
(2026年1月号掲載)
映画館、コンサート厳格に静粛が求められる日本
日本の美術館では、作品について小声で話すことを「マナー違反」と言われることも多々ある。
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人が集まれば騒がしくなるのが自然であり、場合によっては静粛を呼びかける必要も起きてくる。例えば、葬儀の席や、入学試験などの会場では、静粛を保つことに異論はないであろう。これに加えて、最近の日本では静粛を強制する、いわば静粛マナーというものが徐々に拡大しているようだ。
例えば映画館がそうで、もちろんシリアスな内容であれば静かに鑑賞すべきというのは昔から変わらないし、アメリカでも基本は同じだ。けれども、近年は笑いを提供するように演出されたコメディー作品でも、大声で笑うことには批判が多くなった。喜劇であろうと悲劇であろうと静かに鑑賞したいし、その権利は守られるべきという人が増えたのだという。映画の本編が終わっても、日本の場合はテーマ曲とともにクレジットが表示される数分の間も、できれば席を立たないで静かにしているのがマナーだとされる。この点はアメリカとは大きく事情が異なる。
大きく変わったのがクラシック音楽の場合だ。クラシックのさまざまな楽曲の中で、消え入るように終わる設計の曲というものがある。こうした場合は最後の余韻が大事であり、演奏家が楽器を下ろしたり、指揮者がタクトを置くまで静かにしているのは国際的なマナーと言える。けれども、日本の場合は祝祭的な曲で華やかに「ジャーン」と終わる種類の曲でも、「沈黙と余韻」を置いてから拍手をするようになった。この傾向は、ここ数年強まっており、会場によっては事前に注意喚起の放送があったりする。喜劇仕立てのオペラやオペレッタの場合は特にそうだが、「ジャーン」と終わる明るい音楽の場合は、最後の盛り上がりに重ねて拍手するのは自然なことだ。沈黙をはさむのは、かえって演奏者に失礼で盛り上がりを削ぐことになると思う。けれども現時点では「余韻を大事に」というルールが定着してしまった。
中でも悪者にされているのが「ブラボー」の掛け声である。良い演奏の後、静寂を破るようにの掛け声がかかり、それが大きな拍手につながるというのは実に楽しい。それ以上に、演奏者にはうれしく誇らしいと思うのだが、現代の日本ではこれを不快に思うという声が大きいので、これまた事前に場内放送で自粛の呼びかけがされる。早過ぎる「ブラボー」は確かに品がないのは事実だが、それで音楽が傷つけられるという考え方は行き過ぎと思える。
過剰なマナーはなぜ生まれるのか
大相撲でも変化が見られる。千代の富士や若貴兄弟の時代には、千秋楽の優勝のかかった一番などでは、会場が割れんばかりの声援の中で立ち合いとなるのが普通だった。けれども近年は、静粛マナーが相撲にも及んだようで、時間一杯の仕切りとなって行司の軍配が返ると場内がシーンとするのが普通だ。これを大切なことだとするファンも増えてきており、沈黙を破る歓声などは厳しく批判される。相撲協会の側は今のところ柔軟だが、今後はクラシック音楽のように無粋な注意喚起がされる事態もありうる。
こうした動きは日常生活の中でも起きている。通勤電車の中、あるいは新幹線の車中では昔と比較して、静粛を強制するような無言の圧力が強まっているのを感じる。個人的な感想だが、特に東海道新幹線の車内では、ストレスや疲労を抱えた出張者が多く、旅行者や家族連れが自然な会話ができる雰囲気はないようだ。
もしかしたら映画館や演奏会、あるいは相撲の本場所などで静粛マナーが叫ばれるのも、社会全体でのストレスや疲労感が増しているから、そんな説明もできる。コロナ禍における黙食などの記憶が消えないということもあるだろう。ノイズキャンセル機能の付いたイヤホンに慣れた人が、ライブにおけるノイズを「不完全なもの」として嫌うということもあるに違いない。けれども、人が集まれば何らかの音は発生するわけで、それを「除去」するのが正義だということになると、かえってストレスや疲労感を増すことになるのではないだろうか。
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