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歴史を受け継ぎアメリカ社会で活躍する日系人リーダー (3)



ランディー・ソノ・タハラさん
イヴォンヌ・B・バークロサンゼルス郡参事事務所上席補佐官

1959年生まれ。ガーデナ出身の日系3世。75年、ロサンゼルス統一学校区教育委員会より、ロサンゼルス・名古屋姉妹都市交流における学生大使に任命され、現在は理事会の一員。84年、カリフォルニア州立大学ロングビーチ校卒。法律事務所に勤務するかたわら、85年、ロサンゼルス市警予備警察官に。2000年、予備警察官賞受賞。96年、イヴォンヌ・B・バーク・ロサンゼルス郡参事事務所に転職。南加日系歴史協会、日系オプティミストクラブなどにより表彰されている。

差別や不当な扱いを受けたとしても
ルーツは誇るべきものだと教えられた

日本人ではなかったと
日本へ行って気づいた

「婦人警官とは話したくない、という人も
いました」(タハラさん)

 1世の祖母と一緒に暮らしていたので、幼い頃、家では主に日本語で話していました。その祖母が日舞を教えていた関係で、3歳の時から日舞を習っています。日焼けしてはいけないと言われ、外で友達と遊ぶのも制限されていたので、幼い頃は稽古が嫌いでした。8歳の時に琴、11歳で三味線、13、14の時にはお茶と活け花も始めました。ずっと日本の伝統文化に触れて育ってきたので、15歳の時、ロサンゼルスと名古屋の姉妹都市交流の一環で、学生大使として初めて日本に行った時はショックを受けました。周りの人が私のことを「外人」として接したからです。そこで初めて「私は日本人じゃなかったんだ」と気づいたんです。
 戦時中、父は高校生で、コロラドの収容所に入っていたそうですが、収容所のことも、友達との楽しかった思い出しか聞いたことがありません。母は帰米(注1)で、戦時中は祖母とともに日本にいたのですが、日本ではアメリカから来たということで、反対に子供たちにいじめられて辛い思いをしたそうです。両親とも、日米両サイドで不幸な環境にいたのですね。母も祖母も、自分のルーツを忘れてはいけない、祖先がどこから来たかに関係なく、たとえ差別や不公平な扱いを受けたりしても、自分のルーツは恥ずべきことではなく誇るものだと教えてくれました。
 両親は私が3歳の時に離婚し、14歳の時に母が他界しました。翌年、祖母が脳卒中で倒れたため、日舞の先生方に内弟子として入ったり、父と暮らしたりしていましたが、高校を卒業すると同時に兄と2人で独立しました。18歳の時、日本の親戚が心配して結婚話を持ちかけてきたこともありました。でも会ったこともない人と結婚するなんて考えられなかったので、奨学金やアルバイトをしながら大学に通いました。自立しなければならない環境にいたため、教育が重要だと考えたのです。
 弁護士になりたくて、大学では政治について勉強し、ロースクールに入るための試験を受けたのですが、成績は中位で、トップクラスのロースクールには手が届きません。もう1度勉強して試験を受け直そうかと考えていた時、ロサンゼルス市警の予備警察官になる機会を得ました。日舞のために幼い頃から運動を制限されていたため、反対に肉体的なことにあこがれていたのですね。通常のポリスアカデミーは4カ月ですが、予備警察官用は夜のクラスのため9カ月かかります。それまで体力の限界に挑戦するようなことがなかったので、キツかったけれど楽しい9カ月間でした。
(注1)アメリカで生まれた後、日本で教育を受けて戻ってきた2世のこと。

師範の資格を取って
日舞を伝承したい

3歳から稽古を続けている日舞は、17歳で
名取に。「将来は師範の資格を取って教え
たい」(タハラさん)

 大学生の時からアルバイトで働いていた法律事務所で、卒業後はパラリーガルの仕事をしながら、週末はロサンゼルス市のセントラル署でパトロールに従事しました。セントラル署の管轄はスキッドロウ(ドヤ街)があるため危険ですが、リトルトーキョーも含まれているので志願しました。当時はまだ婦人警察官が少なく、しかも日系というマイノリティーで、体格も小柄ですから、自分の能力を証明するには人よりも時間がかかりました。予備警察官は今も続けており、現在は署内で勤務しています。
 ロサンゼルス・カウンティー参事のイヴォンヌ・B・バークは、元々私が勤務していた法律事務所のパートナーで、14年前、政界に進出しました。私には警察での経験があるため、当選後、彼女の事務所へお誘いを受けたのですが、仕事が充実していたので、一旦はお断りしたのです。でもその後も毎年のように声をかけてくれたため、10年前に転職しました。
 公職に関わるのは初めての経験ですが、カウンティーレベルの仕事というのは、人々の生活の向上に直結した問題に、毎日のように取り組むことができるので、実りある仕事だと実感しています。
 日舞は17歳で、三味線と長唄は22歳で名取を襲名しました。今までは時間的な問題などで、とても人に教えるほどの責任は担えないと思っていました。でもアメリカで日舞という芸術を伝承するためにも、将来的には日舞の師範をとって、教えることにも携わりたいと思っています。