フライトアテンダント(サービス・サポート系):モートン えみこさん

ライトハウス電子版アプリ、始めました

私自身が受けてうれしいと感じる
サービスを提供し
誠実な態度で取り組んでいきたい

 アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回はフライトアテンダントのモートンえみこさんを紹介。ロサンゼルス=成田間を中心に、ヨーロッパから南米まで、世界中を飛び回る多忙なスケジュールをこなしている。

【プロフィール】モートン・えみこ■大阪府生まれ。東京にある短大の英文科を卒業後、英会話教師となる。テネシー大学卒業後、語学学校ベルリッツでの日本語教師を経て、1988年、アメリカン航空に入社。国際線のフライトアテンダントとして世界中を飛び回る毎日。日本語、英語、ドイツ語のトライリンガル。

そもそもアメリカで働くには?

日独語が活かせると
求人広告を見て応募

ボーイング777(Flagship Suite)のお披露目
のために訪れたブエノスアイレスにて

 東京の短大で英文学を専攻し、卒業後、本格的に英会話を学んだ後、「Experiment in International Living」という団体が主催する2カ月間のキャンパスステイ・プログラムに参加し、アメリカでの生活を体験しました。帰国後、しばらく英会話講師として働きましたが、アメリカで生きた英語を学びたいという思いから、テネシー大学へ留学しました。しかし、英米文学専攻では、どんなに頑張ってもネイティブの学生を超えることは大変難しいと実感し、思い切って専攻をドイツ文学に変更しました。
 
 その後、結婚・出産を経て、数年後にHonorsをいただいての大学卒業となりました。それは後々、目標を達成した充実感として私自身の心の支えとなり、アメリカン航空に入社する際にも、大変大きな助けとなったと確信しています。
 
 ベルリッツという語学学校で、日本語のインストラクターとしてアメリカ人に日本語を教えたのが、アメリカでの最初の仕事でした。やりがいもあり、好きな仕事だったのですが、ある時「私は大学であんなに頑張ってドイツ語を勉強したのに、それをまったく活かしていない」ということに気がついたのです。
 
 そんな思いを抱いていた時に、ある求人広告が私の目に飛び込んできました。それは、外国語を話せるフライトアテンダントの募集広告でした。私は当時アリゾナに住んでいたのですが、「日本語とドイツ語が活かせる職業に就けるかもしれない!」と、迷わず応募しました。

明日は世界の
どこにいるのかわからない

成田でステイしたホテルにて。クルーのため
にお茶会が催された

 書類審査後、アメリカン航空本社のあるダラスへ面接を受けに行きました。そこではまずグループ面接があり、それに合格すると個人面接が行われ、フライトアテンダントとしての資質を問われる質問などがなされました。
 
 個人面接、身体検査をクリアし、合格通知が届くとすぐに約6週間のトレーニングに入りました。連日カリキュラムがびっしりと組まれていて、頻繁に行われたテストも90点が合格ライン。厳しい規律の中での緊張感は、精神的にもかなりキツイものでした。クラスではガムをかむことが禁じられていたのですが、うっかりかんでいた訓練生がいて、教官からポンと肩を叩かれたかと思うと、「今すぐ荷物をまとめてここを去るように」と、その場で訓練から外されるなど、6週間後には何人もの訓練生が脱落していました。
 
 厳しい訓練が終わり、1988年に正式にアメリカン航空に入社となりましたが、入社後3年間は、1カ月おきに「リザーブ」という勤務シフトで、お休みの日だけは知らされるものの、それ以外はいつ、どこに飛ぶことになるのか見当もつきません。自分が明日は世界のどこにいるのかわからないという状態です。
 
 私の最初のベースはダラスでしたが、まもなくシカゴでドイツ語を話せるフライトアテンダントを必要としていると知り、シカゴに移りました。当時は、住まいのあるカリフォルニアからフライトの都度、4時間かけてシカゴに飛び、そこから乗務したものです。現在は、ロサンゼルスがベースで、基本的には月に4回、成田への往復便を担当しています。
 

緊張感が漂った
テロ事件直後のフライト

 今まで色々な出来事がありましたが、やはり同時多発テロ事件は大変辛い出来事でした。あの日、私はシカゴから東京に飛ぶ予定で、シカゴのホテルに滞在していました。朝、テレビでテロが起きたことを知り、ただただ呆然とするだけ。会社からは、ホテルにそのまま待機という指示が出され、部屋のテレビに釘付けになり、何も手に付かない状態でした。
 
 それから2日目の夜に、フランクフルト行きの乗務の打診があったのですが、乗務を拒否する同僚や、出勤する手段のない同僚が続出し、私自身も正直なところ非常に迷いました。でも、フライトアテンダントとして私に課せられた任務は何であるのかと自問した時、引き受ける決心がつきました。それは同時多発テロ直後にアメリカン航空がシカゴから飛ばした、最初の便でした。
 
 主人には「自分に何かあった時は、娘をお願いします」と電話し、空港に到着すると、その便に搭乗するお客様たちから大きな拍手で迎えられたことを覚えています。
 
 さすがに乗客の間にも、乗員の間にも、今までに感じたことのない張りつめた緊張感が漂っていた、私にとって決して忘れることのできないフライトでした。
 うれしいこともたくさん経験しました。例えば、お客様が会社宛に、私に関する好意的なご意見やお礼の手紙を書いてくださった時などです。そういった手紙は、スーパーバイザーからコピーが個人に渡されます。お客様が私の仕事やサービスに満足してくださったということは、やはりうれしいものです。
 
 また、数年前まで「PFA(Professional Flight Attendant)Award」という社内表彰があり、これを6回受賞すると「Hall of Fame」というタイトルがいただけるのですが、数年前、まだ勤務年数が15年にも満たない私もこのタイトルをいただくことができ、大変感激しました。
 
 フライトアテンダントという仕事は、人が相手の仕事ですから、忍耐力、柔軟性が必要です。私自身が受けてうれしいと感じるようなサービスをお客様に提供し、何事にも誠実な態度で取り組んでいきたいですね。
 私は、この会社に深い愛情を持っており、仕事に誇りを持って勤務しています。会社のモットーでもある「次回もアメリカン航空を選んでいただけるようなサービスの徹底」を胸に、今後も最高のサービスをお客様に提供していきたいと思っています。
 
(2007年9月1日号掲載)

「アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)」のコンテンツ