 学校で建築デザインを勉強しまし た。当時は日本の景気が良かったの で、専門学校しか出ていなくても建 築関係の就職先がたくさんありま した。でも、このままではつまらない と思い、「海外に出て、何かやろう!」 と、留学を決意しました。そして、 1991年ロサンゼルスに渡りまし た。
 
お金は貯めて来たのですが、自 動車を買って、学費を払ったら3カ 月で底を突き、レストランでウェイ ターのバイトを始めました。僕の実 家は小さな居酒屋を経営していて、やっぱり飲食に縁があるのかなと思 いました。英語もろくに話せないし、 オーダーの取り方もわからなかった ので最初は大変でした。しかし、レス トランで働くのが楽しくて、語学学 校にもろくに通わず、2年間働き続 けました。その間に「自分にこれから 一体、何ができるんだろう」と考える と、飲食業だと思うようになり、いつ か自分でレストランを経営したいと 思い始めました。
 
そのレストランのオーナーは、大 変面倒見の良い方で、僕の労働ビザ をサポートしてくれそうな酒店を 紹介してくれました。そこでもまた 2年ほど働きましたが、結局経験の ある管理職でないと労働ビザ取得 は難しいと言われました。当時 24 歳で、アメリカにどうしても残りた かったので、次は酒店のオーナーの 経営する貿易会社の仕事に就きま した。日本支社での勤務もこなして 経験を積んだのですが、それでも移 民法の弁護士から「まだ経験が足り ない」と言われました。
 
そこで、当時ロサンゼルスで大人 気のHama Restaurantが2号店を 出すということで、雇っていただき ました。グリーンカードの申請もサ ポートしていただき、取得するまで の5年間、朝から晩まで週6日、身 を粉にして働きましたね。そして、念 願のグリーンカードが取得できた 後は、日本食のKatsuyaのエンシノ店 で、マネージャーを務めました。初め は経営が厳しかったのですが、2年 目にはスタジオシティーの本店と同 じ売り上げにまで、到達することが できました。
 
そして、2006年の夏、パート ナーたちと共に、ここウエストハリ ウッドにYATAI Asian Tapas Barを オープンしました。とうとうレスト ラン経営の夢が叶うので、コンセプ ト作りから自分の想いをすべて注 ぎ込みました。当時、「居酒屋」「ワイ ンバー」「タパスバー」が、ロサンゼルスのレストラン業界では流行り出し ていました。僕は人のマネをするの は好きじゃないのですが、トレンド は完全に居酒屋でした。だから、新 しく「Asian Tapas」というコンセプ トの店にしようとしました。今では 多分聞き慣れた「Asian Tapas」です が、当時はそんな店は1軒もありま せんでした。「YATAI」という店名は、 リーズナブルで、気楽に立ち寄れる 場所として名付けました。
 
初めはお客様にコンセプトを説 明しなければならなかったですが、 「ストリート・ベンダー風」のちょっと したアジア料理と一杯飲める店とい うのが次第に周囲に広まっていき、 理解されるようになりました。

ジャスティンとブリトニー 奇跡の遭遇

そうやって意気揚々と経営を始 め、オープンして3カ月は、知り合い や広告のおかげもありお客様が来 ました。ウエストハリウッド、しかも サンセット沿いというトレンディー なロケーションでしたが、その分、店 舗のレントはかなり高かったので、 その後はかなり苦戦しました。しか も、運悪く 08 年にリーマンショック が起こり、パートナーたちも「もう辞 める」って言い出したんです。最終的 に店を売ることになったのですが、 そんな時期に誰もレストランなんて 買いません。だったら僕が買い取っ て1人でやろうと思い、同年の暮れ に会社を作り、すべて僕の名義にし ました。
 
僕は日本のバブル崩壊を経験していたので、こういう苦しい時期に 何をすべきかわかっていました。レ ストランは顧客が減ると値段を上 げて、売り上げを補おうとします が、僕が経営を引き継いだ時は、逆 に値段を全部落としました。損益分 岐点のギリギリまで値段を落とし て、お客様には「安くしましたから 食べに来てください」と宣伝しまし た。そうしたら売り上げがドーンと 上がりました。しかし、値段を落と した分、人の何倍も働かないといけ ません(苦笑)。
 
そんななか、仲良くしている常連 さんが、友達だと言ってジャスティ ン・ティンバーレイクを店に連れて 来てくれました。僕は彼のことを まったく知らなくて、サーバーの女 の子たちが騒いでいたので、有名人 なんだとわかったくらい。また、ブリ トニー・スピアーズのマネージャー もウチの店を気に入ってくれてい て、その縁で 09 年1月にジャスティ ンとブリトニーが、偶然ウチの店で 鉢合わせとなったんです。パパラッ チにたくさん写真を撮られ、2人に は気の毒ですが、絶大な宣伝になり ました。

ここで踏ん張って もうひと越えしたら楽になる

HamaでもKatsuyaでも厳しい 思いをしましたが、今となってはそ こでの経験がすごく活きていると感 じています。Hamaでは、お客さん を楽しませたり、喜ばすというエン ターテインメントの部分、「こういう 風にすれば、お客さんは帰ってくる んだな」ということを勉強 しました。Katsuyaでは、 オーナーの勝也さんから 「儲けるコツは信者を増 やすこと。『儲ける』ってい う字は『信者』って書くだ ろ」って言われて納得しま した。そのレベルまで行け れば、勝也さんみたいにな れるんですね。
 
オーナーになってから は、すべてが違って見えま した。例えば、シェフでも サーバーでも、「○○はできる?」と 聞いて「頑張ります!」と答える人 は、ダメだと思うようになりました。 これでは、後々できなかった時に、「頑 張ったけど、できませんでした」とな るのがオチ。僕も昔言っていたので わかりますけど(苦笑)。
 
マネージャーの時は、オフの日は 頭の中をからっぽにできましたが、 今は常にビジネスのことを考えて います。人との関係が深くなり、人 脈の大切さを知りました。自分で店 を持ったら、どんなに楽になるかと 思ったら、逆にドンドン厳しくなる。 店を開けてから4年間で、連休なん てほとんどありません。何度も辞め ようと思ったことはありますが、「こ こで踏ん張って、もうひと越えした ら楽になる」といつも奮い立たせて います。そこまで苦労をして、今でも 経営を続けるのは、たくさんの従業 員を抱えている責任感もあります。
 
これからの目標は、新しい店をプ ロデュースすること。現在、僕の夢に 共感してもらえる投資家を探して います。ハイエンドのレストランでは なく、気軽に遊びに来て、楽しめる 店にしたいですね。シルバーレイク やダウンタウンに2、3軒開いた後 に、ニューヨークかな。そして、最終 的には日本にも店舗を出したい。
 
レストランの経営ですが、トレン ドに敏感なアメリカ人が、どういう 所で遊んで、どういう物が好きか知 らないまま、開業してもダメだと思 います。僕はアメリカで十数年レス トラン業界に身を置いてきましたか ら、日本でヒットした経営やコンセ プトが、必ずしもアメリカ人にウケ るとは限らないことが良くわかって います。
 
せっかくアメリカで経営するのだ から、ちょっと変わったコンセプトと か、ロケーションで試してみた方が いいと思いますし、アメリカ人が好 きな雰囲気にしないと、受け入れら れないと思います。これからレスト ランビジネスに挑戦したいという人 には、やるからにはトップを目指す というハングリーな気持ちを持って ほしいですね。
 

(2010年10月1日号掲載)

「アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)」のコンテンツ