歯科技工士(その他専門職):井上周さん

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国家資格を有する日本人技工士は
日本よりも海外で評価が高い

アメリカで夢を実現させた日本人の中から、今回は「歯科技工士」の井上周さんをご紹介しよう。日本では報酬も評価も低い歯科技工士。一時は辞めることも考えたが、アメリカに活躍の場を求めて妻子と渡米。技術の高さが評価され、今ではブラッド・ピットなど数多くのセレブの歯を手掛けている。

【プロフィール】いのうえ・まこと■1963年生まれ。大阪府出身。81年、上宮高校卒。83年、大阪歯科学院専門学校卒。92年、妻子と共に渡米。D&H Dental GroupのBeverly Hills Dental Studioに就職。以来、数多くのセレブの歯を手掛ける。現在は同社のジェネラルマネージャーとグループのディレクターを務める。

そもそもアメリカで働くには?

日本の過酷な状況に嫌気、周囲の反対を押して渡米

歯科技工士の仕事はルーペを使う世界

 高校を卒業したら、大学で4年間好きなことをするつもりだったのですが、17歳の時に父が病気で余命2、3年と宣告されたんです。大学に行く余裕がなくなり、何か手に職を付けようと歯科技工士の専門学校に進学しました。漠然と、技術を身に付ければ世間で活躍できるのかな、と考えていたのですね。
 
 ところが歯科技工士というのは、日本では社会的評価の低い3Kの最たる仕事だったのです。セラミック等で人工歯を作るわけですから、すべてがカスタムメイドで、その7、8割が手作業です。1日8時間で終わるような仕事ではないし、仕事以外での技術習得も必要です。日本では歯科医がクラウン(歯冠)を作るようなイメージがあり、私たちの仕事は縁の下の力持ち。バブル全盛の頃はそれでもまだマシでしたが、他の職種に比べて話にならない条件。あまりに夢の持てない状況にすっかり嫌気が差し、一時は辞めようかとも考えましたが、先輩にアメリカで基盤を作って活躍している人がいたのです。西海岸にはもともとあこがれていましたから、それならアメリカでやってみようかと考え、29歳の時に渡米しました。1992年のことです。
 
 渡米前は、皆に散々反対されました。アメリカは湾岸戦争やロス暴動など不穏な時期で、日本にはまだバブルの余韻が残っていました。また結婚して妻子もいましたし、日本に母1人を置いていくことにもなる。それでも渡米に踏み切れたのは、妻が賛成してくれたからです。
 
 とりあえず日本にいる間に、ロサンゼルスとニュージャージー、そしてニュージーランドのラボに履歴書を送りました。すると3件すべてから良い返事が来ました。日本では歯科技工士になるには国家認定の資格が必要ですが、アメリカは資格が要りません。中には素人に毛が生えたような人もいます。だから資格保持者の日本人技工士は国際的にも評価が高いし、ビザも比較的取りやすいですね。労働条件や報酬も、アメリカの方が恵まれています。また優秀なドクターなら、人工歯を見ただけで技工士の技術の良し悪しを判断できます。

言葉のハンデを上回る技術で、信用を勝ち取る

「白い歯といっても白一色ではなく何色も
組み合わせて作ります」 と井上さん

 私の場合、渡米した時には高校卒業後10年も経っていましたから、英語力はないに等しい状態でした。クライアントは9割以上がユダヤ系の歯科医で、仕事の現場は完璧なアメリカ社会。最初は本当にイエスマンでした。ただ製造過程など仕事の内容は世界共通のものだし、用語もほぼ同じ。英語もろくに話せなかったけれど、仕事を見せて結果が良ければビジネスが広がる。それで言葉のハンデを上回る技術で信用を勝ち取ろうと考えました。
 
 今も若い人たちに言っているのですが、私たちは外国人であるということを自覚しなければならない。言葉のハンデがあるのにアメリカ人と同じ給料を貰い、同じ生活をしていたら、どうしても彼らからいいようには思われない。その辺りを認識して仕事をする必要があると思います。
 
 このスタジオは、渡米して4年目に前任者から引き継ぎました。当初は、月2、3万ドルの売上げしかない状態でしたが、今ではハリウッドスターの歯を手掛けることも多く、ジャッキー・チェン、ショーン・ペン、レオナルド・ディカプリオ、メル・ギブソン、ジェニファー・アニストン、ブラッド・ピット、ジョニー・デップ、クリスティーナ・アギレラ、ヒラリー・ダフ、ジョージ・クルーニーなど多数。セレブは全歯を人工歯にする人もいるし、たとえば笑った時に歯並びが悪いととシャドウが出るのですが、それを嫌う人もいるので、実際に会って作ることが多い。ニカッと笑った時に真っ白い歯がビシッというのは、美容整形の延長なのですね。ただ歯の色も形も顔貌、肌の色など個人差があるので、さまざまな色や形を立体的に組み合わせ表現します。やはり芸術的なセンスも必要です。私がこの仕事を選んだのも、小さな頃から絵を描いたり、模型を作るのが好きだったからだと思います。

日系社会に閉じこもらず、アメリカ社会にも眼を

 私は大した志も持たずに、一介の歯科技工士として渡米しました。最初は3年くらいで思い出を作って、日本に戻ったらタクシーの運転手にでもなろうかと思っていたのです。ところが子供が学校に上がる時期に人にすすめられて家を買い、グリーンカードを申請してビザの関係で国外に出られなかった時に昇進して、気がつけば在米13年。現在はスタジオのマネージメントとグループのディレクターをしています。今でも西海岸に住めるのがうれしいと思う時があります。ビーチなどで日本にいた頃あこがれていた西海岸の風景を見ると、旅行者とはまた違う感慨を未だに味わいますね。
 
 ただ最近の若い人には、勘違いしている人が多いような気がします。小さな日系社会で生きてしまうと、日本に住んでいるのか、アメリカに住んでいるのかわからなくなる。これではアメリカに何しに来たのかもわかりません。それで夢破れて日本に帰る人もいます。せっかくアメリカに来たのなら、日系社会に閉じこもらず外に眼を向けて、アメリカ社会に浸ることも必要ではないかと思います。
 
(2005年3月16日号掲載)

「アメリカで働く(多様な職業のインタビュー集)」のコンテンツ